ヒヨドリの啼く山のふもとで

1話


 いつの時代も女と女がいれば何かと問題が起こるというもので、それが血の繋がった姉妹であったりすれば尚更である。その日、巴が流刑小屋へ行く羽目になったのも奔放な姉の勝手な言い分のせいで、当然引き受ける前に一悶着があったのだった。
「いやよ」
 自分の代わりに流刑小屋へ行けと姉のおしのに言われ、巴は初め、毅然とした態度でそう言い返した。
「どうして私が流刑小屋になんか行かなきゃならないの。膳を運ぶように父さまから言いつけられたのは姉さまでしょう。私は行かないわ」
 おしのが差し出してきた盆の上には、上等な山菜の煮付けや、猪肉が、めでたい日にしか出さない漆塗りの椀に乗っていた。特に肉など、質素な食事をさせる決まりになっている流人には、普段なら決して口に出来ない馳走だ。
 雪が融け、アサツキが顔を出し、サイチンが囀る季節がやってきた。それでも、山中にあるこの村はまだまだ肌寒い。今日は、訪れた春と、これからの一年の平穏と豊穣を祝うための、春祭りの日だった。

 天下分け目の戦いにて、日本の政の中心が大坂から江戸へ移ってはや百年ほどの時が過ぎようとしていた。北陸の山奥の奥にある小さなこの村は、多賀藩(たがはん)領の果てである。険しい山々と、谷と、川に囲まれた秘境は、江戸に幕府が開かれて暫くした頃に、多賀藩の流刑地として定められた。花沢(はなざわ)城下町の公事場でお裁きを受けた罪人が、山を越え、谷を越え、川を越え、永い道のりを経て、流人としてこの地へやってくる。
 巴とおしのの父である長兵衛ちょうべえは、この村を代々束ねる肝煎りと呼ばれる役目を負っていた。流人は藩からの預かり物であり、その世話をすることで藩から援助をされている。流刑に処された罪人の衣食住は、藩に決められた必要最低限のものしか与えられないことになっている。だが長平衛は、情の深いところのある男で、今日のような祝い事のある日は、流人にも馳走を分けてやろうと計うのだ。

 おしのから差し出された膳を頑として受け取るまいと、巴は両手を後ろで組んでおしのから距離を保った。きつく唇を結び、巴より少し上背のある、今年十七になった姉の顔を睨みつける。威嚇のつもりで――しかし、勇ましく姉に逆らおうとしていた巴の気概は、あっという間にもろくも崩れ去った。というのも、巴のその言葉を聞いたおしのが、見る見るうちに目をつり上げたからであった。
 おしのは、村の誰もがみとめる美しい娘だった。白い肌、切れ長の目、知性と色気の両方が宿る唇、気品のある立ち姿。美しさは、怒りを湛えた時に更に増す。そして同時に、すごみを持つ。巴は強気で姉の申し出を断ってみたものの、その迫力にすでに身がすくむ思いでいた。
「わがままばっかり言うんじゃないわよ。私は今日はあそこに行く気分じゃないの。祭りの料理をちょっと差し入れるだけなんだから、さっさと行ってきなさいよ」
「わ、わがままって、それは、姉さまの方……」
 あんまりなおしのの言い分に、巴は思わず反論しようとしたが、不機嫌そうなおしのの視線と口調にすっかり萎縮して、弱々しい声音になってしまった。そんな巴に、追い打ちをかけるようにおしのは更に畳みかける。
「だいたいね、流刑小屋に膳の一つも運べなくて、あんた、十四にもなって、肝煎りの家の娘のくせに、どうするつもりなの。いつだって、怖いだのなんだのって、ろくに家の手伝いもできないで、まったく、出来の悪い妹を持つと、ほんとうに嫌になっちゃうわ」
 この言葉に何も言い返せなくなってしまったのは、それが、日頃から巴自身が思っていたことでもあったからであった。肝煎りの家は流刑小屋に配された流人たちの世話をしている。だから多少の交流があるのは常なのに、巴は今までそう言った仕事があっても逃げてばかりいた。怖かったからだ。だが、本当なら、いつまでもそうしていてはいけないはずだった。
 巴はおしのの顔を見つめる。美しい姉が完璧なのは、容姿だけではなかった。賢く、歌がうまく、どんな人ともすぐに打ち解け村の中でも顔が広い。村中の人と気軽に言葉を交わしている。人見知りで、ごく血の近い親戚としかろくに話もできず、物覚えが悪く、祭りで歌や踊りを披露する機会があっても手足やのどがふるえてろくな演舞のできない巴にとっては、あまりにまぶしい姉だった。
「大丈夫よ」
 と、唐突におしのは言った。険しかった表情がほんの少しゆるんだ。ほんの少しゆるんだだけなのに、その顔も声音もずいぶんと急に、優しそうな印象に変わる。この表情の鮮やかな変化に、思わずこちらの心まで揺さぶられてしまう。村中の男が姉に翻弄されるのも頷ける、と巴は思ってしまう。
「お締まり小屋に来るような人ならともかく、平小屋の人たちはそんなに怖くないわよ。さっさと運んで来ちゃいなさい」
 その優しげな、励ますかのような姉の言葉に、つられるようにして気が緩んだ巴はつい、一番の気がかりだったことをこぼした。
「だって、だって……最近、京から来た流人がいるって言うじゃない。どうして多賀藩の流刑地であるこの村に、京の人なんかがいるの? よほどの悪いことをしてここまで流されて来たとか――」
 そこまで言い掛けたところで、突然、おしのは無言で、手に持っていた膳を勢いよく巴の胸元までつきだした。その勢いに、巴は思わず、何も考えるまもなく反射的にそれを受け取ってしまった。受けとってしまってから、しまった、と思ったが、もはやどうしようもなかった。再び不機嫌になったおしのが、とてつもなく威圧的な口調で、命令した。
「さっさと行きなさいよ!」

 * * *

 日はすっかり沈もうとしていた。雪解けに伴って青々としてきていた山々の尾根もすっかり闇に融け混みかけている。春の祭りは続いていた。村中のあちらこちらから笛が、三味線が、太鼓が、そして歌が聞こえてくる。
 山間の、川と谷に囲まれた小さな小さなこの村は、昔から歌と踊りを愛しており、こうして季節の折々に祭を開いては様々な音楽を夜通し奏でている。巴も、生まれたときから、うたに、踊りに、囲まれて育ってきた。
 茅葺きの急な斜面の屋根が特徴的な、合掌造りと呼ばれる家々が並んでいる。巴はその合間を急ぎ足で通り過ぎる。日中も日の当たらないような、木々が翳る箇所を通ると、寒さに思わず身震いしそうになる。
 流刑小屋は、村の中でも、民家の立ち並ぶ場所より少し離れた場所に建てられている。この村が流刑地として指定された時に建てられたものだから、築百年ほどで、改修や増築などもされていない寂れた建物だ。木の壁は痛み、吹き替えのされたことがない屋根もみすぼらしい。それが見えてきて、巴は思わず立ち止まった。あの扉を開けるのが怖かった。
 流刑小屋にいる流人は現在三人だ。五十年ほど前に、多賀藩のお家騒動でお裁きを受けたお侍の、倅だったという年老いた男が二人と、今年の冬が終わると同時にやってきた、若い男が一人だった。老人二人のことは、巴も知っていた。花沢の武家の出とだけあって、年老いてもどこか品のある柔和な印象の二人だった。教養もあることから、村の子ども達に文字の読み書きを教えているので、村人たちからの評判も良かった。若い男のことはまだ何も知らない。やってきた当日の晩、噂好きの女中たちの言葉を聞いて巴は震え上がったのをよく覚えている。
「京の男らしいですよ」
 と若い女中が言うので、年輩の女中頭が眉を顰めた。
「そんな馬鹿な話があるわけないよ、ここは多賀藩の流刑地なんだから」
「でも、籠の渡しを手伝った喜之助が、話しているところを聞いたんですって。いつも多賀藩のお役人さんが喋ってるのとは、全然、別のお国の言葉だったんだって」
 不穏に思えるこの話に、巴は怯えながら加わった。
「どうして、どうして京の人が、来たのかしら」
 震えながらそう聞く巴を、陽気な若い女中が面白がって、
「どうでしょうねえ、京でよほどの重い罪を重ねて、それでも何らかの事情で死罪にはできないってんで、あちこちに流された挙句ここまできたのかもしれませんよ?」
 などと脅すので、その晩、巴は恐ろしくて恐ろしくて眠れなかったのだ。
 今巴の目の前にある流刑小屋は、平小屋と呼ばれている。そこに住む流人は、自由に小屋を出入りして生活してよいことになっている。どうせ逃げようとしたところで、橋のない川と谷に阻まれ、この村から出ることは決してできないからだ。それでも、かなりの重い罪を犯した者は、村の更にはずれにあるお締小屋と呼ばれる一畳半ほどの小さな小さな小屋に閉じこめられ、一生そこから出ることは許されない。巴が物心ついてからそこに人が住んでいたことは一度もないのだが。
 平小屋の障子の窓から明かりが漏れていた。普段は平小屋の流人たちは自由に出入りをして村人と交流をしているが、村の祭の日は、小屋から出てこない習慣になっている。そういう法があるわけではないが、長く小屋にいる二人の老人は、自分たちがあくまで村の外の人間であるからと、そのように、自分たちを戒めているようであった。そんな二人だからこそ、父の長兵衛は、祭のためにこさえた馳走を食べさせたがるのだ。
 巴は黄ばんだ障子が明るくなっているのをじっと見つめながら、未だ戸を開けるのを躊躇していた。あと十歩ほどでそこまで辿り着くのに、勇気が出なかった。
 膳を持つ自分の腕を見る。それから、服を……足下を……。祭にあわせて、普段はそんなに着ない、一等お気に入りの着物と草履を下ろした。そうして、こっそりと姉に負けまいと練習した歌と踊りを披露するつもりだったのに、結局、緊張のせいで上手くできなかった。気負って臨んだだけにかなり落胆したが、家の者も、親戚も、集まってきた小作人たちも、いつもと変わらぬ巴の冴えない歌と踊りとしか思っていなかった。本当に冴えない日だった。一張羅を着たのに、結局いつも通りの冴えない自分だった。挙句、まだまだ祭は続くというのに、一人だけ姉に押しつけられた膳を持って、流刑小屋の前で佇んでいる。惨めだ――気づけば唇を噛んでいた。
 その時、突然、大げさに木と木のぶつかり合う音が辺りに響いて、思わず巴は肩を震わせる。盆の上の椀や皿がひっくり返らなかったのは幸いだった。顔を上げると、流刑小屋の戸が開いていた。中から明かりが漏れているはずなのにそれほど眩しいと感じなかったのは、それを塞ぐようにして立っていた男のせいだった。
「なんや、俺らに用でもあるんか」
 巴は、予想外のことに戸惑いを隠せないまま、言葉を失って立ち尽くしてしまった。
 突然現れた見知らぬ若い男の言葉は、巴のこれまで十四年の人生の中で、聞いたことのないものだった。滑らかで、まるで歌っているかのような音の高低と抑揚が、妙に耳に心地よく、しかしあまりにも聞き慣れないものだったために、その内容を理解するのに時間がかかってしまった。
 顔立ちも、やはり、見たことのない類のもの顔だった。真っ先に驚くのはその白い肌だ。もうじき完全に夜になろうとしているこの薄暗がりの中でもわかるほどに、透き通る白い肌だった。切れ長の目は静かにこちらを見ていて、隙がなく、気品があり、よく見れば年の頃はおしのと同じ十七、八くらいにも見えるのに、随分と大人びた印象を受けた。佇まいもそうで、特別にがたいが良いわけではない――それどころか、毎日畑仕事や力仕事に精を出しているこの村の男たちに比べれば貧弱と言っても良いぐらいなのに、それよりもずっと、ただ立っているだけで妙に存在感があった。何よりも、その姿が、まとっている空気が、美しかった。巴は、緊張で盆を持つ手が再び震え始めそうになるのを感じた。この目の前の男が、女中たちの噂していた新入りの流人であることは明らかだった。京の男なのかどうかは未だ断じられないが、少なくとも多賀の人間ではなさそうだった。どんな恐ろしい男かと思って怯えていたのに、想像の中の怪物のような極悪人とはあまりにかけ離れた、美しく品のある華奢な男で、それが、新たな戸惑いに変わった。体が震えそうになるのは、怖いからなのだろうか、と思う。逃げ出したくなるような気持ちで、巴は口を開いた。
「ゆ、夕餉を持ってきたのです」
 自分の声が情けなくか細く震えていた。遠く離れた村の中心からかすかに響いてくる祭の歌声にすらかき消されてしまいそうだった。
「ほうか、そりゃあ、わざわざすまんかったなあ」
 労うような男の言葉に、巴は弾かれるようにして歩み出した。理由はわからないが、何故だか急に胸が押しつぶされているような苦しさを覚えた。思ったほど怖い容姿の男ではなかったのに、ここへ来る前までとはまた違う、緊張感が全身を支配していた。
 男のすぐそばまで歩み寄って、震えの止まらないまま、巴は膳を差し出す。
「ありがとさん」
 男は柔和な笑みを浮かべて、そう言った。その口調に似合う、品のある微笑だった。覗き込まれるようにしてそう言われて、巴は全身がかっと熱くなるのを感じた。じんじんと痛み出した耳を押さえたくなって、思わず膳から手を離すと、男の手にすべての重さを預けていなかったそれが、かすかに傾いた。
「――おっと、」
「あ、ご、ごめんなさいっ!」
 崩れかけた盆を支えようと姿勢を崩した男を見て、巴が思わず悲鳴を上げる。間一髪で盆の上の夕餉を無事に守れた男が、小さくため息をつきながら困ったような表情を浮かべる。
「気ぃつけや」
「ご、ごめんなさい……」
 うつむきながら体を堅くする巴に、男は言った。
「あんた、新しい女中かなんかなんか? 昨日の姉ちゃんはもう来ぇへんのか」
「――え?」
 男の言葉は耳に心地がよい口調である一方で、耳馴染みがなさすぎて何を言っているのかわかりにくかった。口元や顔の表情を見ずに聞いていればなおさらだ。とっさに理解できず、巴は反射的に聞き返していた。
「昨日、膳を運んできた、姉ちゃんや。あの娘は、もう、ここには来ないんか?」
 今度はゆっくり、はっきり、巴の目を見て、男は問いかけた。巴にも問いかけの内容が理解できた。おしののことだ、と思うと同時に、失望と惨めさが、自分の胸に広がっていくのを巴は感じた。他の男たちと同じだ、この流人も、おしのの美しさに一目で奪われたのだ。そして、一晩おしのを待ちわびていたのに、巴が代わりに来たことにがっかりしているのだ。そう思うと、胸がしくしくと痛んだ。何故こんな思いにするような言葉を、わざわざ聞き返して2回も聞いてしまったのだろう。
「あ、姉は、その、今日は用事があるって、それで」
「ああ、あの娘の妹はんなんか」
 よくあるように、姉妹なのに似てない、とでも続くかと思ったが、そうはならなかった。でもきっと、そう思っているに違いない。姉に似ず冴えない顔立ちの自分に失望しているのだ。
「もう、来ませんから」
 と巴は思わず言い放った。自分でもどうしてそんな事を言ってしまったのかわからなかった。妙に大きな声になってしまったことに、自分で驚いていた。男がきょとんとしていた。
「なんでや」
「姉が、来ますから、きっと、明日は」
「はあ、まあ、それはええけど――」
 かすかに戸惑うように男は首を傾げながら、男は突然思いついたように、尋ねた。
「あんた、名前は?」
 この思いがけない問いに、巴は面食らった。どうしておしのが来ない事にがっかりしている男が、突然に時分の名前を尋ねたりするのだろう。そう思いながらも、巴は答えた。
「巴、ですけど」
 男は少し意外そうに眉をつり上げた。百姓の名前にしては珍しいとでも思ったのだろうか。少なくとも、この流人は百姓の出ではないような気が、する。少しの間を置いて、男は返した。
「そりゃ、伝説の白拍子の名やな」
 知っているのか、と巴の体に緊張が走った。京の男なら知っていて当然なのかもしれない。そんな事を考えていたら、男が、ぽそりと、それをなぞるように、言った。
「巴、か。ええ名やんか」
 その美しい声音と、口調で、自分の名を呼ばれた瞬間、巴は、なんだか体の震えと熱が止まらなくなって、思わず、駆け出した。なんだか、理由もなく、恐ろしくてたまらなくなって、その場にいられなかったのだ。背後から自分を呼び止めるような声がしたような気もするが、構わず、自分の家に向かって走った。
 やがて祭の喧噪がうるさいほどに聞こえてきて、幾人かの村人に声をかけられたが、何も返せずただ走り続けた。すっかり息があがっていて、自分の呼吸の音で村人たちの歌などろくに耳にも入らなくなってきた。自分の部屋に駆け込む。流刑小屋につくまでは多少肌寒かった気がしたのに、今は熱くて熱くてしようがなかった。ふとのぞき込んだ鏡には顔を火照らせている自分がいた。走ってきたせいで結ったはずの髪が乱れていた。着物もだ。春祭が始まる前の期待感など何もなかった。どうしてこんなことになってしまったのだろう。胸がつぶれそうだった。



Copyright(C)2014- 碧 All rights reserved. designed by flower&clover
inserted by FC2 system