二話

ヒヨドリの啼く山のふもとで


 巴の名は、男の言ったとおり、伝説の白拍子・巴御前に由来する。それは、この村で代々受け継がれてきた名前だった。三百年前、その血を引く武将が、戦に敗れてこの地に逃れてきて以来、その慣習が続いていると言われている。
 巴の住むこの鴨村(かもむら)を含む、六ッ谷(むつだに)と呼ばれる地方は、飛騨は烏帽子(えぼしだけ)を水源とする御神川(おがみがわ)の上流域にある六つの谷の総称である。険しい山々と谷川の激流の合間合間に、小さな集落が点在している。あまりに山奥にあるため、長らく中央の支配が届かず、村の興りや歴史について詳細な記録は残っていない。言い伝えでは、鴨村の北にそびえ立つ掬ヶ山(きくがやま)は、菊理媛命(くくりひめのみこと)という媛神に由来する霊山だとされるため、最初にここに住み着いた人々は、密教の修験者だったのではないかとも言われるが、定かではない。
 掬ヶ山には菊理媛を祀る社があり、三百年前まで、鴨村の長の娘を一人、巫女としてそこに捧げる習慣があった。ある時、菊理媛からのお告げを伝えに、巫女が下山してくる。
「越中平野で大きな戦があり、明日の暮れ、破れた武将らがこの地へ逃れてきます」
 険しい山を切り開き細々と暮らしてきた小さな村々だった。これ以上の大人数、しかも都で刀を振るってきたような血気盛んなもののふ達など、到底受け入れられない。六ッ谷の村長たちは一晩の話し合いの末、武将達がここへ来ても追い返そうと決めた。
 だがその翌晩、村人たちの心は揺れた。長らく武士というものを見たことのなかった人々は、どんな獰猛で残忍な乱暴者たちがやってくるのかと思っていたが、村にやってきた男たちは、泥と血で汚れた鎧をまとってはいるものの、華奢で、どこか気品のある姿をしていた。そんな男達が、あまりに疲れ弱り切った様子であったため、その場ですぐに追い返すのは忍びないと思い、客人として、一晩だけ村に招き入れることとなった。
 男たちは武装を解き、村の人々に深く感謝した。村人達は、山奥の小さな村でできる限り、酒と馳走を出し、疲れ切った哀れな客人をねぎらった。大将であったという男は、加茂重衡(かものしげひら)と名乗り、このように語ったと言う。
「私たち加茂氏の一族は、武家の一門でありながら、帝の覚えもめでたく、殿中で重用されるようになり、政に深く関わって参りました。私の祖父は武家の出としては初めての太政大臣となり、叔母は今上の帝の生母でございます。祖父は先年亡くなり、私の父や伯父たちがその跡を継ぎました。このように力を持った我が一族を、他の武家たちは快く思わなかったのでしょう。橘氏と申します一門が先鋒となり、我が一族に対し兵を向けました。祖父が権力を持つようになってから、この日の本の国では戦と言うほどの大きな戦は殆ど起こっておりません。お恥ずかしいお話ですが、公家に混じって政や殿中の華やかな行事にばかり身をやつしていた我が一族は、武家でありながら戦の備えが十分にできてはおりませんでした。私は越中平野にて橘氏の一門と刃を交えましたが、二晩と持たずここまで逃れてくることと相成りました」
 事情を聞いた村長は、心苦しく思いながらも、この村で加茂氏の落ち武者たちを匿うことはできないと切り出した。加茂氏の大将は神妙に頷く。
「それは致し方のないことでございます。突然押し掛けたにも関わらず一晩こうして休ませていただけただけでも、ありがたく思います。ともすればここに橘の兵が我々を捜して押し寄せてくるやもしれませぬが、その時は私がこの地で果てた証としてこれを差し出していただきたく思います」
 そう言うと男は脇差しで自らの頭髪を無造作に切り落とし、懐紙で包んだ。そして優雅な動作で立ち上がると、村長の家の外へと歩み出る。その姿は、京での所作について知らぬ山奥の村人達でも、一目でこの男は高貴な人なのだと感じられるものだったと言う。
「こちらの掬ヶ山は、神山と聞いております。最期にこの地に舞を捧げたく思います。私の母はかつて京で名を馳せた白拍子で、その歌や舞を見て育ったせいか、恥ずかしながら、幼い頃より武芸の稽古より歌や舞を覚えることばかりに夢中になって参りました。それも最期にここで披露できるのならば悪くはない」
 そう言うと男は、日も暮れて暗くなった村で舞を披露した。険しい山の冷たく堅い大地を踏みしめ、蹴り、跳ぶ。村の人々はその姿に心奪われ、言葉もなく見つめていた。それは神が降りたかのような、尋常ではない美しさであり、山々の自然や霊力が渾然一体となって男のひとつひとつの所作に乗り移っているのだった。
 男が舞を終え、いよいよ腹を切ろうという段になって、村長の娘でもある巫女が、それを止めに入った。
「ここで命を捨てることはありません。あなた様のすばらしい舞に、菊理媛さまはいたく心を動かされました。橘の兵はここまではやっては来ません。あなた方が驕ることをやめ、刀で人を傷つけることをやめ、京での華やかな日々を忘れこの山での静かな暮らしに身をやつすつもりがあるならば、菊理媛さまがあなた方を守ってくださいます」
 このようにして、加茂氏の落ち武者達は刀を鍬に、槍を鋤に持ち替え、この地の人となった。
 男と巫女はやがて結ばれ、その子が次の村長となった。村長の嫡子には長兵衛と名付けられる。また、長の家に生まれた、歌と踊りの素養があるものは、男の母の名にちなんで巴という名が受け継がれる習慣が、いつからか始まった。

 先代の巴は、一昨年に亡くなった巴の祖母であった。村一番の美声の持ち主で、年老いても、歌を歌えば村中の人の心を奪い、踊りを踊れば誰もがそれに見惚れたものだった。
 巴の母は巴が物心ついたときには病に臥せっていて、巴は幼い頃から祖母にばかり懐いていた。祖母はよく巴に歌を教え、踊りを教え、昔話を聞かせた。また、祖母のそばにいると時折、不思議なことが起こった。他の誰もが予想できなかった空模様の変化を言い当てたり、谷川の向こうの村で十村役(とむらやく)が亡くなったことを便りが来る前に知っていたりとか、そういうことだ。それから、夜、祖母と同じ布団で眠っていると、不思議な夢を見ることがあった。
 一度、こんな事があった。いつものように祖母の布団にもぐりこんでうとうとしているうちに、巴は気付くと見たことのない場所にいた。そこは穏やか小川のほとりで、辺りには、巴の見たことのない鮮やかな黄色い花が咲き誇っていた。一面が輝く黄と、瑞々しい緑と、水の世界だった。見知らぬ場所に一人でいるのにも関わらず、夢の中の巴は不思議と怖さや不安は抱いてはいなかった。小川の音に耳を傾ける。鳥は鳴かず風も吹かない静かな場所だった。そのうちに暇を持て余した巴は、ひとり馴染みの歌をうたう。
 
 まどのさんさもでででこでん
 はれのさんさもでででこでん
 
 その頃巴はまだ数えで六つ、祭があっても囃子しか歌えなかった。いつも口ずさんでいる節が、誰もいない水場に響いている。よく響くと上手に歌えているような気分になって、巴はなんだか嬉しくなり、いつも祖母が歌っている歌の部分をおぼろげな記憶を頼りに思い出しながら歌ってみた。
 
 おもいと こいを ささぶねに のせりゃ
 おもいはしずみ こいはうく

 その時、ずっと眩しいぐらい晴れ渡っていた空が、突然翳り、薄暗くなった。巴がふと身構えると同時、誰もいなかった花畑に、見知らぬ女が現れ、小川の流れにそってふらふらと歩いていた巴の行く手を阻んだ。
「あんた、またここに来たの」
 十六、七と思われる女は、巴のそれまで見たことのないくらい美しい顔をしていて、美しい声をしていて、美しい着物を着ていた。山と谷川に閉ざされた小さな鴨村に暮らしていて『見知らぬ人』に出会うというのは、新入りの流人以外が来たとき以外ではほぼあり得ないので、巴は最初、恐怖で何も言えず固まった。
 女の肌は、日に当たったことがないのではないのかと思うほど透き通る白色で、長い髪は艶やかで空の光を受けて輝き、切れ長の目は涼やかで鋭かった。鮮やかな赤色の着物は、巴の見たことのない生地でできていた。村の人々は皆綿織物の着物を着ていたが、明らかにそれとは違った。
 戸惑いと怯えで固まる巴の様子に構うことなく、飄々とした様子で、巴の顔を覗き込んだ。
「まだ小さい割りに、良い声してるじゃない。でもあんた、意味がわかって歌ってんの?」
 巴は声を出せないまま首を傾げた。ただ祖母の歌を思い出しながら真似ただけだったので、意味を考えたことなどなかった。
「って、わかるはずもないか」
 そう言われて、巴は怖いと思いながらも聞き返した。
「わからないの、だめ?」
「そうねえ」
 女は腰をかがめて巴の目を覗き込んだ。潤んだ目は澄んでいたが、じっと見つめられるとどこか薄ら寒い気分になるものがあった。この人は人ではないのではないか、と幼い巴は理屈なしに感じた。
「だめじゃないけど。あんたが歌うにはまだ早いんじゃないの」
 そう言われて、巴は悲しくなって目を伏せた。頭上から女の声が降ってくる。
「歌っちゃだめって言ってるわけじゃないのよ。あんた、筋は良いんだから、大きくなったらもっとよく歌えるようになるんじゃない?」
「ほんとう?」
 巴がふと顔を上げると同時に、目に飛び込んできたのは見慣れた、黒ずんだ寝室の天井だった。窓の外から日の光が漏れて入ってくるのを感じる。巴は状況がよく理解できず、隣で寝ている祖母を揺り動かして起こした。目を覚ました祖母は優しく巴の髪を撫でながら起き上がる。
「どうしたい」
「おばあちゃん、知らない女の人に会ったよ。黄色いお花がいっぱい咲いているところに、知らない女の人がいたよ。それでね、ちょっとだけ、私の歌、褒めてくれたの」
 幼い巴の要領の得ない話を、祖母は辛抱強く聞き、そして、説明してくれた。
「それは、掬ヶ山のお宮さまだよ。黄色い花は山吹の花だ。菊理媛さまは現世(うつしよ)黄泉路(よみじ)の境に住んでいらっしゃって、そこには山吹の花がいつも咲いているのさ。それから、お前は前にも一度、お宮さまには会っているはずだがね」
 それから少し何かを考えるように押し黙ってから、もう一度巴の頭を撫でて、続けた。
「そうかい、菊理媛さまはお前の歌を褒めて下さったのか。お前はお宮さまとこれからも縁があるのかもしれないね」
 それが、巴がまだ数えで六歳の冬のことだった。村では七歳になるまでは幼名を名乗り、その後に正式な名前を与えられる慣習があったので、歳が明けるまで、巴はまだ名無しだった。その次の春祭りの時、祖母は、巴の名を譲る、と言い出した。
 巴はその時とても驚いたし、身が竦んだ。歌や踊りなら姉のおしのの方が既にずっと上手かったので、それを差し置いてその名を継ぐなど、考えられなかった。突然たいそうな名前をつけられてしまったことが恐ろしくて、巴は祖母にその戸惑いをぶつけた。美しく、おおらかな祖母は、その時も巴の髪を優しく撫でながら、言った。
「おばあちゃんにはわかるんだよ。お前は今に、村で一番の歌い手になる。必ずね」
 それからしばらくして、秋が来る前に、祖母は突然倒れて亡くなってしまった。



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