三話

ヒヨドリの啼く山のふもとで


 夜通し行われた春の祭が終わった。まだ冷たさを孕む皐月の早朝の空気が肌を刺す。村人のほとんどが疲れて眠っている。働き者の村と言われるこの村でも、春祭のよく朝だけはこのような怠惰が認められる。静かな朝だった。
 巴は、眠りこけている厳格な父親と、昨夜遅くまで行方を眩ませていた姉を起こさぬように、そっと家を抜け出した。
 戸の向こうから既に白くなった陽光が飛び込んできて、巴は思わず目を細める。布団に潜ったところでなかなか寝付けなかった巴の頭と目は疲れ切っていた。やがて眩しさに慣れたところで、眼前の風景を見渡す。見慣れた合掌造りの家々が立ち並ぶ。その合間合間に広がるのは、蕎麦や粟や稗、根菜やわさびなどのわずかな野菜の畑だ。勾配のきついこの山では水を引くことが難しく、米を造る田を造ることができない。白米や青菜は役人に定められた取引で平野部の集落と取引をして手に入れる。海の魚は、巴は食べたことがない。川魚を取ることも、公には禁じられている。
 村の端から端までは半刻もあれば徒歩で回れる。小さな村だ。村の終わりは地続きの終わりだ。深い急流の谷川が行く手を阻む。かつてこの集落に加茂氏を受け入れた橋は、ここが正式に多賀藩の領地となった際に取り壊された。流刑地にするため、他の集落との行き来を制限したのだ。谷川には蔓が渡され、大人二人を乗せるのがやっとの大きさの、藤蔓製の籠を走らせる。これによって、やむを得ず他所と行き来をせねばならない時の移動手段とする。大の大人でも肝の冷えるほどの危ない乗り物だ。当然のことながら、未だ十四である巴は一度も乗ったことがない。
 この小さく静かな村で生まれた巴にとって、この村の中が全てで、ここで大人になって、ここで生活を営み、この村だけ全てと思ったまま、死んでいくしかないのだと初めから決められていた。時折説法にやってくる僧侶や、何年かに一度ごくごく稀にやってくる流刑人を覗けば、この村に住む人間はみんなそうだ。そして、そういった人々というのは、およそ巴の関わるところではない人だった。遠い遠い処から来た人々。訊き馴染みのない口調、見慣れない顔立ち、白い肌、柔和な仕草――
 突然、昨夜会ったばかりの新しい流人の姿が脳裏を過ぎって、巴ははっとした。思い返すだけで、どうしてだか、胸がつぶれそうになる。きっと、未知のものとの出会いで、恐怖を覚えたのだ。
 ――関係ない、村の外から来た、よその人だもの。私には、これからも、関係のない人だから――
 必死にそう言い聞かせながら、巴は、何気なく村の辺りを歩きまわり始めた。じっとしていられない気分になったのだ。すっかり明るくなったというのに、村はまだ寝静まっていた。人っ子一人見あたらない。風が吹けば少し体が震えた。村の中の雪は全て融けたというのに、今年の春はどこか肌寒い。この分では、春の、夏の、今年の収穫はいっそう少なくなるかもしれない。
 青々とし始めた村の畑を眺めながら歩いているうちに、村の西端である険しい谷まで来てしまった。流人が着たばかりの年は、父が見張り番を置くことも多いが、今日はここにもやはり誰もいなかった。切り立った崖の縁におそるおそる歩み寄ってみる。誰かがいれば危ないからと止められそうなものだったが、今日は特別だ。谷を覗き込むと、急な流れの恐ろしい川が見えた。村の北方にある小さな小川や、中心の寺にある井戸で嗅ぐのとは違う、冷たい水の匂いがする。落ちればひとたまりもないとわかっているのに、じっと激しい波で白濁した川面を見下ろしていると、なんだか急に吸い込まれてしまいそうな、そんな引力を唐突に感じる。もっと深いところまで見てしまいたくなった自分に気づいて、巴は慌てて顔を引っ込めた。心臓が強く鳴っていた。ここは死の淵かもしれない。自分は、そこに触れるには未熟すぎる――
 慌てて崖から離れ、村の方に振り返った。崖から数歩でも離れれば、急流の水音など全く聞こえなかった。鳥すら鳴かない山奥は寂しいほど静かだ。数尺先を、鮮やかな黄色の、小さな蝶々が飛んでいた。春だ、と思った。それに導かれるようにして巴は、村の方へ戻ろうと歩み出した。もうじき村人たちも起床しだて、遅めの畑仕事を始めるはずだ。巴もそれを手伝わなければならない。肝煎りの父が起きるまでに戻った方がいいだろう。仕事もせず一人でふらふらと出かけていたことがばれたら、叱られてしまうかもしれない。
 そんな事を思いながら、わずかに坂になっていた道を戻り始めた時、ふと、何気なく、巴は一度、崖の方を振り返った。それは、予感だったのだろうか。先ほどまで誰もいなかったはずのそこに、人影がぽつりと立っていた。村人たちの全てが子供の頃からの顔なじみで、昔からいる流人二人のことだって、よく見かけるから知っている。そのうちの誰でもない後ろ姿だった。どうして急に現れたのだろう。巴が来たのとは別の道からここに辿り着いたのだろうか。いや、そんなことはどうでもいい。
「――だめっ!」
 巴は衝動的に人影に向かって走り出していた。
 白い浴衣を来たその後ろ姿が、妙に頼りなく、まるで白昼の光にとけ込んでしまいそうなぐらいに儚げに見えてしまって、そう思った瞬間、なにを考える間もなく、止めなければならない、と思ってしまったのだ。
 急に方向を変えて無我夢中で走り出したので、草履が途中で脱げてしまったが、気にしている暇はなかった。左足が硬い土に触れてずいぶんと痛い。その人影が巴に気づいて振り向いたのと、巴がその背中を握って思い切り自分の方へ引き倒したのは同時だった。
「う、わっ、なんや!?」
 聞き馴染みのない、でも聞き覚えのある、声が聞こえた。次の瞬間には地面に倒れ込んでいた。男は抵抗したようだったが、不意のことだったので持ちこたえきれず、巴と一緒に倒れてしまった。
 地面の冷たさと、それとは正反対の人肌の温もりに挟まれ、体に痛みを覚えながら、巴はとっさに堅く瞑ってしまった目を開いた。果たしてそこには、昨晩出会った新しい流人が戸惑ったような表情で至近距離から巴の顔をのぞき込んでいた。地面に仰向けに倒れ込んでいる自分に覆い被さっている格好で――
 それに気づいた巴は、今度は反射的に叫び声をあげた。
「いやっ! だ、だめ、だめです!」
「うおあっ!?」
 火事場の馬鹿力というやつか。この状況から逃れたい一心で、巴は流人の胸を全力で押す。自分より一回り背も高く、二、三歳は年長であろう男は、あっさりと巴の上から退いて横に転がっていった。
「な、なんなんや、一体」
 息を荒げながらそうつぶやき、流人がゆっくりと起きあがる。白い着物は土で汚れ、髪もすっかり乱れていた。慌てて体を起こした巴は、それでもどこか他の村の男たちとは絶対的に違う男を纏う空気感のようなものに注意を奪われ、しかしすぐにはっと我に返って、当初の目的を思い出し、再び青ざめて流人の元へ這い寄った。袖を握る。転んだときに地面に手をついていたらしい。握った男の着物の袖に泥が付いた。
「だめ、です、馬鹿なことを考えては、だめです!」
「は、はあ? なんや、藪から棒に、馬鹿なことて……」
 呆気にとられたように目を丸くしている流人と改めて目が会って、巴は、なんだか急に冷静になって、このぽかんとした表情の男が、とても崖から落ちて自ら命を絶とうとしている風にも見えないことに気づき、急にかっと頬が熱くなるのを感じた。
「ご、ごめんなさい、私、てっきり、だって、一人でふらふらと、崖の方へ歩いていくから……」
「あー……ああ」
 自分の勘違いに気づいて、恥ずかしさのあまりしどろもどろと小声で弁解する巴に、男は少し驚いたように、しかし同時に納得したように、頭をかきながら頷いた。
「俺が、死のうとしとるように見えたんか」
 死、という直接的な表現に一瞬身がすくんだものの、巴は黙って頷いた。
「単に人がおらんで暇やったから、ふらふら村の散策しとっただけや。しかし、随分必死になって心配してくれたもんやなあ。俺なんぞ、ただの流人やで。勝手に死のうが何してようが、関係ないんと違うんか?」
 何気ない疑問を口にするような調子で流人がそう言うので、巴は思わず反論した。
「ただの流人じゃありません、流刑小屋に入る人たちは、私たちが多賀藩からお預かりした大事な人たちです。万が一のことがあれば、責を負うのは肝煎りである私の父なんです」
 事実、五十年前、この地に流され隣の村の締小屋に入れられていた政治犯が、何らかの方法で刃物を手に入れ自決してしまった事件があった。その時の肝煎りは花沢まで連行されて多賀藩の取り締まりを受け、散々拷問されたあげくに処刑されたのだ。流人の自害や不慮の死は村人たちにとってもただごとではないのだ。
 必死になってそれを説明した巴に対して、今度は男がばつの悪そうな笑みを浮かべた。
「ほうか、そりゃあ、そうやなあ。こんな山奥へ流されて、俺の人生ももう終わったもんかと思うてたけど、俺は今、あんた方の生活に組み込まれたんやなあ」
 言いながら、男は未だ地面に膝をついたままの巴にすっと手をさしのべた。
「ほら、もう大丈夫やから。起きぃや」
 あまりに自然に差し出されたその手に、吸い込まれるようにして自分の手を差し出す。立ち上がって、至近距離で立っていることに気づいてしまってから、巴は動揺し、慌ててつないだ格好になってしまった手を振り払った。そんな巴の様子に構うことなく、男は笑って、言った。
「すまんかったなあ。せやけど、もうあんた方に迷惑かけるようなことはせぇへんさかい」
 無表情でいれば幾分か涼やかな顔立ちも、目尻が下がると急に優しそうに見えた。その言葉を聞いた途端、なんだかその場にいられなくなってしまって、巴は男に背を向け、全力で坂道を駆け上がった。

 * * *

 草履が片方脱げたままであったことに気づいたのは、自分の家に帰ってからだった。台所から朝餉を持ってやってきた女中頭と入り口で鉢合わせ、驚かれたのだ。
「一体どうされたのです」
 足下を見ると、着物も泥まみれだし、草履の脱げていなかった右足も汚れていたが、左足の汚れと切り傷はそれ以上にぎょっとして当然の有様だった。弁解する言葉を必死に探していると、奥の間の方から突然に父と姉の言い争いの声がしてきて、女中頭はそちらに気を取られたようだった。その背中に、お父さまには何も言わないで、と小声で言い放つと、巴はこっそりと庭先の水場へ回って、足を洗った。代わりの草履を下ろさなければ、と手ぬぐいで足をふきながら考えていたところに、怒り顔のおしのがやってくる。
「巴、あんた、どこに行ってたのよ。昨日の流刑小屋に持って行った膳、下げに行ってきなさいよね」
 少しだけ声が枯れているように聞こえるのは、昨日一晩中歌を歌っていたからだろうか。少しだけ顔もむくんでいた。それでも、元々の顔の作りが冴えない巴に比べれば、おしのの美しさなど比べものにもならない、と巴は思う。そういえば、先ほどの男も、服が汚れ髪が乱れても、独特の気品ある佇まいだった、と唐突に思い出し、それと同時に、昨夜、おしのは来ないのか、と聞かれたことも連鎖的に脳裏を過ぎって、巴は急激に気分が沈み込んだ。あの男とおしのが横に並んだら、さぞかし絵になるだろう、などと思いながら、そんな光景を想像する自分に深く傷ついた。
「姉さまが行けばいいじゃない。どうして私に押しつけるの。さっき、お父さまに頼まれたんでしょう」
 そう言い返すと、姉の不機嫌さは更に増してくる。この段になってようやく、巴は、昨晩からの姉の不機嫌さはあの流刑小屋にあるのではないかと思い始めた。
「あんたが持って行った膳なんだから、あんたが下げに行くのが筋でしょう」
「でも、お父さまに頼まれたのは姉さまなんでしょう。だいたい、春祭の馳走のお裾分けなんて、本当なら女中にでもやらせるものなのに、お父さまが姉さまに頼むのは、姉さまが昔から流刑小屋に好んで入り浸ってるからじゃない。おじさんたちに懐いてたから、お父さまが姉さまに気を使って――」
「私は、流刑小屋には行きたくないって言ってるの! つべこべ言わないでさっさと下げに行きなさいよ!」
 鋭い口調で巴にそう怒鳴りつけると、おしのは足早にどこかへ行ってしまった。こうなってしまうと、巴はもう、どうしようもなかった。黙って流刑小屋に行かなければ、後々に父に見つかって問題になる。かといって、巴も、自分でも理由はわからないが、流刑小屋には行きたくなかった――というよりも、あの若い流人に会いたくなかった。女中に頼む手もあるのだが、そうするときっと、理由を聞かれる。巴は昨日の晩から胸の内に湧いて出てきたこの妙な感情を、上手く説明できないし、自分でも上手く理解できないまま、他人に話したくなかった。ほんの数瞬悩んだ後、巴は仕方なく、自分の足で流刑小屋に向かうことにした。まだあの流人が村の別の場所を散歩でもしてくれていると良いが――などと都合のよいことを考えながら。
 この村に来た流人は、運よく長生きするか、来てすぐの冬の間に病死してしまうかのどちらかであることが多い。寒さが厳しく、米も食べられないような状況なので、花沢のような恵まれた町で育った者の体には耐え難いのだろう。元々いる二人の壮齢の流人は、ここに着て五十年ほどになる。二人は厳密には罪人ではなく、父が政治犯であったために一緒に流されてきた者だった。運よく長生きした二人は、子どもの時分から自由に出入りできる平小屋にずっといたので、村人たちとはすっかり顔なじみである。巴も幼い頃は二人に文字の読み書きや簡単なそろばんを教えてもらっていた。あの若い流人が不在で、応対してくれるのが二人であればいい。そう願って訪れた流刑小屋で、しかし、顔を合わせたのは残念なことに、若い男なのだった。
「ああ、昨夜の膳か。今、ちょうどおっさんらに言われてな。返しに行こうかと思うててん。ちょっと待ってな」
 そう言って、何ともないような仕草と口調で一度小屋の奥へ男は引っ込んだ。巴はため息をつく。今朝方、話の途中でおもむろに逃げ出したことを、男は何とも言わなかった。今日もおしのではなく巴が来たことについても。
 ――本当は、がっかりしているんじゃないのかしら。姉さまに会えなくて。
 そんなことを思うと、ますます巴の心は沈んだ。
「流刑小屋に運ぶ食事は」
 再び表に戻ってきた男に、巴は言った。
「本当なら、肝煎りの家の、女中がやるのが筋なんだけど。姉さまは、昔から流刑小屋に出入りするのが好きで。流刑小屋にというか――おじさんたちとお話しするのが好きだったんだと思う。ここは本当に、何もない村だから。外にも出られないし。花沢ってすごく大きくて、にぎやかな町なんでしょう? そういうお話を聞くのが好きなんだと思う。だから、お父さまも、祭の日なんかはよく、うちのご馳走のお裾分けだっていって、昨日みたいに夕餉を差し入れするのに、姉さまを使うの。なのに昨日から、姉さま、流刑小屋には行きたくないって言うから、私が……」
 言い訳のように事情を説明すると、突然始まった話にはじめは目を丸くしていた男が、納得いったかのように頷いた。
「あー……そういうことか。なんで肝煎りの家ん娘が膳運んで来るんかと思うとったわ。なんや、悪いことしたなあ」
「悪いこと?」
 予想だにしなかった言葉が出てきて、巴は思わず聞き返した。男は罰の悪そうな顔をしている。
「あの娘、俺がここに来た最初ん日にいきなり、押し掛けてきたんや。あん時は俺も長旅で疲れとって気ぃ立っとってな……ちょっと悪いこと言うてまってな。なんかの折りに謝れればええと思うとったんやけど。なかなかこっちに来ぇへんさかい。どこの家かもわからんし……」
「姉さまに、何を言ったの?」
 気が強くてすぐに腹を立てる性格のおしのではあるが、こんなに長い間腹の虫が治まらないことはあまりなかったし、腹が立てばだいたいはその場でやり返すことがほとんどなのに、徹底的に避けるというのも珍しい。全く予測ができず不思議でならない気持ちになり、巴は好奇心からそれを聞かずにはいられなかった。
「まあ……なんや。あの、籠の渡しちゅうんか? 崖んとこで迎えてくれた村人がどうも、俺んことを、京出身の男前やとか言うて回ってたらしてな。あの娘が、俺の顔、見るなり、なんや大した男前でもないだの言いよるもんやから、つい言い返してしもてん。あんたもこの村じゃ一番の美人だのもてはやされとるようやけど、京じゃせいぜい炉端の石ころみたいなもんや、ってな……」
 随分とばつの悪そうな言い方ではあった。実際に、悪いことを言ってしまったと男自身が反省しているのもわかったが、それを聞いた瞬間、巴は言わずにいられなかった。
「ひどい」
 自分が言われたわけでもなし、しかも相手は普段から自分にきつく当たるわがままな姉なのに、それでも、姉がそうやって見知らぬ男に悪し様に言われたところを思い浮かべると、胸が押しつぶされるように痛くなった。
「姉さまに、なんてことを言うの。姉さまは、村一番の美人なのよ。歌もうまいし、踊りも一品、みんなの憧れで――巴って名前だって、本当なら姉さまが継ぐべきだったのに、それぐらい、素敵な――私だって、ずっと、ずっと、憧れて――」
「せやから、悪かった言うて――」
「私じゃ意味がないじゃない! 姉さまにちゃんと謝ってよ!」
 そこまで言ってから、急に胸が詰まったようになって、言葉に詰まって、巴は震えながら口をつぐんだ。おしののことが嫌いだった。わがままだし、すぐに自分をこき使うし、引っ込み思案な自分にはできないことをいとも簡単にやってのけるのが、いつもいつも、憎たらしかった。それでも、姉はいつだって、村人たちに愛される存在で、それは、誰にも決して否定できない、美しい姿と、声と、所作があるからなのだ。だからこそ、自分も、姉のことを妬みながらも、同時に、憧れていた。それを否定されると、まるで巴のそんな気持ちまで否定された気分になった。
 巴の口調が急にきつくなったことに驚いたのか、男は戸惑いを露わにした。
「えーっと、いや、しかし、俺は……」
「なんだなんだ、大丈夫か、巴ちゃん」
 玄関先から女の叫び声のようなものが聞こえたからだろうか。流刑小屋の奥から壮齢の男が一人顔を出してきた。今年五十五歳になる流人の一人だ。気のいい性格で、巴とも顔見知りである。話の内容は、聞こえていたのだろう。珍しく荒ぶっている巴の顔を見て少し驚いたようではあったが、詳しく事情を聞くそぶりも見せず、穏やかな口調で若い男に語りかけた。
「まったく、近頃の若いもんは……おなごにこんな顔させるもんじゃねえ。家まで送り届けてやんな。ほら」
 そう言うと男の背中を押す。不意をつかれて男はほんの少しよろめいたが、しかたなく、膳を持ったまま流刑小屋の外に歩き出した。
「わかった、あんたの家まで行って、謝ってくるわ。謝るから――そんな顔、すんなや、頼む」
 すっかり参った様子でぼそぼそとした口調でそうこぼすと、男は歩き出す。その背中をぼんやり見つめていると、数歩行ったところで男が振り返った。
「道、教えてくれんとわからんやないか」
 そう言われて慌てて巴は男より先を歩く。あとは何も言うべき言葉が見つからず、道中ずっと無言だった。
 道すがら、家々の畑ではぽつりぽつりと農作業を始めている村人たちを見かけた。新顔の流人と連れだって歩いている巴に驚いた顔をする者もいた。その間もずっと、巴と流人は無言であった。ようやく家についたとき、母屋におしのがいるのを確認して、巴は流人を玄関口に待たせたまま姉を呼んだ。
「姉さま、ちょっと、玄関口まで、お願い! 姉さまにお客さんなの」
 緊張で若干声が震えるのを自覚した。怪訝な顔でおしのはこちらに歩いてきたが、玄関先に立っている男の姿を認めるや否や、慌てて踵を返そうとした。
「待ちや!」
 男が慌てたように叫んだ。その声に、隣にいた巴は一瞬身がすくんだ。男が大声をあげるのを聞くのは初めてかもしれない。大きな声なのに、張り上げたという風でもなく、不快な威圧感を決して伴わず、しかし、あたりによく響くそれは、まるで音楽のようだと、その瞬間、巴は思った。それが自分ではなくおしのを呼び止めるために発せられたものであるのだと思ったら、なんだか急に切ない気分になるのだった。
 自分がおしのに謝れと言ったから男はここにいるのだとわかっているのに、急に、巴はその場にいたくなくなって、男の手から膳を強引にひったくると、台所の方へかけだした。一瞬、男が驚いた顔をしたような気がしたが、すぐに顔を見ないように背ける。間もなくして、背後から男の声が再び響いてきた。
「謝りに来たんや、この前のこと。話を聞いてくれへんやろか」
 台所に駆け込んだときには息がすっかり上がっていた。突然飛び込んできた巴に、女中頭が驚いたように目を丸くする。
「どうしたんですか、巴お嬢さま」
 心配そうに話しかける女中頭に巴は膳を手渡す。
「これ、昨日のお祭りのご馳走、流刑小屋に運んだ分の器……」
「いや、そうじゃなくて――なんで、泣いてらっしゃるんです?」
 両手が空いたと同時にそう問われ、巴は思わず自分の顔に手を当てた。
 知らないうちに、頬が濡れていた。



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