四話

ヒヨドリの啼く山のふもとで


 梅雨入りしてから数日降り続いていた雨が、久々に止んだ。これ以上降り続けると作物に影響が出るかもしれないと、村人たちが心配していたところだったので、ほんの少し安堵が広がっていた。止んだと言っても空を覆うのは灰色の分厚い雲だ。火薬から出る煙の方がまだ白い、とおしのが毒気づきながら屋根裏の床を拭いている。村中のあらゆる箇所が湿気に侵されていた。どこの空気を吸い込んでも、まるで肺に水が入り込んだかのような息苦しさに襲われる。煙硝の生産や養蚕に影響がでかねない。
 水田の起こせないこの地では、粟、稗、麦の他に、煙硝の生産と養蚕を多賀藩から請負って税の代わりとしている。煙硝とは、火薬の原料のことで、戦国時代にどこからか伝わった製法を多賀藩から指導され、数十年前からこの六ッ谷地方一体で作られてきた。枯れ葉や枯れ草と蚕の糞を床下で温め、煮詰め、漉し……という作業を何年にも渡り繰り返す。使用人を何人も雇える大きな家でしか出来ない作業だ。
 それに対して養蚕はほぼ全ての家で行われている。この地方の家は最低でも三階建ての高さになるので、その構造を利用して、蚕棚を二階、三階に並べて蚕を育てる。蚕の幼虫が繭になるまで育て、それを煮詰めて糸にして紡ぐ。春から秋の間に、それが三回繰り返される。この村の四季のは養蚕によって巡っているとも言える。
 屋根裏部屋からの階段をきれいに磨きあげながら、巴は先日、村の外れの桑園で作業をする流人を見たのを思い出していた。養蚕の一連の作業の中でも、蚕に食わせるための桑を育て収穫し運ぶのはかなりの重労働で、どうしても男手が必要になる。村の外れに住む、おたきという女性は、数年前に主人を亡くし、幼い子どもと二人暮らしをしていた。肝煎りである巴の父のはからいで、半月ほど前から、手伝いをさせているようだった。
 あの京言葉の流人は名を清二郎と言うらしい。村の仕事を手伝うようになってから様々な評判を聞いた。農作業などはこれまでしたことがなかったらしく、初めの頃こそ些細な作業で手間取っては周囲を不安がらせたが、仕事の覚えは早く、また屈託ない人好きのする性格もあってすぐに近隣の人々と打ち解けたらしい。今では皆口々に褒めている。かつて、なぜ京の男がこの村に、と興味津々に女中たちが囁いていたのも、次第に聞かなくなった。
 あの春祭りの翌朝からずっと、巴は清二郎と言葉を一度も交わしていなかった。昨日道ばたで姿を見かけたときも、遠巻きにその姿を眺めただけだ。一瞬、巴の視線に気付いたかのように、こちらを見ていた気がしたが、ほんの一瞬だったし、気のせいだったかもしれない。あるいは、巴のそばにおしのがいるのかいないのかを確認したのかもしれない、などと思う。あれからわだかまりの解けた二人は度々顔を合わせているようだったから。そう思うと、目が合ったのかもしれない、と思うことすら悲しかった。いっそ、目を伏せておけばよかったのに、どうしてじっと見つめてしまったりしたのだろう。すぐに巴のいた方から目を逸らしておたきやその娘と親しげに言葉を交わしている清二郎は、口べたでろくに村人と会話もできない巴よりよっぽど村に馴染んでいるようにすら見えた。
 掃除が終れば正午に近かった。外はほんの少し明るくなっている。太陽が顔を出したかもしれない。
 巴は籠を手に村の西方にある小川の方へ歩き出した。希少な晴れ間に、雨が降り続けていると難しい、村の外れに山菜を採っておこうと思ったのだ。
 村は四方を急流や険しい山で囲まれているが、隅の方に、比較的穏やかな流れの小川がある。川魚もいるし、夏には涼みに来る者もいる。その周辺には、自宅の庭では栽培できないような山菜が多く生えている。作物を育てるのも一苦労なこの山村では自生している山菜も貴重な食料だ。こうして自分の足で採りにいかねばならない。
 巴は台所の仕事より山菜採りの方が実のところ、好きだった。台所にいれば手際が悪くて父や女中に呆れられることもしばしばだったが、山菜採りはそこそこに得意だったし、何しろ、一人でできる分気楽だからだ。
 なので小川までたどり着いたとき、思わぬ先客がいたときは心臓が止まりそうになった。
「おっ」
 朗らかな口調で声を上げると、川のふちに立っていた清二郎がこちらを向いてはにかんだ。周囲には誰もいない。心の準備ができていなかった。巴は返す言葉が見つからず、黙って身を堅くした。そんな巴の姿を見て、清二郎がわずかに苦笑する。表情が柔和な印象を与えるのは相変わらずだったが、肌は少し日に焼けて村人に近づいている印象を受けた。養蚕を手伝うのが主ではあるが、畑の手伝いをすることもあるのだ。
「何や、怖い顔して……俺、そんなに嫌われてしもたんかいな」
「嫌われ、って……」
「あれからずっと、何も話しとらんやろ」
「だって、そんな、話す機会なんて、なかったし……」
 そう言いながら、巴は落ち着かなくなって、すぐ数歩先に見つけた山うどに近づいてしゃがみ込み、手を伸ばした。そんな巴の様子に構うことなく、ある種呑気にも聞こえる口調で、清二郎が話しかけてくる。
「用なんぞなくても、おしのなんかしょっちゅう流刑小屋に来よるで」
 姉のことを、そんな風に親しげに呼ぶのだなあ、と巴は思いながら、今度は赤みずなに手を伸ばした。
「山菜採りに来たんか?」
「はあ……久しぶりに晴れたんで」
「なるほどなあ」
 そう相づちを打つ清二郎の声が意外に近いところから聞こえた気がして、巴が振り返ると、いつの間にか巴のすぐ後ろに立っていた清二郎が巴の手元をのぞき込んでいた。
「みぃんな同じ草っぱに見えるけど、どれが食べれるもんなんか見ただけでわかるんかいな」
 ぎょっとして巴は思わずのけぞり、籠を取り落としてしまった。地面につる性の籠が叩きつけられるかすかな音がする。慌ててそれを拾おうとすると同時に、困ったような清二郎の声が頭上から降ってくる。
「やっぱり、俺のことそんな嫌いなんか。初めて会った日から、やたらに俺から逃げるやんか」
 その言葉に、冷静さを欠いて焦りながらも、巴は春祭りの日のことを思い出す。そう言えば初めて流刑小屋で出会った時も、翌朝に谷川の縁でもみ合った時も、突然に清二郎から逃げ出してしまったのだった。
「あの、いや、あの、違うんです、嫌いとかじゃ、別に……」
「ほんまか? なら、ええねんけど。ここの村ん人らはみんな親切にしてくれるさかい、あんたにだけ嫌われてんねやったらちょっとへこむわ思て」
 軽い口調でそう言いながら、清二郎は籠から飛び出した山菜を拾い、わずかに顔を出してきた太陽の光にかざした。
「これなんぞ、ただの葉っぱにしか見えへんけどなあ」
「それ、赤みずなです。京では食卓に出ないんですか?」
 思わずそう訪ねた巴に、清二郎は不思議そうな顔をして首を傾げる。
「京? なんで京やねん」
「え……だって、清二郎さんは、京の人なんでしょう? 言葉が、花沢の人のじゃないし……」
「ああ……この言葉か」
 少し困惑した風に言いよどんだ後、赤みずなを籠に入れながら、清二郎は話してくれた。
「生まれは確かに京や。七歳まで住んどったかな。俺は京の町の商家の次男坊やったんやが、そんなに裕福でもないんで、七つん時に花沢の遠戚に養子にやられたんや。いずれそこの一人娘と夫婦になって跡取るちゅう約束でな――せやから俺は花沢の育ちなんやけど、どうも、生まれた土地の言葉は抜けんもんでな。義理の父にはずいぶん嫌がられたんやけどなあ」
「結婚……してたんですか」
 清二郎の予想外の経歴に驚きと納得を覚えつつ、思わず気になった言葉に反応してしまった。確かに、十四の巴よりいくばか年上に見える清二郎なら、結婚していてもおかしくはない。しかし清二郎は苦笑しながら穏やかに首を振った。
「してへん。まあ、事情があってな。結局、義姉(あね)は別の男と結婚してん」
 どうして、と聞き返しそうになった巴を遮るように、清二郎は急に立ち上がって言った。
「もうすぐ昼時とちゃうんか。帰らんでええんか」
「え……あ、そうですね、そろそろ……」
 清二郎と思わず話し込んでしまったために、さして山菜も取れなかったが、仕方がない、と心の中でつぶやくと、巴は立ち上がる。そこでふと思い出したように、清二郎が尋ねてきた。
「俺、あんたに、名乗ったかいな?」
「え?」
「俺の名前、あんたに教えた気、せぇへんねやけど」
 確かに、巴は清二郎の名前を清二郎から直接聞いたわけではない。だがそんなことを清二郎が覚えていて、かつ気にするとは思わなかったので、巴は困ったように首を傾げた。
「村の人はもう、皆知ってますよ。狭い村だから……若いけどよく働くし良い人だって、評判いいです、清二郎さん」
「あー……なるほど」
 照れたように頭をかきながら清二郎が笑った。素直な反応が好ましい、と巴は思った。
「あの、それじゃあ、私、失礼します」
 きびすを返した時、清二郎が巴の背中に声をかけた。
「巴」
 柔らかな声で、口調で、その名前が呼ばれる。突然のことに身が竦んだ。さっきまで少しずつ緊張が解けていた気がしたのに、急激に胸が締め付けられた。体が固くなって振り向くこともできなかった。
 続けてかけられる清二郎の声はどこまでも軽い口調なのに。
「俺のこと別に嫌いやないんやったら、今度から道で会うた時も声かけてや。無視されるのも何や、寂しいやんか」
「あ、え、あの」
 何の含みもないと思われる口調だった。どう返すべきなのかわからず、意味のない声が少し漏れたあと、巴は
「あの、はい、わ、わかりました、ごめんなさい!」
 小さく叫ぶと、足早に家へ向かった。結局また逃げるような形になってしまった、と思いながら玄関口に着いたときには、頬が熱くなっていた。

 * * *

 清二郎と交わした約束は数日に一度ほどの頻度で果たされた。ほとんどが道ばたで偶然すれ違ったときに一言二言、挨拶を交わす程度のものだった。今年の梅雨は雨量が多く、数えるほどしか空が晴れ渡ることはなかった。どんよりした空が常に村を支配している。梅雨明けが近づきようやく久々の青空が見られた日、再び河原に出かけた巴は、再び清二郎と二人きりになった。
「おはようございます」
 巴の方からおずおずと声をかけると、川の中に突っ立っていた清二郎が振り向いた。
「ああ、おはようさん。また、山菜採りにきたんか」
「ええ――まあ」
 数日ぶりの晴れ間の、数日ぶりの再会だった。今日は清二郎は川の中に立っていた。着物の裾をたくしあげている。顔に比べると、普段着物に隠されている足下はそれほど日に焼けておらず白かった。
「清二郎さんは、なにをしてるんですか」
「んー。おたきさんに頼まれてな、野菜を洗いに来てん」
 確かに、清二郎の足下には籠に入った野菜があった。川の水に晒しているらしい。巴の家では井戸水で野菜を洗ったり冷やしたりするものだが、おたきの家には井戸がないのだ。
「別に、清二郎さんまで川に入らなくても……」
「ついでに、足を洗うとんねん」
 巴が首を傾げると、清二郎はその場にかがみ込んだ。
「ここの水はきれいなんやろな。ここに来てからなんや肌の調子がようなった気がするわ。時々こうやって体を洗いに来とるねん」
「ああ――なるほど」
 巴はこの村からでたことがないので他の地の水を知らないが、確かにこの山の水はよいものなのかもしれない。
「ほんとは、村のはずれの、小山を登ったところに、小さな温泉があるんですよ。昔は病がちな人が療養のために入ったりもしていたみたいなんですけど、ここが多賀藩の領になってからは、温泉料が定められて、今はめっきり誰も入っていないんです」
「ほんまか。あんたらもいろいろ、複雑な目に負うとるんやなあ」
 ため息のようにそう言ったのち、明るい声音に戻って清二郎は言った。
「まあ、温泉に入れへんのはちと残念やけど、まあ、俺はここで足を洗うだけで十分かな」
「足を洗うって」
 その言い方がなんだか少しおかしくて、巴は吹き出した。それから慌てて気を取り直して、言った。 
「良いですけど、いつまでも入ってると、危ないですよ」
「なんや、ほんまに心配性やな、巴は。あの谷川に比べたら、小さな川やんか」
 あの春祭りの翌朝の一件のことを言っているのかと思い、巴は気恥ずかしくなりつつも、続けた。
「確かに小さい川ですけど、今は雨で水の量も増えているし、油断していると、危ないんです。子供が足を取られて流されていってしまったこともあるし……」
 ふうん、と清二郎が頷いた。
「わかったわかった。もうじき昼時やしな。そろそろ出るわ」
 そう言って野菜籠を持ち、清二郎が腰を上げて立ち上がろうとした、そのときだった。細い清二郎の陰が、急にぐらりと傾いだ。
「――清二郎さんっ!?」
 驚いて声を上げると同時に、巴は必死になって駆けだした。清二郎は肩から川の中に倒れ込みそうになったように見えた。助けなければ、と思って水の中に右足を差し入れた途端、巴は急に何かに引っ張られるような感覚を覚え、そのまま視界が勢いよく回転した。
「きゃああっ!」
「おい、巴!」
 清二郎の声が聞こえた気がしたが、すぐに激しい水音になにもかもがかき消された。腕をどこかに打ち付けたと思ったと同時に、息苦しくなった。必死に手足を動かそうとするが、それもままならない。巴の意識が遠くなる――

 目を堅く瞑った。瞬間訪れた暗闇の中で、突然に鮮やかな黄色が見えた。あれはなんだろう、と巴は目を凝らす。じきに形がはっきりと現れてきた。山吹の花だ、と巴は思った。それからすぐに頭の中でそれを否定する。こんなところに咲いているはずがない――

「巴っ! 目ぇさませ!」
 頬を軽く叩かれたかすかな衝撃で、巴は目を覚ました。ゆっくりと目を開ける。太陽の光がまぶしい。徐々に焦点が合わさってゆく。
 目の前にあったのは清二郎の顔だった。蒼白になって真剣な表情で巴の顔を凝視している。気迫があって怖いぐらいなのに、どこかぼんやりとした巴の頭は、真っ先にそれを、綺麗だ、と思った。
「あーっ、もう、肝が潰れたわどないしてくれんねや」
 唐突に大声でそう叫ぶと、巴の視界は今度は一気に暗闇になった。背中に手を回されている。自分は川の中にいた。川の中で尻餅をついた格好になっている清二郎に、抱きしめられている、と気付くのに少しだけ時間がかかった。二人とも体が冷え切っていた。それでも密着した部分からわずかな温もりを感じる。それから、巴の耳元に押し当てられた清二郎の左胸からは、心音が規則的に聞こえてきた。それがだんだん、乱れ始めた自分の心音にかき消される。
「あの、あ、わ、わたし……」
「突然川に飛び込んで来て溺れたんや。何や、自分で危ない言うときながら、何やっとんねん」
「だ、だって、清二郎さんが突然倒れたように見えたから、私……」
「俺はちいと立ちくらみがしただけや。助けようとして自分が溺れてどないすんねん、全く」
 呆れたようにそう言うと、清二郎はもう一度。巴の背中に回した腕に力を込めた。細い腕と、胸板だった。驚くぐらい。それでも、男の人の体だった。ずぶぬれになったお互いの服が張りついている。衣が肌にこすれてじんじんとした。
「清二郎さん、あの、もう、放して……」
「ん? ああ、すまんすまん」
 清二郎の腕から解放されて胸元から離れると、安心したように笑う清二郎と目があった。
「何や、ガキかと思うとったけど、ずぶぬれになったらそれなりに色っぽく見えるで」
 そういうと、川の流れで着物の裾がめくれて露わになっていた巴のふくらはぎを、清二郎は人差し指の腹でそっと撫でた。
「きゃっ……ちょ、ちょっと!」
「じょーだんや。俺が変な気起こさんうちに早よ帰って着替い」
 慌てて清二郎から離れると、巴は岸に上がる。めくれ上がって張りついていた着物の裾を急いでのばしていると、背後から清二郎が言った。
「巴」
 巴は振り返る。清二郎が穏やかに笑っている。
「心配かけてすまんかったな。気ぃつけるさかい。あんたらには迷惑かけへんように」
 その言葉に、巴はずっと言い忘れていたことを唐突に思い出し、思わず口を開いた。
「あの。私、あの日――春祭りの次の日、あんな事、言ってしまったけど、違うんです、そうじゃなくて――」
「あんなこと?」
「清二郎さんが流人で、私が肝煎りの娘だから、止めたんじゃないです。私が、ただ、清二郎さんが心配だっただけで、それで……」
 実際に言葉にしてみると上手くまとまらず、自分の唇が妙にもどかしく感じられた。一瞬巴が言葉に詰まった間に、清二郎の顔から笑みがかき消えたのがわかった。突然にして、場の空気が冷え込んだような。前触れなく訪れた奇妙な緊張感に、巴は戸惑う。
「清二郎さん?」
「体が冷えるで。早よ帰り」
 いたわるような言葉なのに、声は表情がなく平坦で、冷たかった。先ほどまでと違う、動悸がした。焦って無意味な言葉がでてしまう。
「そんなに寒くないですよ……もうすぐ夏だし……」
「寒いわ。むっちゃ寒い。もうすぐ夏やのに」
 独り言ように清二郎はそう言って、巴から目を逸らした。青空が広がっている。川の向こうには広々とした草むらで、すぐ先には拓かれていない森があって、その先に大きな山がそびえ立っている。つい先日までは枯れ木ばかりだったそこは、すっかり青々としていた。青い山頂が、夏が来るのを告げている。それを眺めながら清二郎は続けた。
「夏は、花沢や京の夏は、もっと暑いで。なんや、この山の初夏はまるで春先ぐらいや。俺はこんな夏は知らん。あんたらとは違う――こんな寒い空気を夏やなんて思えへん。俺は、この村の人たちとは違う人間なんや。なんぼこんな冷たい川で足洗うたところで、犯した罪は消えひん。俺はな、島流しにあった罪人なんや」
 淡々と紡がれるきつい言葉に、巴は身がすくむ思いでいた。出会う前、巴は、清二郎のことが恐ろしかった。でも、今そんな怯えは消えている。清二郎はそんな恐ろしい人ではない、と思っている。しかし確かに、巴は清二郎のことなど何も知らなかった。今までどこでどうやって生きてきたのか。どうしてこの村に来ることになったのか――それでも。
「清二郎さんは、良い人です」
 はっきりと言い切った、と巴は自分の声を自分で聞いて思った。だがそれを聞いた途端、清二郎はため息をつくようにして、それから、呆れたように軽く笑った。先ほど川の中で巴を助けてくれた時のような優しさは微塵もない、乾いた笑いだった。
「やっぱりや、あんた、肝煎りの娘やのに、何も聞いてひんのやな」
 そう言いながら、清二郎は川の中で立ち上がる。鈍い水音が辺りに響く。
「良い人なわけがあるかい。俺はな、人を殺したんやで」
「――え?」
 耳を疑った。言葉ははっきりと巴の耳に届いたはずなのに、それが全く理解できなかった。反射的に聞き返そうとして唇から漏れた言葉は過剰に掠れて、おそらくは清二郎には届かなかったに違いない。沈黙が暫く流れた後、その衝撃的な言葉などまるで何もなかったかのような自然さで、清二郎は話題を変えた。
「早よ、帰り。寒くて動けんのなら家まで送るさかい」
「い――いえ」
 それでも、清二郎の声はどこか冷たく無表情で、何よりも巴はそれが怖かった。思わず身を堅くする。
「大丈夫です――ごめんなさい、帰ります」
 踵を返した。ふらついた。体が震えたのは寒いからではないと思う。

 * * *

 結局、ずぶ濡れのままで暫くいたせいで風邪をひいたのかもしれない。なんだかその後の半日は体がだるくて頭がぼうっとするばかりだった。良い年をして川遊びか、と父には小言を言われ、女中たちには笑われたが、巴はそれにも気のない返事しかできなかった。
 夜、疲れ切って眠ろうとした巴を引き留めたのはおしのだ。布団に入ろうと灯りを落とした直後、厳しい口調で巴の名を呼んだ。疲れていてもおしののきつい声を聞くと身がすくんで多少頭がさえてくる。夜目が利いてきた時、巴は、おしのが珍しく、困惑するような、不安げなような表情でいることに気付いて、不思議に思った。
「巴。あんたがそこまで馬鹿だなんて思ってなかったよ。いけないことだって、わかっているでしょう」
 例によって貶すような言葉だったのに、それに対していつもほど腹が立たなかったのも、その口調が、まるで子を案じる親のような響きを持っているように感じたからかもしれない。おしのはやはり歌の名手だ。その声にはいつも、豊かな感情が現れている。だから巴は素直に冷静に、その言葉の意味を理解しようと努めた。
「突然なんなの、姉さま。いけないことって、何」
「あんたが最近、清二郎と二人きりでいるのを、村の人が何人か見てる」
「たまたま何度か河原で会っただけよ。なんでそんな――」
「巴、冗談じゃないのよ。とぼけないで」
 おしのが突然、巴の肩をつかんだ。きつい物言いや多少のいびりは受けたが、暴力を振るわれたことは一度もない。肩を捕まれたことだってだ。ただごとではない、と巴は思った。暗がりの中で、いつになく真剣な目でおしのは巴を射抜くように見つめていた。
「この家は私が婿を取って継ぐわ。だからあんたは、好きな人と好きなように一緒になれる。どこにだって嫁にいける。好きにできるのよ。でも、流人だけはだめよ。わかってるはずでしょ。隣の村の肝煎りの家の女中の話、聞いたことがあるわよね? その昔、村に来た流人と交わって、鼻と耳を削がれたの。一度私、谷川の向こうでその人を見かけたことがあるの。本当に悲惨な姿だった……。お願い巴、父さまや、死んだ母さまを悲しませるような真似だけはやめて」
 流れるようなおしのの言葉に、巴はただただ呆然としていた。頭の中がじんじんとしびれるように、何も考えられずにいた。沈黙している間に、おしのの、巴の肩に置いている手に、徐々に力が加わってくる。それで一瞬だけ我に返った巴は、妙に上擦ってしまった声で、おしのに答えた。
「わかったわ、姉さま。ごめんなさい。もう、心配かけるようなことはしないから……」
 そう言ってもなお、おしのは暫くの間巴の顔をずっと探るように見ていた。それが数刻も十数刻もの長い時間のように感じられた。巴にはこれ以上言うべき言葉が何も思いつかなかった。ようやくおしのは巴の肩から手を離す。
「風邪をひいているんでしょう。早く寝なさい」
 諦めるようにそう言うと、おしのは自分の布団に潜っていく。その後ろ姿を見つめながら、巴は、おしのの言葉でようやく自覚した自分の心に、呆然としていた。これだけの時間と、出来事がありながら、どうして今この時になるまで、自分で気付くことがなかったのだろう。
 自分は、あの男に惚れていたのだ。初めて出会ったあの春祭りの夜から、ずっと。



Copyright(C)2014- 碧 All rights reserved. designed by flower&clover
inserted by FC2 system