七話

ヒヨドリの啼く山のふもとで


「あれは、義兄を殺した咎で流罪になったのだ」
 平小屋へ向かう道で、父は巴にそう言った。それを父の口から聞かされるのは二度目だ。それが、父自身が嫌悪している罪だからなのか、それとも、巴に清二郎を諦めさせるために繰り返しているのかはわからなかった。
「知っています」
 父は巴の先を行き、背後からそう答えた巴を振り返ろうとはしなかった。もうすぐ根雪になるだろう。冷え切った空気には生命の匂いがしない。ただただ冷たい空気。厳しい季節の到来だけを告げている。
「身内殺しは死罪が相当だが、あれは幼い頃から不治の病を患っていたために、それを免れたのだと聞いている」
「じゃあ、清二郎さんは、最初から――」
「諦めて、忘れてほしかった」
 巴の言葉を遮るように、父は言った。
「あれのことは、私も好いていた。根が明るくて、賢く、よく働く。好いているものが死に逝くのは誰だって辛い。まして――……」
 そこで言葉を一旦切り、父は立ち止まって振り向いた。その背後に、平小屋が見える。巴は胸が震える思いだった。
「おしのが、土下座までして、死ぬ前にお前とあれを会わせてやってほしいと言ってきたのだ。本当に、いいのか。辛くなるだけではないのか」
 困惑するような、悲痛な顔で、そう問いかける父の声は、わずかに掠れていた。本当に、自分の思慕のために大勢の心を痛め、迷惑をかけてしまったと巴は思う。諦めて忘れてしまえればどれだけよかったのだろう、とも思った。だがどうしようもない。この気持ちは、どうにもならないのだった。
「会わせてください。これで、最後ですから。父さま、たくさん迷惑かけてごめんなさい」
「おい、馬鹿なことを考えるなら会わせないぞ」
「姉さまと同じこと言ってる」
 思わず巴は小さく笑った。ああ、色々なことがあったし、おしのに対しては長らくくすぶるような思いも抱いていたが、自分は、幸せな家に生まれた。父も、姉も、奉公人たちも、村人たちも、巴を愛しているし、巴も、家族を、村を、愛している。どうしてこれまでそれに気付かなかったのだろう。それがどれだけ幸せなことだだったのか。清二郎は、幼い頃に生家と引き離され、義父とも義兄とも上手く行かず、町の人々には好かれていたが、肝心の初恋の人とはついぞ一緒になれなかった。そして今、やってきたばかりの山奥の流刑地で、寂しく死のうとしている。
「大丈夫です、これで、最後ですから。肝煎りの娘として、ちゃんと、自覚を持ちます」
 父は何かを言い掛けて、止めた。小さなため息が白くなって広がっていき、消えた。黙って村の中へ戻っていく背中を暫く見送った後、巴は流刑小屋の戸を開けた。
 最後に締まり小屋で倒れてから、清二郎は再び平小屋に戻されたのだと聞いていた。父の計らいで、他の流人は皆村の方へ出払っていると言う。小屋の隅で、清二郎は横になっていた。
「なんや、おっさん、ずいぶん長いこと出かけとったやんか。雪も降っとるらしいんに、どうしたんや」
 戸の音だけで、勝手に同居者が帰ってきたのだと思ったらしい。巴に気付かずにそう言う清二郎の声が五畳ほどの中に響いていた。この声を聞くのはどれほどぶりなのだろう。懐かしさと愛しさで胸が熱くなる。
「清二郎さん」
 名前を呼ぶ声が震えたが、小さな小屋にはよく響いた。
 清二郎が慌てて寝返りを打っている。起きあがらないのは、やはり話通り、もうそんな力も残されていないからか。
「なんで、こんなとこにおんねん。あかんて、早よ帰り、おっさんらも戻ってきてまう」
「父が許してくれたんです、会っても良いって」
 そう言いながら、寝込む清二郎の傍らに腰を下ろす。口調ははっきりとしていたが、頬はこけ、顔色にも最早血の気がなかった。
「やめや、こんなみっともない顔になってまったとこやのに。見せたなかった」
「会いたかった。会えて良かった」
 思わずこぼすようにそう言うと、清二郎が困ったように、呆れたように笑った。その優しげな苦笑は相変わらずで、巴は目頭が熱くなる。潤んだ目を見られたくなくて、巴は伏し目がちになりながら、家から持ってきた風呂敷を解いた。目一杯湯を詰め込んだ瓢箪は、温かい。
 差し出すと、清二郎は少し戸惑うようにそれを見ていたが、やがておずおずと受け取った。小屋はどこまでも冷え込んでいる。遠慮をしようとして、しかしあまりの寒さに抗えなかったのだろう、と思うと、巴は切なくなった。
「……あんたもほんま物好きやな。こんなことまでして……」
「私、清二郎さんが、好きなんです」
 当の本人にはすっかり悟られていたとは言え、今まで自分では口にしてこなかったその言葉をはっきりと吐き出して、それを自分の耳で聞いて、なんだか全身が熱くなった。清二郎の苦笑は変わらない。
「俺は身内殺しの極悪人やて、親父さんからも聞いたやろ」
「お義兄さんを……という咎だとは聞きました、でも、ほんとは……事故、だったんですよね?」
 言いながら、しばし目を閉じて、巴は菊理媛に見せられたあの幻を思い出す。暗がりの中で清二郎と義兄となにやら言い合っている様子で、その後、大きな音がして、義姉が灯りを持ってきたときには梯の下で義兄が倒れていた。もみ合って落ちてしまっただけだったのではないのか、と巴は思う。
「なんであんたがそんなこと言えるんや」
「そう思ったからです」
 はっきりと言い切ると、暫く考えるように、清二郎は視線をさまよわせた。
「公事場でもそういう見解やったわ。事故みたいなもんやて。でも俺は、あん時、義兄さんに殺意持ってたと思う」
 昔のことを思い出しているのだろうか。また言葉を切って、清二郎は少しの間沈黙した。それからゆっくりと続ける。
「十二の時に、一生治らん病気になっとるて医者に言われてな。しょっちゅう倒れるしよう具合わるくなりよる。跡取りとして養子に入ったんに、役立たずになってもうた。養父母には疎まれたし、義姉さんにも申し訳なかった。幸いすぐに別の良い縁談があってな。義姉さんには、ほんまに、幸せになって欲しかった。だが……何が悪かったんやろうな。良い結婚にはならんかった。義兄さんのこと、はっきり言うて、日ごろから憎んどったで。義姉さんと一緒になっといて、なんでちぃとも幸せにできんねやって。だから、あんなことになってしもたんやと思う」
 巴は目を閉じた。殺意を持って突き落としたわけではないと巴は信じているが、たとえ事故だったとして、その犠牲者が憎くてたまらぬ相手だとしたら、それは、とても耐え難い罪悪感となってしまうのではないか。清二郎はそれと戦ってきたのではないかと思ったのだ。
「――お義姉さんのことが、好きだったんですね」
 長い沈黙の後、巴が何気なく言った言葉に、清二郎はため息をつくような声で、言った。
「昔のことや」
 清二郎が本当に好きだった女がいることを思うと、巴の胸は切なくて圧迫されるような苦しさを感じた。自分で聞いておいて、何も続けるべき言葉が見つからず沈黙した巴に、何故か清二郎はもう一度重ねるように言った。
「ほんまに、昔のことなんや」
「昔って言っても、一年ぐらい前のことじゃないですか」
 茶化すようなつもりでそう言ってみるが、清二郎は笑わなかった。
「せやなあ。まだ一年も経ってなかったか。ほんまに、流罪にされて、俺の人生ももう終わったんやとあの頃は思うてたんに、ここでは、色んなことがあったなあ」
 感慨深げにそう言うと、清二郎は巴の方に向き直った。まっすぐに顔を見つめられて、巴は不意をつかれて恥ずかしさに目をそらしたくなる。あれだけ会いたくて、あれだけ見つめられたかったのに、いざそうされると、無性に落ち着かなかった。
「巴の歌が聞きたい」
 唐突に清二郎がそう言って、巴は仰天した。
「な、なんで、いきなり? 歌なんて、私――姉さまほど上手くないし……」
「なんでそんなに卑下すんねや。あんたの歌、悪くないで」
 軽い調子でそう言って、清二郎は笑った。
「私、清二郎さんに歌を聞いてもらったことなんてないはずですけど」
「あったやんか、一度。あの山で、雨が降ってきたとき……」
 はっとした。あの時、幻の中で見た清二郎の義姉の歌っていた童歌を真似て、雨の中、歌った。その時に、清二郎が力なく握り返してきた。白い手、冷たい温もり……
「あれ、お義姉さんだと思ってたんじゃ――」
「なんや、あん時は意識も朦朧としてて。あれは花沢の歌やさかい、あんたが知っとるはずもないと思うたから、一瞬惑わされたけど、やっぱりあれはあんたの声やったで。あんたの声を間違えるわけがない」
 それは、どういう意味?
 聞き返そうとして、聞き返せず、戸惑うばかりの巴に、さらに清二郎は続けた。
「花沢の歌やなくて、この村の歌がええ。あんたの一番得意な歌、聞かせてくれや。冥土の土産にするさかい」
 冥土の、という言葉にぞっとしながらも、なんとか巴は平静を保った。そのために来たのだ、清二郎を慰めるために、穏やかに死なせてやれればいいと――。歌を歌えというのは予想外だったが、巴だってずっと、いつかさえない自分を変えたいと、祭りが近づく度に歌を練習してきたのではなかったか。それを今、披露すればいいだけなのだと思うと、なんだか不思議な気分だった。初めて清二郎に会ったとき、春祭りで歌を上手く歌えず気落ちしていたところだったと思うと、感慨深かった。
 深呼吸する。冷え切った平小屋の空気が肺を満たす。それをゆっくりと吐き出すと喉が暖まった。幼い頃から、祖母が、姉が、村中の人たちが歌い続けてきた、愛された歌を紡ぐ。

 こきりこの丈は 七すん五ぶじゃ
 長いは 袖のかなかいじゃ

 踊りたきゃおどれ 泣く子をいくせ
 ささらは窓の下にある

 自分の声で全身が震える。なじみ深い節になじみ深い歌詞が乗る。それらが空気に乗って辺りを漂う。部屋の壁に、床に、天井に響いて、また帰ってくる――その心地よさ。ひっかかりなく歌い出せれば、より伸びやかに次へ次へと歌が続けられた。こんなに気持ちよく歌を紡ぎ続けられたのは初めてだった。巴は無我夢中で歌い続ける。

 むかいの山で啼くヒヨドリの
 啼いてはさがり 啼いてはあがり
 朝 草刈りの目をさます

 おもいと恋を 笹舟にのせりゃ
 おもいは沈む 恋は浮く――

 そっと歌い終えて清二郎に視線を戻す。過度に緊張していたが、今までで一番上手く歌えたと思う。だが清二郎は少し険しい顔をしてこちらをじっと見ていた。
「えっと……清二郎さん?」
 自分ではよく歌えたと思ったが、気に入らなかったのだろうか。急に体中にいやな緊張が走ったと同時、清二郎は言った。
「なんであんたがそんなに自分のこと卑下してばかりなんか、わからん。この村の人らはみんな歌や踊りが好きでしょっちゅう歌っとるけど、俺は、あんたの歌が一番やと思うで」
「あ……え……ほんとに……?」
 予想外の言葉に巴は戸惑ってうわごとのようにそう言った。それなのに清二郎の顔はまだ険しいままで、巴は戸惑う。もしかして、体のどこかが痛いのだろうか、そう聞こうとしたのよりも早く、清二郎が突然巴の手を取り、自分の方へ思い切り引き寄せた。どこにそんな力があったのか、巴はあまりの勢いに抵抗もできず、清二郎に覆い被さるような形になる。しぃ、という音が耳元で聞こえた。大声を出すな、と言う意味だと気付いたと同時に、清二郎は小さく囁いた。
「ほんまに、あんたには、参ったで。自覚もなしに勝手なことばっかりしよるから、俺ばっかりが自重する羽目になってもうて。最後にこれぐらいのことしてもバチなんか当たらんやろ」
 耳元でくすぐるようにそう言われ、その意味を理解するより先に、頬に手を添えられ唇を奪われていた。なんで? いつから? 本当に? 聞きたいことが沢山あったのに、それを許さないくらい、長い、深い口づけで、やがてそれらの疑問など解決しなくてもどうでもいいと思った。
 ――父さま、辛いだけじゃなかった。幸せで、幸せすぎて、やっぱり辛いです。
 その思いを振り切ろうと、巴も差し出されたものに応えた。

 * * *

「婆や、婆や、起きて」
 耳元で愛らしい子供の声がして、老婆の意識はゆっくりと戻ってきた。囲炉裏の煙で黒ずんだ、この村特有の天井板に徐々に焦点が合わさっていく。
「もうすっかり日が登ったよ。具合が悪いの?」
「いいや、大丈夫だよ、巴」
 体を起こしながらそう言うと、一瞬不安そうにしていた女子の顔がぱっと華やいだ。
「じゃあね、じゃあね、婆や、昨日の、きつねの昔話の続きをしてね」
「それはいいけどね、巴、たまには他の子たちと外で遊んだらどうだい」
「だって、私、かけっこをするより、婆やのお話やお歌を聞く方が好きなんだもの。それに、兄さんも姉さまもいじわるだし」
 弱々しくそう言う巴に、老婆は知れず笑みがこぼれる。巴の名を次いだ娘は、その祖母にあたるかつてのおしのにそっくりな美しい顔立ちをしていて、それが、かつての自分のように姉を意地悪だといってしょげているのだから、ずいぶんとおもしろい絵だ。
「兄や姉は、小さい妹が可愛くて多少意地悪するものなんだよ」
「どうして? 婆やも、死んだおばあちゃんにいじわるされたの?」
「どうたったかねえ……」
 言いながら、老婆は昔々のことに思いを馳せた。色んなことがあったが、今となっては姉は、意外に不器用で、情が深い女であったと思う。何度も結婚しろと言われた時は困りもしたが、あれも自分を心配してのことだったのだと思えば、邪険にもできなかった。逆らい続けてついぞ自分は伴侶を持たなかったのだが。
 姉は父の薦めで奉公に来ていた与七という使用人を婿に取って肝煎りの家を継いだ。その間に三人の子が出来、長子が「長兵衛」の名を次いで今の肝煎りとなっている。さらにその十二代目長兵衛には男子一人と女子二人が生まれた。長女はおしのを名乗っており、去年の春に七歳となった次女に、巴の名が与えられ、それまでの巴は名もなき老婆となった。
「ねえ、婆や」
 老婆が色々と思い出を振り返って沈黙している間にふと、巴も色んなことを考えていたのだろう。急に泣きそうな、不安げな顔になって、巴は尋ねた。
「どうして私に巴の名前を譲ったの。姉さまの方が歌がうまいし、皆の人気者だし、私なんて――」
 そう言って頼りなく揺れる瞳に見つめられると、ふいに、老婆の胸にこみ上げてくるものがあった。姉と比べて自分に自信の持てなかったあの頃。初めての恋に身を焦がしたあの頃。その男との死別の後、強く生きようと決意した何十年もの時――
 一瞬の間に自分の半生へと意識が駆け巡り、そして、初めの頃に戻ってきた。自分を可愛がってくれた祖母の魂が乗り移ったかのように、その言葉が唇に乗る。
 自分の顔をじっと見つめる巴の頬に、老婆は手をかけた。
「お前は今に村で一番の歌い手になるよ。きっとだ」





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