塔の女



 この入り江の港町も、ここ数年でずいぶんと変わってしまったわね。私が子どもの頃は、どこの家の船も手漕ぎの木製の船で生活していてね。寂れた港にずらりと、地味で小さな船の家が並んでたわ。毎朝日が昇る前に沖へ行って、なけなしの魚を捕って、市場で売って僅かなお金を稼いで、売り物にならなかった小さな魚が夕餉になるの。貯めたお金は船の修繕費ですぐに消えてしまう。
 船を漕ぐのは大変だから、どの家も沢山子どもを産むのよ。だから波止場にはいつも子どもの声が響き渡っている。長子に生まれたら運が悪いわね。朝から晩まで、子守に漁の手伝いに市場までのお使いにこき使われて、一日の間に自由になれる時間なんてほとんどないんだから。
 私? いいえ、私の家は特別だったの。私の父は船屋の元締めだったから。波止場のショバ代や、船を買えない貧しい家への船の賃料なんかで生活していて、余裕があったわ。まあ、あくどいなんて言い方はやめて。私の家は烏合の衆だった船の民たちと町役場の間を取り持つ役目を担っていたのよ。

 国の中央に行って潜水艦に乗るのが、どの子どもたちも一度は憧れる夢だったわ。お互いの家の船が行き交う度に、子どもたちは舳先に立って胸に右手の拳を当てて、
「もびりす!」
「もびり!」
 と合い言葉を言い合う遊びばかりやっていた。本当は誰も、潜水艦がどんなものかなんて知りもしなかったけれど、少し前に子どもたちの間で回し読みをした短い物語に出てくる、未来の船の船員たちがそんな合い言葉を使っていたからまねしていたの。
 その遊びに加わらないのは私と、ジウだけだった。
 ジウは、ここらで一番貧乏な家の、一人息子だった。他に兄弟がいなかった理由はわからないわ。貧乏だから生まなかったのか、生まれなかったのか、死んでしまったのか。とにかく、ジウは一人だけで、町で一番おんぼろの船の上で朝から晩まで両親の漁の手伝いをしていた。だから子どもたちの子どもらしい遊びに加わっている余裕がなかったの。
 学校は週に一度だけ通うの。ジウの両親は息子に学校にだけは行かせたいと努力していたから、彼が欠席したことは一度もなかったわ。そういう面でも、彼の家は特殊だった。
 ジウと私は、町の他の子どもたちとは違った。浮いていたの。それぞれ違う理由で。私は父がお金持ちだから。彼は貧しいから。天と地ほどの違いがあったけど、私は幼いから、私たちは仲間なんだと思っていた。ジウは優しいから、私を表立って妬んだり皮肉ったりなんてしなかったしね。
 学校は、国の中央から町に牧師さまがやってくる日にあるの。船に住む子どもたち皆で、朝、町の中央の分教会へ行って、昼過ぎに皆で一緒に波止場へ戻ってくる。戻ってきても、親たちは漁に出ているから、私たちは暇を持て余した。それで、男の子たちはよく「肝試し」をしたわ。
 入り江の中央にある、石造りの背の高い塔。子どもたちは、そこに「とある大罪人」が幽閉されていると聞かされていた。だから、決して近寄らないようにと。でも、行くなと言われると行ってみたくなるのが、幼い男の子たちの平凡な心理でしょう? だから子どもたちは、大人たちが見ていない時に波止場に残っていた小舟に乗って、どこまで塔に近寄れるか試しっこしていたの。それに加わらないのも、やっぱり、ジウと私だけだった。それぞれ違う理由で。私は女の子だったから。ジウは――
「おい、今日はジウの番だぞ、乗れよ」
 ガキ大将だったロンが一度しつこく、ジウに小舟に乗るように迫ったことがあったわ。
「俺は、いい」
「なんでだよ、腰抜け」
 ロンやその取り巻きがどれだけののしっても、ジウは表情一つ変えずに拒み続けた。ジウは表情の乏しい男の子だったわ。それは、彼の苦労の多い生い立ちのせいだったのかもしれないけど、幼い私は、ずいぶんとそれが彼を大人びて見せていたように思ったものよ。挑発に乗ってこないジウの態度に、他の子どもたちは次第に飽きて、あまり構わなくなった。
 後から気付いたことだけど、彼の家は貧しいから小舟も持っていない。彼は一人で小舟の操作をしたことがなかったから、誘いに乗れなかったのね。
 私は他の子たちから離れて海を眺めるジウの隣に座っていた。「肝試し」に興味はなかった。私の父は元締めだから、お役人からの情報もよく得ていて、塔に幽閉されている人が誰だかを聞かされていたの。
 塔に住んでいるのは、子どもたちが想像しているような、恐ろしい連続殺人鬼だとか、そんな人間ではなかった。過去に政府の要人と許されない恋をしたという、女性だったの。詳しいことはそのときの私は知らなかった。どうして恋をしたら海の真ん中の寂しい塔に閉じこめられなきゃいけないのか。
 塔にいるのがただの恋に落ちただけの女の人だと知っていたから、私はちっとも怖くなかった。それに、その塔に父の知り合いのお役人さんが、食料や生活必需品を定期的に届けに行っているのも知っていたしね。だから「肝試し」のことを私はいつも醒めた目で見ていたし、彼らに交わらないでいるジウに、また勝手な親近感と、ある種の尊敬の念のようなものを抱いていたの。
 肝試しは誰も上手く行かなかったわ。海は波や潮の満ち引きが激しくて子どもが一人で小舟を漕いで行くには遠すぎた。もしくは、塔にたどり着けそうになっても、怖じ気ついて失敗したふりをして帰ってくる子もいた。だけど「肝試し」に子どもたちが飽きることはなかった。しばらくすると誰からともなく挑戦したがるの。
 果たして、子どもたちの中で、一番近づいたのは、そして、唯一その中に入ったのは、ジウだった。

 嵐が来たのは萩の月の、新月の夜だった。嵐が来るのはわかっていたから、私たちは船を波止場にきつく留めて、不安がある家は陸の親戚の家に身を寄せたりしていたわ。
 ジウの家は特別に貧乏で、船もおんぼろだし、頼る親戚もいなかった。ガタの来ている船を陸に結びつけたけど、豪雨と強い風であっという間に大破してしまったの。嵐が止んで朝日が昇って、船ごといなくなってしまったジウの一家は、もう、全員助からなかったと町の皆が思ったわ。もちろん私も。
 ジウが見つかったのはその日の夕方だった。塔に毎日物資を届けているお役人のおじさんが、塔の外壁にしがみついているジウを見つけたの。慌てて船を近づけて、ジウを助けたそうよ。衰弱しているように見えたけど、意識ははっきりしていた。ただ、どうやって一晩過ごしたのか? どうして夕方まで彼を誰も見つけることができなかったのか? ジウは覚えていないと固く口を閉ざしていた。
 ジウの両親は結局見つからなかった。それで、哀れに思った父が、しばらく私の家で彼を引き取ることにしたの。
 いつも朝から晩まで船の上で両親の手伝いをしていたのが、急に、陸の上の、私の家みたいなところに来たから、彼は暇を持て余して一日困惑した表情で庭にいたわ。両親を亡くしたのは気の毒だったけど、私はそんなジウを一日ずっと見つめていられるから幸せに思っていたの。
 ジウが話しかけてきたのは、彼が我が家に来て三日目のことだった。
 お夕飯が済んで、私はいつものように一人で、家族の食器を水場で洗っていたの。洗い場は家の裏手の、波打ち際にあって、海水でお皿を洗うのよ。打ち寄せる波の音に混じってかすかな足音と床のきしむ音がして、振り返ったら、足下に置いていた薄暗い明かりが緊張したジウの顔を照らして闇の中に浮かび上がらせていて、私は息を飲んだ。
 私は彼に一方的に仲間意識を持っていたけど、私たちは会話したことなんて数えられるぐらいしかなかった。まして、ジウの方から話しかけてきたのはそれが初めてだったから、私は舞い上がった。
「あのさ」
 声変わりがもうすぐ始まりそうな、かすれた、小さな声で、ジウは言った。
「お願いがあるんだ」
「なあに、私ができること?」
 私は表向きは努めて冷静に、余裕があるようなふりをして聞き返した。
「小舟を出してほしいんだ」
「小舟?」
「おやじさんたちに、見つからないように、夜のうちに出たいんだ」
「どうして? どこに行きたいの?」
 彼は思い詰めたような顔をして、一瞬、押し黙った。私は洗っていた皿を一旦海水から上げて、手を拭いて、立ち上がった。ジウは男の子の中では背が低い方で、私とあまり変わらないぐらいだった。でも、足下のランプに下から照らされて半分影の落ちた顔を見ていると、ずいぶんと私よりも年月を重ねているような、そんな印象を受けた。
 しばらく沈黙した後、彼は私から目をそらして小さく言った。
「塔に行きたいんだ」
「塔?」
「入り江の、中央の……」
 私は彼が何を言っているのか一瞬わからなくて、口を小さく開けたまま固まった。それを見て、ジウは突然きびすを返した。
「ごめん、なんでもない、忘れて」
「ま、待って!」
 私は慌てて、ジウを追いかけた。衝動的に手を取ってから、初めて触れた、ずいぶんとごわごわに荒れた彼の手の感触に心臓が跳ね上がって、すぐに放した。洗い物をしていた私の手よりも彼の手の方が温かかった。
「あの、入り江の中央の、罪人を幽閉している塔のこと? あそこに、行きたいの? どうして?」
「罪人じゃ、ない」
「えっ?」
 ジウが突然、鋭い口調で、私の問いかけを遮った。振り返った彼の目がきつくまっすぐ私を見ていた。
「何かの間違いなんだ」
「どういうこと?」
 ジウは再び押し黙った。
 少し考えて、私は、もう一度ジウの手を取った。
「わかったわ」
 ジウの考えが何であれ、彼が私を頼ってきたのを断るなんてあり得ない気がした。この話を受けたら、二人だけの秘密ができるのだ。二人だけの秘密。それはとても甘い響きに思えた。
「お父様に内緒で、小舟を用意するわ。でも、条件がある」
「条件?」
「塔に行くなら、私も、乗せて。一人だけなんて危ないわ」
 ジウは少し考えるそぶりをした後、小さく頷いた。
「何があっても、誰にも、言わないで」
 懇願するように言われると、私の胸はくすぐられるように高鳴った。

 私たちは大人の目を盗んで、皆が寝静まった頃に波止場へ向かった。三日月はもうとっくに沈んでしまって辺りは真っ暗だった。誰も起こさないように慎重になりながら、懐中電灯で手元を照らし、私たちは作業をする。潮の流れや船の扱いについて、多少の知識はあるつもりだったけど、一人で小舟をこぎ出すとなったら私は素人だった。ジウもおそらく、一人で船を操作したことなんてないはずで、ずいぶんと手間取った。にも関わらず、いざこぎ出すと、ジウはあまり迷いなく進んでいった。潮の流れに完璧に乗って、私たちは十分と経たずに百メートルはある距離を渡った。
 暗闇の中で背の高い塔をふもとから見上げると、散々「肝試し」をしていた男の子たちを内心バカにしていたのに、不気味に思えて鳥肌が立った。それを気取られないように小さくため息をついて、隣に立っているジウを見ると、彼は迷いなく小舟を止まり木にひもでくくりつけて、入り口の取っ手に手をかけた。樫の木か何かでできていると思われた、分厚そうで古そうな扉はあっさりと開いた。古い南京錠が壊れているようだった。
「中に入るの?」
 声を潜めて訪ねると、ジウは何も言わずに頷いた。揺れる船から飛び降りて建物の中に私たちは入った。
「俺が先に行くから、足下を照らして」
 懐中電灯を手渡され、その通りにする。扉のすぐ向こうには壁にそって螺旋状になっている階段があった。ジウと、自分の足下をちらちらと移しながら、壁に手をやって、恐る恐るゆっくりと昇る。三十段ほど昇ると、天井が近づいてきた。すると階段の先の、天井の一部から音がして、眩しい光が私たちの目を刺した。突然の明かりに目が痛くなり、私は目を細める。その間にジウはその先へ行ってしまった。私は予想外の展開と、ジウに置いて行かれる恐怖に、慌てて目を細めながらその背中を追いかけた。
 果たして、私たちは塔の二階部分にたどり着いていた。
「あら、お友だちを連れてきたの?」
 澄んだ女性の声がした。石造りの、物のあまり置いていない、天井の高い部屋はよく音が響いた。私は反射的に身をすくめた。ジウが声の主をじっと見つめていた。
 ランプを手にした女性が、部屋の中央に立っていた。長い髪を下ろして、裾の長いワンピースを着ていた。村の、力仕事をしている女性でそんな格好をしている人は見たことがなかった。部屋にはその女性の持っている明かりと、壁に掛けてある明かりと、私が手にしている懐中電灯だけで、薄暗かったけれど、私は一目見て、美しい人だ、と思った。
 その美しい人を、ジウはじっと見つめていた。
 ジウも私も、何も口にしなかった。それを、女性が気に留めた様子はなかった。
「はじめまして」
 女性は大人で、私たちよりずいぶんと背が高かった。私の方へ歩み寄ってきて、少しだけ腰を屈めて、微笑みながらそう言った。そう言われてもなお私は何も口にすることができなかった。
「親父とお袋、村に戻ってなかったんだ。今、俺、彼女の家に住ませてもらってて」
 ジウが私のことを口早に紹介した。私はその、よそよそしい説明に胸がちくりとした。
「まあ……早く見つかると良いわね」
「もうだめだよ。三日も経ったし」
「諦めちゃだめよ」
 諭すように女性が言った。その会話で私は、ようやくこの女性とジウの関係に感づいた。
「ジウ、あの嵐のとき、この塔の中にいたの?」
 ジウが私に目を一瞬向けて、戸惑ったようにすぐそらした。答えたのは女性の方だった。
「この近くまで流れてきたから、嵐が止むまで一晩休んでもらったのよ。でも、私は町の人と接触してはいけないことになっているから……。今日はどうしてここに来たの?」
「お礼を」
 口ごもるような、はっきりとしない口調で、ジウは言った。
「お礼を、言っていなかったから……」
 そんな口調なのに、視線はまるでいるように鋭く、女性の一挙一動を逃すまいとしているようだった。
「まあ、それでこんな夜中に人目を忍んでやってきたの? 気にしなくて良かったのに。見つかったら大変よ」
「でも、あなたは俺を助けてくれた」
 今度は、ジウの口調ははっきりとしていた。思い詰めるような声だった。
「どうして自分を助けてくれた人に会っちゃいけないんだ? どうして大人たちはあなたをこんなところに閉じこめておくんだよ。あなたが罪人なんて何かの間違いなんだ」
「ジウ、よしなよ」
 私はたまらなくなって口を挟んだ。ジウがこんなに口数が多くなっているのも、強い語調で何かを話すのも初めて見た。ジウは私には一切視線をよこさなかった。
「そうね」
 小さくため息をつきながら、女性は困ったように笑った。
「私がここにいるのは理由があるのよ。それをちゃんと説明したら、納得してここにはもう来ない?」
 ジウは数秒沈黙した後、頷いた。

 女性の話は、以下のようなものだった。
 彼女は都で生まれ育った貴族の娘だった。十六の時、親の定めで同じ位の家の息子と縁談がまとまった。だがその直後、社交界で出会った国の要人と惹かれ合ってしまう。その男性には妻子がおり、それは許されざる恋だった。しかし強くお互いを求めた二人は思いを諦めることができず、駆け落ちの計画を立てるが、決行の夜、それが相手の妻に知られてしまう。そして激情した妻が無理心中を図った。
 女性の罪は妻子ある男を誘惑し、三人の人間を間接的に死に追いやったことだった。

「そんなの、あなたのせいじゃないじゃないか」
 ジウが憤慨したように言った。
「そんなことないわよ」
「あなたの知らないところで勝手にその一家が死んだんだ」
「そんな言い方はしないで」
 悲しげに女性がそう遮って、ジウは押し黙った。
「私は、それで良いと思っているのよ。私たち二人分の罪を背負って、この塔で一人死ぬまであの人のことを思い続けていられるなら……それ自体がまた罪なのかもしれないけど……それが幸せなの」
 私はふと顔を上げた。遠い天井近くの明かり取りから見える空に、色が付いているのが見えた。女性が私の視線に気付いて、同じ場所を見た。
「大変。もうすぐ朝になってしまうわ。あなたたち、急いで帰らないと」
 ジウはなおも女性をじっと見つめていた。そんなジウに、女性は微笑みかけた。
「もう、ここに来てはいけないわよ」
 私たちは大人の誰にも気付かれずに家へ戻った。

 ジウは目に見えて沈んでいた。いつも口数少なく、人を避けて、物憂げにどこか遠いところばかり見つめている。大人たちは、両親を亡くした悲しみに耽っているのだと思って、気に留めてはいなかったけど、私はそうでないことを知っていた。
 彼はあの女性との約束を守って、あの夜以降塔へ行こうとはしなかった。ただ、時折、夜中にふらりと家を出ていった。私は最初、彼が一人でまた小舟を出して塔へ行こうとしているのだと思って、もしそうだったら止めようと後をついていったの。そうしたら、彼は海辺に何かを放っていた。なんだろうと思ったけど、暗がりの中だからよく見えなかったわ。
 一度だけ、私はたまらなくなって、彼に尋ねたことがある。
「ねえジウ、どうしてあの、塔の女の人のことが忘れられないの。もう来ちゃいけないと言われているのに」
 彼はびっくりしたみたいな顔をして、それから困ったように黙り込んだ。私はその態度にも我慢がならなくなった。
「会ったのは、あの嵐の夜と、私と一緒に小舟に乗った、たったの二回だけなんでしょう」
「……そうだよ」
「最初のときは、どんなことを話したの。どうしてあの人のことがそんなに忘れられないの」
 しつこく責めると、言葉少なだけど、ジウは話してくれた。新月の日、嵐が止むまで一晩中、あの女の人は取り留めもない話をたくさんして、船が大破して両親とはぐれて自分も死にかけて動揺していたジウを落ち着かせてくれたのだという。たとえば、この辺りの海流のことを女性は何故かよく知っていて、それを教えてくれた。だからあの小舟に乗った日、ジウは上手く流れに乗って効率よく塔までたどり着けたのだ――。
 それらのことを話してくれた代わりに、翌日からジウは私のことを露骨に避けるようになった。私から話しかけようとしてもさりげなく逃げる。目が会いそうになればそらす。学校の帰り、男の子たちがまた肝試しをするようになっても、私たちはそれを待っている間隣り合って座ることはなくなった。
 そんなジウが、また私に話しかけてきたのは、半月ほどたった頃だった。
「お願いがあるんだ」
 半月前と同じ、家の裏手の洗い場でそう言われた時、私は嫌な予感と、ジウから話しかけられた高揚感がない交ぜになった、奇妙な胸のざわめきを持て余した。私は背筋を伸ばし、努めて冷静な表情を装って、首を傾げた。
「なあに? 私ができること?」
「塔の鍵が、欲しいんだ」
 入り江の塔は、嵐の日に鍵が壊れてしまった。そこで、数日前にその扉と鍵の修理が終ったばかりだった。新しくなった鍵が我が家で管理され始めたことを、私とジウは知っていた。
「何をするつもりなの」
「……逃がしてあげるんだ、あの人を」
「どうして」
「あの人は罪なんか犯してない。あんな場所に閉じこめられているのはおかしいんだ」
「彼女はそんなこと、望んでないんじゃない」
「でも、こんなのは、おかしいんだ」
「逃がして、その後彼女はどうやって生きていくの」
 ジウは押し黙った。沈黙が落ちた。波の音だけが迫ってきていた。たまらなくなって先に口を開いたのは私だった。
「ジウも、逃げるつもりなのね。二人で、一緒に、どこかへ行くつもりなのね」
 ジウはうつむいて尚も沈黙した。
「彼女が一緒に行かないって言ったら、どうするつもりなの」
「そんなことはない」
 ジウが突然、顔を上げて、はっきりとした口調で私の言葉を遮った。
「手紙を……送ってるんだ。瓶に入れて、潮の流れに乗せて、塔に着くように……いつもちゃんと返事が来るんだ……逃げる件については、まだ返事はもらっていないけど、きっと……」
 私はしばらく、薄暗い中に浮かび上がる、ジウのこけた頬をじっと見つめていた。
「……いつまでに、鍵を手に入れればいいの」
 ジウが目を見開いた。
「三日後だ」
「わかったわ。絶対に、私が関与したって、誰にもバレないようにして」
 ジウは頷いた。
「ありがとう……ありがとう」
 彼にそう言われたのはそれが最初で最後だった。

 父の仕事場に夜忍び込んで盗んだ鍵をジウに渡したとき、彼は数日前とは打って変わったような晴れやかな笑みを浮かべていた。
「返事が来たんだ。一緒に逃げようと、言ってくれた」
「そう、良かったわね」
 私はジウがそんなに屈託のない笑みを浮かべているのを初めて見た。それは、ずっと大人びて見えた彼を、年相応に子どもらしく見せているような気もしたし、今までよりもずっと、成熟した男性に近づけているようにも見せているようにも思えた。鍵を手渡したとき、少しだけ触れた指先は、皮膚が分厚くかさついていて、冷たかった。
「小舟を一人で操作するのは初めてでしょう。気をつけてね」
「大丈夫」
「じゃあね、さようなら」
 自分で聞いた自分の声が、思いのほか、明るく優しげなものだったことに、自分で驚いて、そして、笑い出したくなった。
 ジウは暗がりの中、期待を胸に一人で小舟をこぎ出して、塔へ向かっていったわ。


 その後どうなったか? あら、言わなくてもわかるかと思ったわ。だってその塔って、ここのことだもの。その女性がもうここにはいないってことは――
 二人で無事に逃げた? そんな訳ないじゃない。だって彼女は、塔から逃げようなんてこれっぽっちも考えていなかったんだから。
 手紙の返事? あれは私がずっと書いていたのよ。ジウも馬鹿よね。いくら何でも、波に乗せて何百メートルも離れた塔に手紙が届くなんてわけないじゃない。本当に男って考えが足りないんだから。
 さあ、あなたもそろそろ村へ帰りなさい。長居するとこの塔に呪われて、私みたいな罪人になって幽閉されるわよ。





この作品は創作競作企画「にごたん」さんに参加したものです。企画当日にお題発表から二時間半の制限時間で書いた初稿を、後日加筆修正しました。
主催さま、企画参加者のみなさまにこの場を借りて改めてお礼申し上げます。


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