太郎とさやえんどうの木

dirty version


 今になって思えば父は随分と寡黙な人だったのだが、当時7歳だった僕が素面の父との数少ない冴えない会話より、酒が入ってうんざりするほど陽気になった父とのめんどうな会話の方をよく覚えているのは当然の流れだと思う。その偏った記憶はいつの間にか僕の中の父を「質の悪い酒乱」であったことにしてしまった。
 父は食卓で缶ビールを飲んでいた。よく考えて思い出せばそれは毎晩のことではなくて、どちらかといえば食卓でちゃんとした食事を一緒にとっていたことの方が多かった。だが記憶の中の父はいつも枝豆をつまみに缶ビールを飲んでいる。
 酔った父が嫌いで、父の息が酒臭いのが嫌いだった。僕は父が死んだ後も父のことが嫌いだった。そして、何もかもを父と父の飲んでいた酒のせいにしていた。
 大概のことは父のせいなのだと思っていた。例えば僕の名前が太郎なんて時代遅れな上に単純すぎることも、きっと父が泥酔したタイミングで決めたからに違いないし、母がいつもカリカリしているのだって、父が酒臭いからに違いないし、父が早死にしてしまったのも、飲みすぎのせいなのだと思っていた。僕は父親の酒量が多いのだと思い込んでいたから、父の死因である胃がんと飲酒には相関性があるのだと思い込んでおり、19で一浪の末に医療系学部に入学したときまで胃がんの原因は酒なのだという恐ろしい勘違いをしていた。
 酒を飲んだときの父はひどく饒舌だった。大体は陽気だが、時折機嫌が悪くなったり、愚痴っぽくなったり、泣き出したりした。不安定な父は怖かったから近寄りたくなかった。
 その日、父は陽気な酔い方をしていた。陽気な父は陽気だが、いつ陽気でなくなるか保障はなかったので、僕は父を避けるため、規則正しい生活をする模範的な子供であるフリをして、隠れてダイニングから脱出して寝室にこもるつもりだった。
 だが築10年のアパートの扉は、こっそりと開いても音が立ってしまったのだった。
「おい、太郎!」
 陽気な父は声がでかかった。僕は肩を震わせた。ここで邪険に扱えば陽気な父が苛立った父に変身する可能性も高かった。嫌だったけれど、僕は振り返った。
「どこへ行くんだ」
 小学2年生である。多分あの時、既に夜9時を過ぎていた。そんな状況でパジャマを着た息子が廊下へ出ようとしているのだから、聞くまでもなく、寝ようとしているに決まっている。
「もう寝る」
 そう答えると、父は黄色い液体が入ったコップをテーブルに置いた。大きな音が部屋に響いて、僕は急に怖くなって身を固くした。そんな僕の様子になど構うことなく、父は大声でわめいた。
「なんだなんだ、こんな時間にもう寝るのか、まったく、優等生だなお前は、誰に似たんだ」
 陽気な父はめんどうな父に変化しつつあった。嫌な言葉を浴びせられる気がして、僕は本当に、その場を離れたかった。怖かったし、不快だったし、腹が立った。でも結局その時は父の命令になど逆らえなかった。
「まあ、座れ。ここに、座れ」
 僕は仕方なく、父の斜め向かいの椅子に座った。父は一瞬だけ満足そうに笑った後、空になったコップに缶ビールの残りを注いでいた。枝豆の皮が皿に山盛りになっていた。濡れそぼった緑の鞘から薄皮がほんの少しだけはみ出していた。なんだか、汚らしい光景に見えた。僕はとても不愉快になった。
 父は酒臭かった。酒臭い息を噴射しながら、ぶつぶつと何かを言っていた。会社の人がどうとか、最近の政治はどうとか、株価が下がったとか、おおよそ、当時の僕には興味が湧かないし理解もできないことばかり。僕はあくびをかみ殺して、僕ではなく目の前の宙に向かって何かを語りかけているおかしな父が、早くこの状況に飽きて僕を解放してくれるこよを一心に祈り続けた。
 つい先日倒産してしまった大手電機メーカーについてのトリビアと悪口を一通り言い尽くしたタイミングで、父が傾けた缶ビールの中身が空になった。父は苛立たしげにそれをコップの上で2、3回振ると、諦めてテーブルにアルミ缶を置いた。アルミ缶とテーブルのぶつかり合いは、コップの音よりも暴力的な響きではなかった。アルミがかすかに潰れたような気配はしたけれども。
「しょっぺえなあ」
 と父は言った。僕は父がまだ握り締めたままのアルミ缶から、こぼれたビールの一滴がゆっくり流れ落ちていくのをじっと見ていた。しょっぱいという意味がわからないし、何がしょっぱいのにかにもさして興味がない僕に、父はどう考えても興味など持っていなかった。興味などもっていないのに、話しかけてきた。
「しけてやがるぜ、まったく、お前も酒が飲めればいいのになあ」
 僕はなんだかその一言に、今までになく腹が立った。胃の中が沸々と煮えたぎっているかのように熱くなって、知れず体中に力が入った。
 父は酒が入っても顔色は変わらなかったけど、とても酒臭かった。父は泥酔していた。僕の嫌いな、お酒を飲んだ父。
「僕、大きくなっても、お酒なんか飲まない」
「な、なんだってぇ?」
 父は素っ頓狂な声を上げた。先ほどまでのだらしのない声より、半オクターブほど高い声だった。目を見開いて、心底驚いているかのような表情をしていた。そしてそのまま固まっていた。
「なんでお父さんはお酒を飲むの。美味しいの」
「え……いやあ……そうだなあ……味……味の問題ではないが」
「お父さんがお酒を飲むとき、お母さんが作った料理を全然食べない。お母さんは悲しそうだし、僕は、お酒を飲んでるお父さんなんか大嫌いだ!」
 当時の僕はたったの7歳だった。食卓で常々抱いていた胸の内のもやもや、怒りや悲しみのような感情を、正確に言葉にするのは難しかった
。それでも、あの頃の自分の国語力を目一杯用いて、言うべきことは言えた気がする。僕はそれだけ言うと、椅子から立ち上がり、無言のままの父を残してダイニングルームを飛び出したのだった。
 随分と昔のことを思い出したなあと思う。12年も前のことだ。
 僕の意識は高く高く夜空の果てを目指して上昇している。太陽のない街は家々のほのかな明かりでまばらに輝いている。住宅地の中の小さなアパートを見つけて、かつて親子3人で住んでいたアパートを思い出した。父が死んだあと、母と僕はより小さなアパートに引っ越して、慎ましやかな生活をしていた。母はずっと働いてはいたけど、女手一つで僕を育て、浪人させ、4年生の大学まで入れてくれのは、並々ならぬ苦労があったと思う。決して裕福な生活ではなかったけど、僕は文句を言わないようにしていた。だって母は悪くない。悪いのは全部、父と酒のせい――しかし思えば、母は父の死後に父を悪く言ったことなど一度もなかった。
 地上の灯りたちはどんどん遠ざかっていく。星が、住宅地の中にも空にもあって、どちらもわずかに瞬いている。そんな不思議な光景。寒くはなかった。これは夢なんだ。どうしてこんな夢を見ているのだろう。
 1浪したところで未成年だ。まして現役で大学に入った者はまだ18だというのに、大学に入ると何故か飲酒が実質解禁される。新入生向けオリエンテーションの後、クラスの誰かが企画した親睦会に、僕はうっかり出席してしまった。
 学生向けの居酒屋の隅っこで、僕は所在無く座っていた。いつの間にか既に集団の中で中心となるべき人物たちは選ばれていた。彼らが、彼らだけで勝手に盛り上がっている。落ち着かない気持ちでコップを握っていたら、隣に座っていた気の弱そうな女の子が、飲む? とビール瓶を掲げてきた。
 飲みたくなかった。まだ未成年だし。素直にそう言えばいいだけなのかもしれなかったけど、自分より年下だろう大勢のクラスメイトが楽しく飲んでいるのにそんな固いことを言って断るのも興ざめされそうだし、かといってやんわりとそれを断る器用な言い回しが思いつかず、僕は結局ちょっとの躊躇いの末に、コップを彼女に向けてしまった。口下手で、上手くその場を自分の良いように持っていくための言葉がとっさに思い浮かばなかったのだ。しかも注いでもらった後も、彼女との会話は進まず、手持ち無沙汰になった居心地の悪さを隠すためにひたすら飲み続けるしかなくなってしまった。気付いたら、不快な浮遊感で心身ともに落ち着いていられなくなってしまった。
 父を魅了していた憎むべき謎の飲料、ビールは、果たして、美味しくなかった。苦味と、強い炭酸の不快な刺激だけがいつまでも喉元に残った。それでも仕方なく飲み続けることで得た人生初の酔いは、冷静な思考を僕から奪っていった。
 途中から気付いたら盛り上がっている集団の中に紛れ込んでいて、気付いたらそのうちの一人の家で行われる二次会に着いていってしまっていて、飲んで、楽しくなって、眠くなって、寝ていた。どれぐらい寝ていたのかはわからない。何者かの声によって目が覚めたとき、僕一人だけが先に寝てしまって、皆はまだ盛り上がっていたのかと思っていたのだが、目を開いたらそこは静かで真っ暗な空間だった。いびきが聞こえた。でも僕を起こしたのはその音ではなかった。
「しょっぺえなあ」
 それは、どこかで聞き覚えのあるような、ないような、妙な声だった。どこから聞こえてくるのか耳を澄ます前に、頭蓋骨に暴力的なほどの強い音が響き渡って、僕は寝転がっているのに眩暈がする気分だった。
「しょっぺえよお、おい、どうにかしろよお」
 もう一度、その声はした。一体なんなんだ、頭が痛いから大きな声で叫ばないでくれ、と言おうとしたが、意識ははっきりしているのに、どうしてだか顔も手足も動かなかった。酒のせいなのだろうか?
 その時、突然、右の鼻の穴に猛烈なむず痒さを覚えた。違和感。くしゃみが出そうで、出ない感じ。なかなか消えない不愉快な感覚に苛立って、神経をそこに集中する。体は相変わらず上手く動かなかったが、視線を鼻の方へやることはなんとか出来た。そして、そこには、恐ろしい光景が広がっていた。
 鼻から植物が芽を出していた。暗くてはっきりと見えないが、緑色の蔦状のものが、ゆっくりと、しかし確実に伸びている。何の支えもないというのに、確実に、真っ直ぐ、天井に向かって。僕は仰天した。
「枝豆の木だよお」
 先ほどの声がまたどこからかした。何を言っているんだ、枝豆の木とはなんなんだ。大豆か? 大豆の木はつる性植物ではないし、そもそもどうして僕の右の鼻の穴から大豆の木が生えてくるんだ。枝豆? そういえば、宅飲みを始めたとき、テーブルに枝豆はあった。コンビニで売っている、既に茹でてあるタイプのものだ。
「嘘だと思うなら、お前が枝豆の木になってしまえ! 俺はとにかく、しょっぱくて、痛いんだ!」
 その声がしたと思った途端、僕は確かに枝豆の木になってしまっていた。木の、先端部分が人間の顔と頭に相当するらしく、僕の視界には天井近くからの様子が映っていた。雑魚寝をしている大学生たちに混じって仰向けに眠っている僕の、右の鼻の穴が、確かに、今の僕の根っこだった。そしてさっきからわめいているだみ声の主は、僕の右の鼻の穴の毛穴の一つであることが、今ようやくわかった。
「しょっぺえよお」
 その呟きが、泣き声のように聞こえたと思った次の瞬間、僕の意思とは無関係にどんどん大きく生長していく枝豆の木は、ついに部屋の天井にぶつかってしまった。頭が痛い。だが枝豆の木はひるまずにもう一度天井に頭を打ち付けた。痛い。そして、それを4、5回繰り返すと、突然、天井は破壊された。
 通り抜けるのに丁度よい大きさの穴が開き、枝豆の木はそこから頭を出した。通過するその瞬間、1階の部屋の天井、もしくは2階の部屋の床が、叫んだのが聞こえた。
「しょっぺえよお」
 どうしてこんな無機物までが塩気について訴えを起こすのか。不思議でたまらなかったけど、そもそも枝豆の木になって天井をぶち破っている僕が一番おかしいのだな、と思い直した。枝豆の木の生長は僕の意思では止まらないので、僕は全てを諦めることにして、目の前の光景をただただ眺めていた。
 2階の部屋は、中年男性の一人暮らしのようだった。布団からはみ出た半ケツをわずかに掠ったとき、中年男性がしょっぺえよおと寝言のように言ったような気がしたが、僕は自分の頭が見知らぬ男性の尻の穴に触れたとは思いたくなかったので、それは空耳なのだと固く信じることにした。
 枝豆の木、すなわち僕は、ついにアパートの屋根をぶち破った。アパートの屋根も、
「しょっぺえよお」
 と言いながら、泣いた。満天の星空についに解放された僕は生長を早めた。どこまで行くのだろう。加速しながら空へ、空へ、伸びていく。入学シーズンの春とは言え、真夜中はとてもとても寒いはずなのに、そんな気はあまりしなかった。僕は空中で、眼下に広がる街の明かりを眺めていた。それから、空に散らばる星々も。しょっぺえよお、しょっぺえよおという悲鳴を聞き続けたせいで、僕はなんだかそれらが、析出した塩の結晶が光っているのではないか、などと思い始めてしまった。
 だいたい、枝豆と言っても、生の大豆の木ならしょっぱいはずがないじゃないか。
 そんな事を思っていたら、ついに、白い雲に到達してしまった。月明かりで青白く輝いている、小さな雲――
 それに触れたとき、また
「しょっぺえなあ」
 という声がして、それと同時に、僕は眩しくてたまらなくて、目が痛くて、思わず瞼に力を入れた。僕は気付いたら、見知らぬ白い空間にいた。ようやく明るさに慣れた目で辺りを見回す。そこは、雲の上だった。雲の上に立ったことなんてないけど、飛行機の窓から見える景色とか、絵本の中の天国はいつもこんな感じで、僕は、そこが雲の上で、きっと天国かそれに近い何かなのだと思った。
 そこは真っ白な雲の地面と、どこまでも青い空の世界だった。そこに、父は、いた。
 父は、あの頃のままの姿で、管を巻いていた。いや、比喩ではない。本当に何かホースのようなものをひたすら巻いていた。長いそれを、コンパクトにまとめようとしていたようだ。僕が呆然とそれを眺めていると、ようやく僕の存在に気付いたらしい父が、叫んだ。
「おい、太郎!」
 こんな姿をしているのに、よく僕だと判ったなあ、と思ったけど、ここは天国だから、予期せぬことはしょっちゅう起こるのかもしれない。この状況でもまだ体の自由が利かない僕は、とりあえず黙っていた。
「ぼーっと見てるんじゃねえ、手伝え!」
 そこでようやく、僕は反論する気になった。
「どこ見てるんだよ、お父さん。僕は枝豆の木なのに、そんな作業、手伝えるわけないじゃないか」
「ああ? 枝豆の木だあ? しょっぺえなあ」
 そう言いながら、父は巻ききれていないホースを引きずりながら、僕の方に近づいてきた。雲とホースが擦れたところから、白いもやのようなものがかすかに立っていた。
「しけってやがるぜ」
「しけってる? 枝豆なのに?」
「お前のどこが枝豆なんだよ。お前、さやえんどうじゃねぇか」
「さやえんどう?」
「某大手メーカーのスナック菓子だ」
 僕は愕然とした。そのとき思い出したのだ。そうだ、僕は父を嫌っていたから、父がいつもビールの供にしていた枝豆には手をつけなかった。だが口元が寂しかったので、スナック菓子のさやえんどうを口にしたのだ。そしてそのまま、悪ふざけで、右の鼻の穴に突っ込んでしまったのだ。
 僕は、枝豆でなくさやえんどうの木だったのだ。だからやたらにしょっぱいしょっぱいと言われてしまったのだ。表面にまぶされた塩のせいだ。
「なんだお前、しけってる上に酒臭いな」
「……お父さんこそ」
 僕は確かにまだ酒臭かったかもしれない。しかし父も、同じぐらい酒臭かった。昔のまま。あの頃のまま。僕の嫌いな父。天国なのに。でも、酒によって品のない振る舞いをしてしまった僕は、父のことをあまり責められない。
 萎びていきそうな僕とは対照的に、父は全く変わらないテンションで、僕に言った。
「お前の酒臭さは悪い酒臭さだな、太郎よ。ようやく天国の食卓で息子と杯を交わせると思ったのに、まだ未成年じゃねえか。なんでえ、あの頃の優等生太郎くんはどこへ行っちまったんだ。挙句の果てにさやえんどうの木になっちまうなんて、父さんは情けないぞ」
「さやえんどうの木は関係ないだろ。だいたい、お父さんに酔い方について責められる筋合いは――」
「未成年の飲酒はだめだぞ」
 そう言うとおもむろに、父は雲でできた白い地面を殴りつけて、小さい穴を開けた。そこに、持っていたホースを降ろし始めた。先ほどまで巻くのに苦戦していたようだが、降ろす作業は比較的楽に、スムーズに進んでいるようだった。
 何をしているんだろう、と疑問に思い、尋ねようとしたと同時に、父は、言った。
「あばよ」
 突然、父がホースの先端に息を吹き込んだ様子が見えたと思った瞬間、左の鼻の穴から風が吹き込まれる感覚がした。猛烈に酒臭くて、気持ち悪くなったと同時、右の鼻の穴に圧がかかって痛みを覚えた。そして、そこから何かが飛び出した。何か、というか、しけったさやえんどうであることは明らかだった。
 僕は体を起こした。知り合ったばかりの同級生の部屋の窓の外が、わずかに白く染まっている。朝が来るのだ。僕は大学生になり、いつか大人になる道のビジョンを見始めねばならない。
 まだ同級生たちは眠っていた。テーブルの上で、枝豆の皮が無造作に山になっていた。汚いなあ、と思う。
 僕は来年20歳になる。今度こそ枝豆の木になって父に会いに行く。その時は今日みたいな悪い酔い方はせず、上品にスマートに大人の風格で酒をたしなんで、父に管を巻かせはしないと、決意した。
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