アイス・ボックス



 夏休みのある日、お兄ちゃんが近所の駄菓子屋でホームランバーの当たりを引いた。私がまだ3歳か4歳ぐらいの頃だ。ホームランバーの当たりを見るのは初めてだった。その時、私はお兄ちゃんがヒーローに見えて、ばかみたいにはしゃいだ。でもお兄ちゃんは至ってクールだった。
「これ、俺のだかんな」
 怖い顔をしたお兄ちゃんは、私を睨みながらそう言った。
「手ぇ出すんじゃねえぞ」
 お兄ちゃんは背伸びして、冷凍庫に手を伸ばした。その頃の我が家の冷蔵庫はちょっと古いタイプで、冷凍庫は冷蔵庫の上に乗ってた。
 当時の私はお兄ちゃんのことを自分よりずっと大きい大人なんだと思ってたけど、お兄ちゃんは私より2つ年上だから、まだたったの5歳か6歳だったはず。何度かつま先立ちになったり、ジャンプしたりして、冷凍庫を開けようとした。でもどうしても手が届かなくて、そのうち諦めて、冷蔵庫の一番上の棚に当たりによって手に入れた二本目のホームランバーを隠した。私はそのとき、お兄ちゃんの背中を見ながらぼんやりと、ああ、お兄ちゃんは、大切なものは冷蔵庫に仕舞うんだなあと思っていた。
 当たり前だけどホームランバーは溶けてしまって、冷蔵庫の中がべちゃべちゃになった。買い物から帰ってきたママはかんかんになってお兄ちゃんを叱った。その時、私はなんだか無性に悲しくなってしまった。大切なホームランバーを失った上にママに叱られているお兄ちゃんがかわいそうで。それで当時3、4歳だった私は悲しみのままに泣き出した。私が泣き出したものだから、ママはもっと腹を立てた。私がなんで泣いてるのか言わないから、ママは、お兄ちゃんが私のホームランバーをいじわるで台無しにしたと思いこんだんだ。お兄ちゃんは誤解されてきつく怒られたのに、泣かなかった。

「ねえ、お兄ちゃんて友達いないの?」
 午後6時、夕飯時になってようやく目覚めたお兄ちゃんに、私は言った。眠そうに目をこすった後、お兄ちゃんは何も言わずに体を起こす。ちぇっ、無視かよ。こっちはお兄ちゃんが寝てるからずーっと暇だったのにさ。
「お兄ちゃん、入院してから全然学校の人お見舞いに来ないじゃん」
 もうすぐ夕食が配られるからかな。廊下の方は少し騒がしくなってきた。カーテンで仕切られた隣のベッドの方からは、夫婦と思われる中年の男女の他愛もない会話が聞こえる。お兄ちゃんは怪我で入院してるんだけど、お隣さんは何かの病気の手術で入院しているらしい。お兄ちゃんは同じ部屋の他の人と全然話さないから、私も詳しい事情はわからない。
 お兄ちゃんは誰とも話さない。看護婦さんとも会話しようとしないし。お見舞いにもほとんどだれも来ないから、私ぐらいしか話し相手なんかいないはずなのに、入院してから私とも話そうとしてくれない。
 テレビをつけた。夕方のバラエティ番組をやってた。
「あの子、また来てたよ」
 あんまりにも暇すぎて、私は、言いたくなかったのに、言ってしまった。お兄ちゃんの目がちらりと一瞬だけこっちを見た気がしたけど、気のせいかもしれない。
「お兄ちゃん全然起きないのに、ずーっとここに座ってたよ」
 そう言って、私は自分が座ってる丸椅子を指さした。お兄ちゃんはもうこっちを見ない。まあ、お見舞いに来た高校の同級生が、この丸椅子以外のどこに座るのかって話だから、これはどうでもいい情報だったかも。
 それっきり、またお兄ちゃんはむっつり黙り込んだ。テレビの中で若手のお笑い芸人たちがくだらないこと言ってじゃれあってる。スタジオの笑い声が聞こえてきた。たぶん面白いことをしているはずなのに、お兄ちゃんは画面を見つめたままちっとも笑わない。つまんない。今日はもう帰ろうかな。そう思ったとき、お兄ちゃんはサイドテーブルにあったペットボトルに気付いたようだった。
 あの子が持ってきたんだよ、と言おうとして、やめた。今日はお見舞いに来たのあの子だけだったし、あの子はいっつもレモンウォーター買ってくるから、言わなくたってお兄ちゃんはわかってる。
「私、あの子、嫌い」
 お兄ちゃんは何の反応もしない。
「なんかさ、ぶりっこって感じ。お兄ちゃんの前では大人しくしてるけどさあ、絶対腹黒いよ」
 廊下からキャスターの音がして、看護婦さんが夕飯を運んできた。お兄ちゃんが何故かちょっと慌てたように、レモンウォーターを備え付けの冷蔵庫の中に入れた。ちっちゃい冷蔵庫だ。冷凍庫はついていない。その冷蔵庫の右上の小部屋に、素早くペットボトルが放り込まれた。冷蔵庫の中で、何か固いものとぶつかる音がかすかにした。
 味気ない感じの料理ばっかり並んだトレイがお兄ちゃんのテーブルに運ばれる。お兄ちゃんは怪我で入院してるだけだから何でも食べられるはずなのに、こんなのしか食べられなくてかわいそう。ママもお父さんも、お見舞いに全然こないし、お小遣いもくれないから、お兄ちゃんは売店で好きな食べ物買うこともできないんだ。あの子も、レモンウォーターじゃなくてもっとお菓子とかそういうのを差し入れればいいのに。気が利かない女。
 でも、お兄ちゃん、レモンウォーターを、冷蔵庫に入れたなあと思った。ホームランバーのことを思い出した。

 冷蔵庫になんか入らなければ良かったって、何度か思った。お兄ちゃんには言ったことないけど。
 お兄ちゃんはよく私のことを、妹じゃねえって言った。それは事実だったし、私はまだ子供だったから、何とも思ってなかった。ママとお父さんは再婚で、私はママの連れ子で、お兄ちゃんはお父さんの連れ子だった。お兄ちゃんはたぶん悪意で言ってたんだろうけど、私は何とも思ってなかった。兄弟ができたことが嬉しくて、いっつも後ろをついて歩いていた。少し大きくなってからようやく、うちのこういう事情って結構特殊なんだってわかった。私はママが好きだったし、お父さんも好きだった。二人は優しくしてくれたけど、お兄ちゃんはいつも私に冷たかった。ちょっと寂しかった。
 だからかな、廃工場でかくれんぼした時、冷蔵庫に入ったのは。当たりのホームランバーみたいな、お兄ちゃんの大事なものになりたかったのかもしれない。
 あ、やっぱり違う。たぶん隠れるのにちょうどよさそうって思っただけだ。思い出って、後から変なように補正されるよね。たぶん深い意味はなくて浅はかだっただけだ。お兄ちゃんは全然見つけてくれなくて、飽きちゃったから出たくなったんだけど冷蔵庫の扉が開けられなくなって、暑くってしかたなくって……その先のことはよく覚えてないんだけど、私はお兄ちゃんが私のことを見つけてくれなかったのが悲しかったから文句を言おうと思って、夜、お兄ちゃんの部屋へ行った。
 お兄ちゃんは悲鳴を上げた。私が見えると言って泣き出した。それを聞いてママが狂ったようにお兄ちゃんを殴った。私はまだ9歳の子供だったから、どうしてそうなってしまったのか全然わからなかった。悲しくて、やっぱり泣いた。誰も聞いてなかったけど。自分が死んだんだって気付くのに結構かかって、その間、私はお兄ちゃんがかわいそうだと思ってつきまとってしまった。それでお兄ちゃんがノイローゼになっちゃったんだけど、私のせいだって気付くのにもやっぱり結構時間がかかった。時間が経つとわかることがいっぱいあった。後悔も増えた。溶けたホームランバーを見て泣くべきじゃなかったし、あの日冷蔵庫に入るべきじゃなかったし、死んだのにお兄ちゃんにつきまとうべきじゃなかったし、お兄ちゃんが怪我で入院してから病院に通い詰めるんじゃなかった。
 お兄ちゃんにあんな女の子がいるなんて知らなかった。私のせいで一時期ノイローゼになってからお兄ちゃんは友達が少ないから、まして彼女なんて絶対にいるはずないと思ってた。病院に何度も来るあの子を見て、ああ、お兄ちゃん、もう高校生なんだなって思った。私にはお兄ちゃんしかいないのに、お兄ちゃんはちゃんと家の外で社会に属して、私の知らない人と交流して人間関係を築いているんだ。
 しょうがないって何度も自分に言い聞かせるけどやっぱり辛い。
 冷蔵庫の中には私がまだ生きてた頃の家族写真が入ってる。私とお兄ちゃんと、ママとお父さんが、カメラに向かって笑ってる写真。私とお兄ちゃんのお気に入りの写真。でもママはお兄ちゃんが私の写った写真を持ってると怒るから、入院してから冷蔵庫の中にこっそり隠しているんだ。いつかあの頃みたいに、みんなに笑って欲しいってずっと思ってた。でも多分、無理なんだと思う。お兄ちゃんはきっと、冷え切った過去から、冷え切った家族から、自立するんだと思う。大人になって、自分にふさわしい女の人を見つけて結婚して、今度こそ本当の家族を作るんだ。
 しょうがないって何度も必死に自分に言い聞かせているうちに、黙っていられなくなった。
「お兄ちゃん」
 お兄ちゃんは味噌汁のお椀をお盆に戻したところだった。無表情に食事を続けている。
「寂しいよ」
 ずっと我慢してたはずなのに。お兄ちゃんがかわいそうだと思ったから、ママとお父さんが心配だからここにいたはずなのに。だからずっと口にするまいと思ってたはずなのに。
 一度そう呟いてしまうと、無性に、そんなことあるはずないのに、全身の皮膚がむず痒いような、あついような、寒いような、息苦しいような、あの日みたいな、そんな感覚が蘇ってきた。頭が煮えたぎる。お兄ちゃん、早く見つけて、ママ、お父さん、助けて、誰でもいい、――
 その時、目の前の、お椀を持ったまま、温かくないご飯をじっと見つめるお兄ちゃんの唇が、動いたような気がした。
「……ごめんな」
 それは、まるで独り言のように聞こえて。ううん、やっぱり違う。空耳だ。だって、聞こえるはずないもん。冷蔵庫の中で、私は、もう、





この作品は創作競作サイト「てきすとぽい」さん内の「推敲バトル The First」企画に参加したものです。初稿を公開し、参加者さまからのアドヴァイスを元に改稿しました。
この場を借りてご助言くださった企画参加者さま方に改めてお礼申し上げます。
尚、初稿、頂いたご助言、改稿の過程などはてきすとぽいさん内の企画ページにてご覧いただけます。
推敲バトル The First <前編> <後編>


Copyright(C)2013 碧 All rights reserved. designed by flower&clover
inserted by FC2 system