宙の記憶



 夢を見る。
 果てしない空間を、いつの間にか発生した大きなエネルギーに乗って渡っている。その空間は数多のエネルギー物質で満たされ、それらが様々な力で引き合い、反発し合い、均衡を保っている。その概念を知らないはずなのに、夢の中の自分はその空間を『海』に似ていると思っている。静かな宙(そら)で、時に大きな、時に微小なエネルギーに乱されながら、それでも自分は止まることなくただそこを渡っている。
 果てしない、光と、無と、力と、あの静けさに、胸が、
 胸が――

「また泣いている」
 突然頬に触れられて、テクタイトは目覚めた。
 自分の周りは空気で満たされている。だから決して静かではない。空気の流れる気配に乗って、様々な振動――音が、鼓膜を揺るがす。小鳥のさえずる音。朝の音だ。
 瞼を光に刺激され、ほんの少し痛みを感じた。朝、それは、夜があるから朝という概念がある。自分は今、星の上にいる。
 ゆっくりと目を開くと、ベッドに横たわる自分を女性が顔を近づけて覗き込んでいる。
マスター、と呼ぼうとするより先に、紅の乗った艶のある唇が動いた。
「泣き虫」
 冗談めかした口調でそう揶揄すると、亜梨紗はテクタイトの目元をゆっくりと指でなぞった。滑らかな手触りの指が、テクタイトの涙で濡れ、それが肌の上を滑る。その感触に、一瞬彼の身体の芯が震える。緊張と弛緩の狭間の、奇妙な感覚。それは恐怖のようであり、快感のようでもあり、彼の思考を奪い去ろうとする。一度身体を固くし目を瞑ったテクタイトが、もう一度目を開けると、亜梨紗はすでにベッドから立ち上がって歩み去っていた。
 テクタイトはしばしばあの宇宙の夢を見て、規定の時間に目覚められなくなる。その度に亜梨紗はこうやって起こしに来るが、いつもあの奇妙な感覚が沸き起こる。そのことを亜梨紗に打ち明けた事はない。口にすべきではないことのような気が、なんとなくしているからだ。
「申し訳ありません、また寝過ごして――」
 慌てて起き上がると、くすくすと笑う亜梨紗の声が聞こえる。
「良いわ、たまには。朝食を作るからゆっくり着替えていなさい」
 台所からは既に何か炒め物をしている気配が、音と、においと、熱気で感じられる。
空気がある。それは、離れた場所からの何かを、知らせてくれる。
 自分は今、地球にいる。

 テクタイトは三年前、亜梨紗の魔法によって人間の形を与えられた。亜梨紗はテクタイトのこの状態を『思念体を具現化した』と表現している。テクタイトという鉱物から、突然別の形として魂を与えられたのだ。まだ意識が朦朧としていた彼の前で、亜梨紗は呟いた。
「不安定だわ」
 手に入れた黒の目が最初に釘付けになったのは、自分にそれを与えた女性の、微かに歪んだ顔だった。
 テクタイトの石と同じ黒色をした長い髪が、風になびいた途端に太陽に照らされて眩しく光った。その黒と対称に肌はあまり日に焼けていいない透き通る白で、僅かに上気して赤くなっている。切れ長の目がこちらを真っ直ぐ見つめ、小さな唇がきつく閉じられていた。
 本来ならば具現化された思念体は独立した一個体として生きていけるはずなのに、彼は完全な独立ができなかった。しかし何故か元の鉱物に戻ることもできず、不安定な状態でもなんとか形を維持するため、亜梨紗は常にテクタイトに魔力を与えなければいけなかった。それ故、テクタイトには時々亜梨紗の揺れ動く感情が流れ込むように伝わってくる。そうやって感情を共有することで、感情の定義をテクタイトは学んできた。亜梨紗が何かを喜んでいるときは、テクタイトも嬉しかった。亜梨紗が何かに腹を立てているときは、テクタイトも憤った。亜梨紗が何かに悲しんでいるとき、テクタイトも苦しく、どうすればいいのかわからずに側に寄り添った。
 亜梨紗と暮らし始めて一年が経った頃、夜中に窓辺で空を見上げながら一人佇む亜梨紗の哀しみを感じ取ったテクタイトは、傍に歩み寄った。
「ありがとう」
 亜梨紗は掠れた声でそう言って、ブランケットをかけるテクタイトの手に自分の手を乗せた。亜梨紗の肩の上で手と手が触れ合ったその瞬間、テクタイトは人間の形になって初めて、亜梨紗から感じ取る感情よりもっと強い自分自身の感情が、どうしようもなく内からせり上がってくるのを意識した。息が詰まってしばらく身動きがとれなかった。その不可思議な現象について我慢できず、テクタイトは亜梨紗に尋ねた。
「マスター、今、私はマスターの中にはない感情を抱いているのです。今までマスターからは感じたことの無いものなのです。これは一体何なのでしょうか」
 亜梨紗は少し首をかしげてテクタイトを見上げた。
「それはどんなものなの?」
「胸が締め付けられるような、身体が熱くなるような、今まで感じたことの無いものなのです。哀しいことや恥ずかしいこととは、似ているけど少し違うようなのです」
 テクタイトは真剣に、自分の疑問を解消したかった。だのに、亜梨紗はその瞬間ぷっと吹き出したのだった。悲しみに沈んでいた顔が、急に楽しそうな笑顔になった。
「マスター?」
 困惑しながら声をかけると、亜梨紗はテクタイトの髪を指で揺らした。おかっぱ頭なのは、不器用な亜梨紗が切っているからだ。アッシュブロンドが揺れながら、月光を受けて輝いた。
「そうよね、最初から大人の格好をしていたし、近頃はだいぶしっかりしてきたからすっかり忘れていたわ。ここに来て、まだ一年だったかしら」
「はい」
 もう一度、くすくす、と笑って、亜梨紗は言った。
「子供みたいね」
 亜梨紗の胸のうちにあった哀しみが、その一瞬で和らいだのがわかって、それと同時に、亜梨紗が自分の疑問に答えてくれないことに対する不満よりも、先ほどから生まれた感情がさらに大きくなっていくのがわかった。
 理由はわからないが、こういったことは口にしても意味がないのかもしれないと、テクタイトはそれ以来、この気持ちだけは、解消するのを諦めている。

 朝食はつぶれた目玉焼きと焦げたトーストだった。台所からは僅かに焦げ臭い匂いが漂ってくる。亜梨紗は料理が上手くない。テクタイトがこの家に来てから、亜梨紗は家事全般のやり方をテクタイトに教え込み、彼はそれをあっという間に習得した。私ができないことを、やり方を教えただけであっという間に上達させちゃうのね、と、一度亜梨紗は拗ねていた。それからテクタイトは同居人として亜梨紗の世話をしている。
「久々に作ったらうまくいかなかったわ」
 そう言いながらコーヒーを淹れている。芳ばしい匂いが一気に迫ってきて、鼻腔を刺激する。テクタイトは料理を口にした。
「懐かしい味がします」
 それは、テクタイトが家事を担うようになってから久しく食すことのなかった、亜梨紗の料理の味だった。苦味と、歯ごたえと、味付けの薄い、亜梨紗の味。
 テクタイトの言葉を聞いて、亜梨紗がコーヒーカップをテーブルに置きながら、微笑み、テクタイトの向い側に座る。
 笑み。それにはいくつかの種類がある。亜梨紗はよく微笑する。その時、たいていは『幸福感』を覚えている故に微笑している。だからテクタイトは安心する。安心して、その幸福感を共有する。
いつもはテクタイトが作った朝食を亜梨紗が食べ、それをテクタイトが眺めるのだが、今日は逆の立場だ。それ以外は何ら代わりのない穏やかな朝の光景だった。食べ終われば、いつもの通りテクタイトが片づけと掃除を引き継いだ。食器を洗い終えた頃に、亜梨紗は離れにある天文台へと出かけて行った。居間で掃除機をかけていると、テレビ電話の呼び出し音が鳴った。亜梨紗の部屋からだ。慌てて亜梨紗の私室の扉を開けると、小さなモニターに見覚えのある顔が映し出されていた。
 浅黒い肌に、目鼻立ちのはっきりとした顔。額に赤い印がある。
「ハァイ、テクタイト。久しぶりね。あなたが出たってことは、亜梨紗は外出中?」
 朗らかな声で画面の中で手を振るこの女性は、アーシャ・ベイカーという。亜梨紗の大学時代からの親友だ。生まれも育ちもニホン国内であるため、訛りのない美しい日本語を話すが、両親がインディオ系英国人であるため、顔立ちは純ニホン人とはかけ離れている。
「天文台の方にいらっしゃいます。呼び出しますか」
「いえ、いいわ。戻ったら連絡するように言っておいて。明後日の教授のパーティーほんとに来るのか確認したかっただけだから」
「パーティー……ですか」
 テクタイトが首を傾げながら聞き返すと、アーシャが目を丸くした。
「あら、聞いてないの? 私たちがお世話になってた大学時代の先生の、退官パーティーよ」
「ああ――」
 それが何であったか思い出して、テクタイトは相槌を打ちながら、同時に更に不可解な気持ちになった。そのパーティーがあることは知っていた。それへの出席を長い間亜梨紗が渋っていたらしいことも。
 それは、亜梨紗がかつて宇宙研究所の職員として働いていた時の権威ある教授の退官パーティーだと言う。亜梨紗は四年前までそこで地質学の研究をしていた。隕石やロケットが採取してきた衛星の一部、そして地球の土壌を解析するのが亜梨紗の学生時代からの研究テーマで、卒業後にそのまま大学の一部である研究所に就職して、四年間研究を続けていた。 パーティーの開催予定は半年以上前から具体的に決まっていたらしいのだが、亜梨紗は何度かそれを断ったのだと聞いている。その理由はテクタイトにはわからない。ただ、そのパーティーの話をすると亜梨紗の心の中にほんの少し影が落ちることは、把握していた。深い悲しみや怒りではない。これは、おそらく、緊張と呼ばれる状態に近い。それが湧き起こる度に、テクタイトもまた、妙に落ち着かない、胸騒ぎがした。だからてっきり、そのパーティーには亜梨紗は参加しないのだと思っていたのだが。
「マスターは出席されるのですか」
「そういう返事をもらったけど。念の為に確認をしに電話したの。てかあの子、いつになったら携帯持つのよ。不便ったらありゃしないわ」
 軽く悪態をつくアーシャの表情は、明らかに曇っていた。いつも静かに微笑んでいる亜梨紗と違い、表情の変化がはっきりとしている。亜梨紗とは感情を共有しているから相手の気持ちがわかるのだが、アーシャとはそうはいかないため、テクタイトは時折その発言や表情の真意を測りかね戸惑うことがある。
「――申し訳ありません」
「え? 何を謝るの」
「ああ――いえ」
不思議そうに返されて、謝るべきことはなかったのだと気付き、テクタイトは慌てて続けた。
「では、マスターにはそようお伝えします」

 亜梨紗の家はニホンという小さな島国の、田舎にある。インフラは整っているが、山間の過疎地で、周囲には人家も殆ど無い。亜梨紗はそこでテクタイトと二人きりで暮らしている。そこは若くして死んだ亜梨紗の父が生前に天文学を研究するために所有していた土地で、天文台と、そこからほんの少し離れた場所に小さな居住空間がある以外は、周辺に何もない山奥だ。あまりに山奥にあるせいで客人が訪れる事は殆どなく、唯一、この三年の間にここを訪れてきて、テクタイトとも面識があるのはアーシャだけだ。
 母屋から天文台に向かいながら、テクタイトは周りの、林の風景を見回した。冬が近づいている。夏は緑で鬱蒼とし、秋は紅と黄色で鮮やかに色づくこの山も、セピア色に染まりつつあった。
 この道はあまり通らない。天文台にはあまり近寄らないようにしているからだ。中に入ったのはこの三年の間で一度だけだ。その時は、衝動的にこの道を駆けた。夕食後に一人で天文台で作業をしていたはずの亜梨紗から、不穏な感情の膨らみの気配を感じたからだ。離れていれば亜梨紗の感情は流れてこないはずなのに、その時は亜梨紗の感情があまりにも大きかったからだろう。五十メートルほど離れた天文台にいた亜梨紗のそれを感じ取り、テクタイトはいてもたってもいられなくなったのだ。
 亜梨紗はその時、天文台の前室で、背もたれを倒したアームチェアで横になりながら、目を閉じてラジオを聞いていた。ラジオは、とあるマイノリティの種族が、都心でデモを起こしたというニュースを流していた。
「マスター」
 薄暗い部屋で一人でいる亜梨紗に、テクタイトは声をかけた。テクタイトは天文台には寄りつかないため、亜梨紗は最初そのことに驚いていた。
「どうしたの」
 困惑しながらそう問う亜梨紗に、テクタイトは正直に言った。
「悲しいような、苦しいような感情が流れてきたのです。こんなに離れた場所から……」
 そう言うと、ありさの心中はますます重苦しいものになり、同時にテクタイトの胸も締め付けられた。
「心配させてしまったのね。ごめんなさい」
「どうかなさったのですか」
 そう聞くと、ありさはしばらく思案した後、ニュースのこと、ありさの血筋のことを説明してくれた。
「デモを起こしているのは、私の同胞なの」
 亜梨紗は魔法が使える。その力を使って、テクタイトに人間の姿を与えた。時折、壊れたものを直したり、簡単な怪我を癒すのを見たこともある。それは、全ての人間ができることではない。亜梨紗がそういう血筋に生まれたからだ。
 魔法の使える種族は、全世界に二パーセントの確率で存在する。そのうちの多くは、百年程前に発見されるまで、閉鎖的なコミュニティを作り、山奥や森の中でひっそりと暮らしていた。それが科学の進歩に伴い、チャイナの一角で最初の種族が発見されて以来、世界中の同胞が世に姿を見せざるを得なくなった。
 魔法が使える、という点以外では、他の人類と全く変わらぬ姿をしている。長年の人類学の研究で、知能と体力も多少一般の人類に比べると優れている確率が高い、と言われているが、概ね同じものである。
 ただ、科学では説明のつかない『魔法』という概念を突如携えて現れたこれらの種族を、一部の保守的な人間は薄気味が悪い、あるいは科学の進歩の障害になると言って、忌み嫌った。最初の発見から百年が経ち、偏見や差別が徐々に問題視される今でも、種族を嫌悪する人々はゼロではない。だから時折こうして、権利を獲得するため、制度を改革してもらうため、あるいは差別を受けている自分たちの現状を知っているために、声を上げる者たちがいるのだという。
「マスターもこのデモに参加したかったのですか?」
 ニュースの説明をされても、テクタイトには亜梨紗がここまで悲しむ理由がはっきりとわからなかった。テクタイトは、亜梨紗の感情を共有することはできても、具体的な思考や、感情の理由は、説明してもらわなければ理解することができないのだ。
「いいえ」
 苦笑して、ありさは言った。
「ただね……私は、もっと静かに暮らしたいの。誰も傷つけず、傷つけられずに……」
 それはテクタイトの質問の答えでは決してなく、テクタイトの疑問を解決はしてくれなかった。だがそれ以上は何も聞くことができず、テクタイトはありさの肩にそっと手を起き、ありさの心が落ち着くのをずっと待っていた。
あれも、まだ肌寒い秋の終わりの頃だった。

 林の中に少し開けた場所があり、そこにドーム状の屋根が特徴的な建物が見えてきた。扉を開けて中に入る。天文台の前室は以前に入ったときのそのままだった。亜梨紗の父が趣味で、あるいは学術的な研究で撮った星や夜空やクレーターの写真、隕石のレプリカなどが並べられている。亜梨紗の両親は亜梨紗が小さい頃に離婚していて、ずっと父子家庭だったと聞いている。天文学の博士だった父は、亜梨紗が十歳ほどの頃に亡くなった。ここに飾られているのはその父の大事な形見だ。
亜梨紗が定期的に掃除をしているのだろう、一見綺麗にしてあるように見えるが、細かいところには埃や蜘蛛の巣が残っていた。
 隕石のレプリカの中に、テクタイトの石もいくつかあった。テクタイトは、隕石が落ちた衝撃でできるガラス様の鉱石だ。隕石が落ちた衝撃で熱せられ融けた地表の一部の成分が空中まで舞い上がり、それが冷却されて再び地上に落ちてくる。そうして出来たテクタイトの石は宝石としての価値もある。世界中に存在するが、クレーターに関連して分布していることが多い。形や色は様々だ。
「あなたは綺麗な黒色だったわ」
 と、以前亜梨紗はテクタイトに言った。
「その目と同じ色」
 テクタイトには、自分が人間の体を与えられる前の記憶はなかった。そんな風に言われると、不思議な気分になった。覚えているのは、あるはずのない、宇宙空間の夢だけだ。
 そう言った時、亜梨紗がテクタイトの目をじっと見つめるので、テクタイトも自然と、それを見つめ返した。石であったときの記憶は全くない。だがそこで、亜梨紗に初めて出会ったときの事はいつまでも色あせることなく記憶されている。
「マスターの目は茶色ですね」
 そう言うと、亜梨紗は笑った。
「そうね」
 笑うと目が細められる。その色が見えなくなってしまう。
「私は少し、他のニホン人より色素が薄いみたいなの」
 もう少しその茶を見ていたかったし、笑っている亜梨紗をそのまま見ていたいと思った。亜梨紗の心中も心地よく穏やかだったが、テクタイトの心中にある穏やかな感情は、それと似ているようで少し違った。
 ぼんやりとそれを思い出していると、天文台の中から亜梨紗が出てきた。
「一体どうしたの、ここに来るなんて珍しい」
 心底驚いている。テクタイトはここに来た用事を思い出して、すぐさま口にした。
「さきほど、ミス・ベイカーから電話をいただきました」
 アーシャの名前を出すと、ほんの少し、亜梨紗の心が和む気配を感じた。二人は心を許しあっている無二の親友なのだとテクタイトは確信する。亜梨紗と共にいるとき、アーシャに対して、テクタイトも親愛の情を抱かずにはいられない。
「それを伝えにきたの? 緊急の用事?」
「いえ、明後日のパーティーに本当に来るのか確かめたい、とおっしゃっていました」
「なんだそんなこと――」
「マスター」
 亜梨紗を遮るようにして、テクタイトは言った。そのことを、確認せずにはいられなかった。
「パーティーに、行くのですか」
「ええ――あら? あなたに言ってなかったかしら? 門川先生にはお世話になっていたし、行くことにしたのよ」
 聞いていない、とテクタイトは思ったが、それを責めるより前に、不安が自分の中で膨らみ始めた。亜梨紗の中に今は存在しない、テクタイト一人だけの不安だ。
「お供しなくて、大丈夫ですか?」
 テクタイトがそう問うと、亜梨紗が首を傾げる。
「大丈夫よ? 私のよく知っている先生を囲む、ごく内輪のパーティーだから、エスコートは要らないわ」
「でも、」
 付き添いは必要ないと言い切る亜梨紗から、特別な感情は感じ取れなかった。だがテクタイトはこれまで、何度か明日のパーティーの話をする際に亜梨紗から不穏な感情の揺れを感じ取っているのだった。これまで、亜梨紗が悲しかったり辛かったりする時、テクタイトはいつも彼女の側に寄り添っていたのだ。なのに、悲しい気持ちになるとわかっている場所へ一人で行かせるというのが不安だった。
「あら、もしかして、一人は不安なの?」
 亜梨紗の唇が微笑む形に動いた。テクタイトの視線はそこへ惹きつけられる。
「そういえば、あなた一人を残して外泊するのははじめてだったわね。私がいないと眠れないなんて、まだまだ子供ね」
 そういって小さく笑い、目を細めてテクタイトを見つめる。
 確かに、不安だった。ただそれは、自分が一人になるからではない、と思っている。亜梨紗が自分のいない場所で悲しい思いをするかもしれないということが不安なのだ。だが、その心をテクタイトは上手く言葉にできなかった。不安に、焦りのようなものが加わった。落ち着かない気持ち。焦燥感というのだと、かつて亜梨紗が教えてくれた。
 テクタイトの中に理屈では説明できない衝動が生まれた。普段ならば自分自身が不安でも亜梨紗の言う事には逆らわない。意見もしない。だが今、亜梨紗を一人でパーティーに行かせるのは絶対に嫌だと思った。
 感情に任せて、主張した。
「連れて行ってください」
 亜梨紗の目を見つめてはっきりと言うと、彼女は驚いたのか目をほんの少し見開いた。意外だったのだろう。テクタイトが亜梨紗の言葉に反抗して何かを強く主張することなど殆どなかったのだから。ほんの少し生まれる罪悪感に近い気持ち。でも譲れない、とテクタイトは思った。理由は自分でもわからなかった。時折訪れるあの名前のわからない感情が、体のどこからかせり上がってきている気がした。この気持ちは時折自分に不条理な言動を強要しようとすることがある。今の状態がまさにそれだった。
「マスターを一人で行かせたくありません」
 亜梨紗は戸惑ったように少しだけ眉を寄せて、テクタイトの目を覗き込んだ。その様子を見て、テクタイトは亜梨紗が自分の気持ちを理解していないような気がした。それでも良いから、亜梨紗に同伴したい、と思った。
 相手に自分の主張を押し通したいときは、真っ直ぐに目を見つめ、はっきりとした声で簡潔な言葉遣いをすることだ、というのは、亜梨紗を三年間見てきて自ら学んだことだった。もう一度、言った。
「私を連れて行ってください」
 亜梨紗は暫く思案しているようだった。長い沈黙の後、亜梨紗は苦笑しながら、言った。
「良いわ。来なさい、一緒に」
 そう言うと、亜梨紗はテクタイトに背を向け、天文台の中へ戻っていく。扉の向こう側には、巨大な光学望遠鏡があった。亜理紗はそのメンテナンスをしている様子だ。望遠鏡を見るのはテクタイトは初めてだった。星や、宇宙を観察するものだとは知っているが、そのレンズを覗いたことはない。
 覗き込みながら何かをメモしている亜梨紗は、すっかりその作業に熱中してしまっているようで、もはや何も不安を感じさせる気配はなかった。
「壊れたのですか」
 なんとなくその場を立ち去りがたくなり、テクタイトは話しかけた。亜梨紗が作業する手を休め微笑む。
「いいえ、点検をしているだけ。定期的にやらなくちゃいけないの。古い型で、メーカーの保証期間が終わっているから」
 それからもう一度覗き込んで、何かを書き留め、それで作業は終了したようだった。
「もうすぐ、流星群が降るのよ」
 と、唐突にありさは言った。
「――フタゴ座流星群ですね。先日、テレビで言っていました」
「再来週の日曜日が極大になるわ。今年は新月だから、綺麗に見えるはずよ」
 一緒に見たい? と聞こうとしたのかもしれない、とテクタイトは思った。そんな気配がした。しかし、亜梨紗はそこで言葉を切ったまま、何も言わなかった。じわり、じわりと、何故か、不穏な感情が押し寄せてくるような気がして、落ち着かなくなった。
「マスター?」
「大丈夫よ」
 テクタイトがそれを感じとったのをわかったのだろう。亜梨紗が遮るように答えた。
「大丈夫」

 ☆

 三年間亜梨紗と二人で暮らしてきて、亜梨紗から人間の生活について教えられ、感情を共有し、自分は亜梨紗のことは良く知っているのだと、テクタイトは思っていた。だが、山を下り、電車に乗り継ぎ、県境を一つ越え、着いた駅から車で十分ほどの場所にあるホテルへ向かう道すがら、そうではないのかもしれないと思い始めていた。その道のりで見たものは、亜梨紗と暮らしている町とはまるで違う世界だった。駅から出れば、自然のまま生える草木や、川、岩場などは見当たらず、真っ直ぐな広い道路を乗用車が次々と途切れることなく走っており、その道路の両側には背の高いビルディングが立ち並んでいる。傾きかけた太陽のほんのり赤みを帯び始めた光が、ビルの窓に反射して眩しかった。初めての『都市』に気圧されたテクタイトを、亜梨紗は笑った。
「マスターは驚かないのですか」
 と、テクタイトが、問えば、亜理紗の胸の内に、暖かく朗らかなものがあふれ出す。
「私、昔はこのあたりに住んでいたのよ。大学に入ってから研究所を辞めるまで、ずっとね」
 青春時代の思い出の地を懐かしんでいるのかもしれない。テクタイトは、心配していた割りに会場に近づくにつれ明るくなる亜理紗の心中に、安心を覚えると同時に、自分の知らない亜理紗の気配に一抹の寂しさが湧いて来るのを感じた。思いに耽りかけたテクタイトを我に返らせたのは、突然響いた聞き覚えのある声だった。
「亜梨紗!」
 ベージュのタイトなドレスで着飾り高いヒールの音を立てながら足早に近づいてくるスタイルの良い女性が見えた。アーシャだ。その姿を認めた途端、亜梨紗の胸の内に温かいものが溢れるのを感じ取る。
「良かった。結局当日になってドタキャンするんじゃないかって心配してたんだから」
 そう言いながら亜梨紗の肩を叩くと、アーシャはテクタイトに目を向けた。
「テクタイト。あなたも来たの?」
「はい、マスターについてまいりました。ごきげんよう、ミス・ベイカー」
 テクタイトがゆっくりとお辞儀をすると、アーシャが声を上げて笑う。この女性は陽気な性格で、よく笑う、という印象をテクタイトは持っていた。亜梨紗の静かな微笑とは違い、楽しい、おかしい、嬉しい、そういう気持ちを笑い声と表情と仕草に全てはっきりと表す。そして、亜梨紗はそういうアーシャのオープンな気質に、心地よさを覚えているようだ。
「相変わらずね。英国紳士みたい」
 テクタイトの何かが面白かったらしく、アーシャがそうコメントすると、つられたように亜梨紗が小さく笑った。
「そうでしょう。さっきも電車の中で車内販売の娘が顔を赤らめてたんだから」
「あらあら油断も隙もないわね。マスター以外の女の子にすぐ粉かけるようじゃ――」
 亜梨紗たちが面白がる様子を、テクタイトは戸惑いながら見ていた。
「私はマスターに教わった通りに礼を尽くしていたつもりなのですが、粉をかけるとはどういう事なのでしょうか」
 そう言うとアーシャがまた我慢できない、といった具合に大笑いするのだった。
「全く、自覚が無いイケメンは困ったものね。さ、時間が迫ってるから早く行かないと」
 納得のいく答えが貰えないことに少し不満を残したまま、しかし促されて、テクタイトはタクシーの乗り場に向かった。この二人が一緒にいるとテクタイトが何か口を挟む隙がなくなってしまう。初めてアーシャが亜梨紗の家にやってきた日は戸惑ったが、二度目からは諦めることに決めていた。アーシャと一緒にいるときの亜梨紗の心はとても穏やかで、その感情はテクタイトにも心地よいものを与える。だから彼女のことが、亜梨紗同様に、テクタイトは好きだった。
 駅のロータリーの隅には、客を待つタクシーが何台も連なっている。それもまた、テクタイトにとっては新鮮な光景だった。亜梨紗の家がある町では車自体が少なく、タクシーは電話で呼びつけるものだった。それがタクシーの乗り場であることは、表示が無ければわからなかった。
 アーシャが突然思いついたように亜梨紗に言った。
「あなた、会場にあの子を連れて行くのよね。先生方にはどう説明するつもり?」
「どうって」
 亜梨紗は眉を少し上げて、それからなんとも無いことのように、答えた。
「そのままよ。あの子は、テクタイトの思念体だから。どうしても私のエスコートがしたいなんて言うから、連れてきたの」
 テクタイトがドアを開け、亜梨紗が乗り込もうとしたところで、アーシャが一旦それを制した。
「亜梨紗、それは、あなたが魔法を使っていると、公にするつもりってことなの?」
 アーシャから先ほどまでの陽気な表情が無くなり、渋い顔になった。それがどういう感情を表しているのか、彼女が何を考えているのか、テクタイトにはわからない。アーシャに問いかけられた亜梨紗からは何の動揺も感じられなかった。僅かに微笑むような表情を見せて、亜梨紗は答える。
「何か問題があるのかしら」
 静かな声に、アーシャは一瞬言葉に詰まったようだった。ほんの数秒の沈黙の後、再び問いかけた。
「亜梨紗、あなた、研究には戻らないつもりなの」
 一瞬、押し黙った亜梨紗から、悲しさ、寂しさに似た暗い気持ちが、ほんの少しだけ流れてきた。テクタイトが動揺するより先に、アーシャが声をあげた。
「だめよ」
 亜梨紗が驚いたように少し目を見開き、何か話そうとしたのを遮って、アーシャが続けた。
「だめよ、あなた、今は感傷に浸ってるのかもしれないけど、諦めちゃ、だめ。今日のパーティーで気が変わるかもしれないし。自分から戻る可能性を潰すような真似はしないで。私からのお願いよ。いいわね?」
 相手に口を挟む隙を与えない早口で、アーシャは迫る。亜梨紗がそれに対して何かを答えようとする前に、黙って二人のやり取りを眺めていたテクタイトに、アーシャは向き直った。
「それからね、あなた。名前をつけましょう。今日はジョンとでも名乗っていなさい。亜梨紗の――親戚というのは、無理があるわね、顔立ちが違いすぎるし。知り合いのツテで亜梨紗の世話と個人研究の手伝いをしているという設定にしましょう。いいわね?」
 有無を言わさぬほどの迫力でまくしたてられ、一瞬勢いで頷きそうになりながら辛うじてそれを抑え、テクタイトは亜梨紗の様子を伺った。
「マスター?」
 声をかけると、困ったように苦笑していた亜梨紗が息を吐き出した。
「まったく、あなたには敵わないわ、アーシャ。わかった。魔法を使っている事は、内緒にする」
 その言葉を聞いて、アーシャは満足げに頷くと、タクシーに乗り込んだ。

 会場は車で10分もかからない場所にあるホテルだった。亜梨紗の住まいの周辺ではとても見ることの無いような、背の高いビルだ。広いエントラスの前にタクシーは止まる。ホテルのフロントマンと思わしき男たちが一礼する。テクタイトはタクシーから出てドアを開けた。大理石の床に、アーシャのヒールが当たって、カツン、と高い音が響いた。
「久々ね、このホテル。大学の謝恩会で使って以来よ。覚えてる?」
 アーシャに続いて降りてきた亜梨紗が微笑んだ。
「ええ、もちろん。変わらないわね」
 テクタイトには何もかもが初めてのものを、亜梨紗が懐かしむというのは、とても不思議で、どこか落ち着かなくなるものだった。黙ってドアを閉めると、タクシーがゆっくりと発進する。エンジン音が遠ざかると同時、突然、男性の声がエントランスに響いた。
「ドクター・ミヤシタ!」
 亜梨紗の苗字を、聞き覚えの無い男の声が呼んでいる。振り向くと、ホテルのロビーからテクタイトの知らない男性が駆け寄ってくるところだった。長身のテクタイトよりはいくばか背は低いが、スタイルの良い若い男性だった。亜梨紗よりは少し年下、20代半ばだろうか。白い肌に、亜梨紗と同じ黒いストレートの髪、目鼻立ちのはっきりした顔をしている。明るい笑顔が快活そうな印象を与えた。
 テクタイトがその青年を眺めている一瞬の後、突然亜梨紗から強い感情が流れてきた。何か、深く、重い、冷たい流れが塊となって押し寄せてくる、そんな感情だった。それはいくつかの複雑なものが入り混じっているようだった。緊張、哀しみ、怒り、切なさ――負の感情が多数を占めるが、それらの一つ一つをテクタイトが分解して把握するよりも前に、亜梨紗が口角を上げて綺麗な笑い顔を作った。
「ご無沙汰しております」
「本当にお久しぶりですね。退職なさって以来、こういった場所には顔を出されないので、今日もいらっしゃらないのかと」
 男の言葉は流暢だが少しだけ訛りがあった。この国の出身ではないのかもしれない。朗らかな声音と表情が彼を社交的な人間性であるように思わせる。表面上、亜梨紗とその男の会話は極めて穏やかに見えた。テクタイトに流れてきた感情の波も、段々と静かになって、ほとんど消えてしまった。だが、どこか胸の奥が痛むような、テクタイトを落ち着かなくさせるざわつきのようなものが、微かに残っていた。
「あら、ウィルソンさん、ご挨拶は亜梨紗にだけなのかしら?」
 二人の間に割って入ったのはアーシャだ。ジョークではなく、ほんの少しだけ、棘があるように感じられる言い方だった。顔は微笑んでいるようにも見えるが、亜梨紗と二人で話していたときのような底抜けの明るさとは、何かが違う。だが、違うと断言できるほど、テクタイトは亜梨紗以外の人間の表情から正確に感情を読み取れる能力は無い。ただ黙ってその様子を見ていた。
「あ、ああ、これは、ミス・ベイカー。失礼致しました」
「まったく、隣にこんな美人がいるというのに、失礼しちゃうわ。さ、とりあえず入りましょう」
 そう言うとアーシャはさりげなく二人の間に割って入った。ちらりと振り返って、テクタイトにも歩き出すよう目で促す。そこでようやく、男はテクタイトの存在に気付いたようだった。
「ああ――僕としたことが。ドクターのお連れの方ですか? ケイリー・ウィルソンと申します。父がドクター・カドカワにお世話になっていて――」
 ケイリーと名乗った男が名刺を一枚差し出した。そこには世界的に有名な機器メーカーの名が印刷されていた。様々なベンチャー企業や、科学研究に出資していることでも有名な会社である。ケイリーは副社長、という肩書きになっていた。
「4年前から宇宙研究所と業務提携してる会社よ」
 アーシャが簡単に説明した。つまりは、今日のパーティーの主役である教授とは、ビジネスパートナーということか。
 テクタイトはゆっくり頭を下げた。
「ご挨拶が遅れました、ジョン・スミスと申します」
「私の家で色々手伝って貰っているんです」
 偽名を名乗ると、重ねるように亜梨紗が言った。口調も、表情も、胸のうちも、落ち着いているようだった。
「そうでしたか、それは――」
「さ、入りましょうか」
 ケイリーのことがあまり好きでないのか、少しつんけんした態度のアーシャが、何か続けようとしたケイリーの言葉を遮った。

 ホテルは大きいが、パーティーの会場自体はこぢんまりとしたものだった。立食式で、ワインや料理を手に取りながら三十人ほどの客が思い思いに歓談する。年老いた人から若者、性別も人種も入り混じっているが、どの人々も朗らかに談笑し、和やかな雰囲気に包まれていた。そして亜梨紗に話しかける全ての人が、親しげに言葉を交わし、その度に亜梨紗の心に明るく温かいものが広がるのがわかった。研究所の元同僚達は、亜梨紗に親愛の情を抱いており、また、亜梨紗も彼らのことが好きなのだと、テクタイトは判った。
 その中でも、主役である教授は、亜梨紗にとって特別であるとすぐにわかった。小柄なニホン人で、六十五歳といってもどこか若々しさを感じさせる男性だった。物腰は柔らかでありながら、隙の無い話し方から知性がにじみ出る。
「先生」
 と亜梨紗が声をかけると、門川という教授は満面の笑みになり、亜梨紗を歓迎した。緩慢な仕草で亜梨紗を軽くハグすると、ため息のような声で、言った。
「随分と久しぶりだ。心配していたよ。変わりないかね」
 亜梨紗の胸は嬉しさで弾んでいた。門川に対する、好意と、信頼と、憧れと、そういったものが、一気に沸き起こって、満たしていく。溢れた感情はテクタイトを捕らえて、彼自身にも門川に対する好意を抱かせる。そこから来る安心感に、テクタイトは包まれた。
 亜梨紗は門川をねぎらった後、近況を報告したり、ここ最近の研究について話したりして、暫く会っていなかった分の時間を埋めるかのようだった。穏やかな会話の途中で、門川はふとテクタイトに目をやり、それから僅かに顔を曇らせた。
「宮下(みやした)君の手伝いをしていると……言ったね」
「はい、三年前から」
 小さく頷くと、門川は亜梨紗に向き直った。
「もう研究には戻らないつもりで、そんなことをしたということかね」
 静かにそう問われ、一気に亜梨紗の心中が翳った。動揺している。それで、テクタイトは自分が人間でないことを門川に見抜かれたことを悟った。なにか人間として不自然な言動をしたとは思えない。門川にも丁寧に挨拶をしたつもりだ。どうして判ってしまったのか。そう思っていると、門川は少しいたずらをする子供のような、茶目っ気のある笑みを浮かべた。
「根拠は無い、勘だよ」
 テクタイトにそう言いながら、肘を軽く叩いた。
「立派な紳士に見えたが、まだまだ未熟な部分もあるようだね。動揺をそんなにわかり易く顔に出してはいかんよ」
 その言葉を聞いて、一瞬緊張状態になっていた亜梨紗の気も緩んだ。脱力した笑いをため息のように吐き出す。彼女が何か言おうとするのを門川が遮った。
「彼は君にとって良いパートナーなのだね」
 確認するような口調でそう問われ、亜梨紗は少しだけ視線を彷徨わせた後、声をさりげなく潜めて、語った。
「研究所を辞めて暫くした後、チャイナにしばらく滞在しました」
「うむ」
 語り始めた亜梨紗の中に、何か胸を締め付けられるような、悲しいような、苦しいような、そんな感情が微かに漂い始めた。表面上は穏やかだ。門川は小さく相槌を打ち、続きを促す。
「そこで、テクタイトの石を見つけたのです。黒くて小さいものでしたが、太陽の下で輝いていて、とても綺麗に見えました。理屈では上手く説明できませんが、その時――そこに置いて捨てられないような、何か、縁のようなものを感じて」
 それは、テクタイトが始めて人の形を与えられた時の話だった。一度も亜梨紗の口からはっきりとは聞いたことが無い話。テクタイトがわかっていたのは、三年前にチャイナで拾われたことだけだった。具現化されてすぐ、亜梨紗はテクタイトを連れてニホンに帰国し、以来ずっとテクタイトはニホンの片田舎で亜梨紗と二人で暮らしている。
 優しい口調で、門川は言った。
「君がその血筋に生まれた事は運命だ。それを恥じることはない。直感を信じて持っている力を使えばいいと、私は思う。ただ、君が研究者として優秀であると、私はずっと評価してきた。戻りたいのなら、戻って欲しいと思う」

 門川との談笑の後、亜梨紗は再びかつての同僚たちに囲まれ、最新の宇宙工学学会で発表された報告について語り合い始めた。学術的な会話をされると、テクタイトには理解できないし、話に入れない。そっとその場を離れ、遠くからそれを見守った。先ほどの門川との会話の中では、多少の不穏な感情もあったが、一度研究の話をしだせば、亜梨紗の心中は朗らかで穏やかなもので満たされ、テクタイトも安心した。亜梨紗が、宇宙の研究を愛しているのが、わかった。
「少しは、あなたも飲みなさい。今夜はこっちで泊まっていくんでしょう」
 話しかけてきたのはアーシャだ。シャンパンの入ったワイングラスをテクタイトに差し出す。会釈してそれを受け取ると、アーシャは一度亜梨紗の方に目をやってから、言った。
「あなたをつれてくるなんて思わなかったわ。てっきり来るなら一人で来るものだとばかり……」
「マスターも、はじめはそのつもりだったようです」
 そういうと、アーシャは首を傾げた。ほんの少し目を細めるその表情は、少しばかりテクタイトを責めているようにも見える。
「じゃあ、あなたがついていきたいと言ったのね? どうして?」
「マスターが心配だったのです」
「心配? あなたがすることじゃないわ」
 先ほどのケイリーに対する態度ほどではないが、険を含んだ言い方だった。それに多少戸惑いながら、テクタイトは、気になっていたことを聞いた。
「ミス・ベイカーは、何故私に偽名を? 私がこの会場に来るのは、よくなかったとお考えですか?」
「よくなかった……そうね。あなたが悪いわけじゃないけど……正直言って、私、あの子には研究に戻って欲しいのよ。そのためには、あまり目立つようなことをして欲しくないの、特に、魔法は……」
 そう言いながら、すっと視線を亜梨紗から別の場所へ移したアーシャにつられて、テクタイトも会場を見回すと、別の研究員と談笑しているケイリーが目に止まった。アーシャは彼を見て、露骨に嫌悪の表情をする。朗らかに話しているケイリーは、人当たりがよさそうで、初対面の人間には好印象を与えそうだとテクタイトは思った。何故アーシャがこんな顔をするのかわからなかった。
「亜梨紗が研究所を辞めたのは、ウィルソンの会社が、研究所に出資するって言い出した頃だったわ」
 声を潜めるようにして、アーシャがそう語り始めたので、テクタイトは黙って耳を傾けた。しかし、言葉はそこで途切れた。ケイリーがふと、亜梨紗の方に歩いてくるのが見えたからだ。奇しくもその時、亜梨紗を囲んでいた同僚たちも、亜梨紗の周りを離れたところだった。
「ドクター・ミヤシタ」
 その声がした途端に、またあの、テクタイトにまで激しい混乱を起こす、亜梨紗の複雑な、緊張と、冷たさと、動揺とが交じり合った塊が、膨れ上がった。振り向いた亜梨紗と、微笑むケイリーの目が会う。その瞬間、今度はその中から、また別の、しかしやはりテクタイトには未知の、深く、重く、熱い何かが生じて、胸を締め付けてくる。
 亜梨紗はこのケイリーという男が嫌いなのだろうか、とテクタイトは思う。亜梨紗は心優しい女性であるはずだ。だから嫌悪、という感情はあまり亜梨紗から学ぶ機会がなかった。だが知らないわけではない。そして、それとは、似ているようで、少し違うような気がする。しかしいずれにせよ、あまり良い感情ではなかった。もしかしたら、この男が原因でパーティーに来るのを不安に思っていたのだろうか。
 テクタイトはゆっくりと亜梨紗の横顔に視線をやって、見つめた。
「ウィルソンさん」
 静かにその名を呼んだ亜梨紗は、落ち着いて、微かな笑みを浮かべていた。感情を共有などしていなければ、好意的な笑みだと思うに違いない。事実、その笑顔を向けられたケイリーも、悪い気などしている様子はなさそうに、にっこりと微笑んだ。屈託の無い笑みは、何度か見た最近若者に人気の好感度テレビタレントを髣髴とさせ、きっと多くの人間にとって魅力的に見えるのだろうと思われる。朗らかな表情と口調は、初対面の人間に良い印象を与えるのに十分なものだった。亜梨紗は何故この男性をと接する度、こんな不思議な気持ちになるのか、テクタイトには想像がつかなかった。
「お話があるのです、少しよろしいですか?」
「なんでしょう」
 亜梨紗の胸中は徐々に静かになっていく。自分で自分を落ち着かせようと努力しているのがわかった。人間にとって、昂ぶるような感情はある程度はコントロールできる。だが、本当の心の奥深く、底の底にあるものを消し去ることなどできない。静けさの中にくすぶるような痛みの気配を感じる。
「ドクター・カドカワから既にお聞きになったかもしれませんが、来月に父が経営から退き、私が正式に会社を引き継ぐことになりました」
「そうでしたか、就任おめでとうございます」
 亜梨紗の声は至って朗らかで、好意的であるように聞こえた。だがケイリーのその知らせを聞いた一瞬、また心の中がざわついたのを感じた。どの言葉に強く反応したのかはわからない。だが何か亜梨紗を揺さぶったものがあったのは、確かだった。
 ケイリーの父が、門川の研究所に出資していて、その額が年々高くなり、現在はその会社と切っても切れない関係になっている、というのは、このパーティーの間にテクタイトが耳にした情報を総合して理解した知識だった。その会社の代表にケイリーが就くということは、ケイリーが研究所の運命を左右する立場にあるということである。
「私はドクター・カドカワの始めたこの研究に、深く感銘を受けております。是非とも力になりたい。だから、ドクター・ミヤシタ、私は、優秀な研究者である貴方に、研究に戻って頂きたいのです」
「あ……」
 動揺したように、亜梨紗は微かな声を漏らした。そのまま沈黙になったのを見て、ケイリーは続けた。
「父の件で研究所を辞められた事は知っています。大変申し訳なかったと思っています。私は、例えどんな人種で、どんな思想や過去を持っていようとも、優秀な学者は科学の進歩に貢献すべきだと思っています。ドクター・ミヤシタ、あなたが四年前に発表された論文を拝読いたしました。あれは本当に素晴らしい――」
「ウィルソンさん」
 段々と興奮してきたのか、トーンの上がってきていたケイリーの言葉を、亜梨紗は静かに遮った。亜梨紗の胸中は、もう落ち着いていた。
「ありがたいお申し出ですが、私は研究所に戻るつもりはありません。このお話は、なかったことにしてください」

 ☆

 自分を乱すのは正体のわからぬ澱みだけだった。それらに大きく惑わされることなく、ただ真っ直ぐ、自分はひたすらその空間を進んでいく。だがある時、抗いようのない大きな、大きなエネルギーに吸い寄せられる。ひとつの惑星の引力に出会ってしまったのだった。長かった旅は終わりに近づいていた。外気圏にほど近くなった時、これまでになかった新たなエネルギー達との出会いを予感し、
 テクタイトの夢は、いつもそこで途切れる。

「今日も宇宙の夢を見ていたの?」
 目覚めると、窓辺に立っていた亜梨紗がそう聞いてきた。
 備え付けの時計に目をやった。六時前だ。決して寝過ごしたわけではない。亜梨紗が早く目覚めただけだろう。
 ホテルのベッドは、自宅のものとは多少寝心地が違ったが、夢見を悪くさせるものではなかった。いつもの夢だった。
 宇宙の夢は、亜梨紗に人間の形を与えられた日から度々見るものだ。最初にそれを見た朝、寝起きに涙を流していたテクタイトに驚いた亜梨紗が、何の夢を見ていたのかと尋ねてきた。それに正直に答えると、亜梨紗は不思議そうな顔をした。
「テクタイトは隕石によって出来た鉱石ではあるけれど、隕石そのものではないのよ」
 だからその夢は、テクタイト自身の記憶ではないのだと、おそらくそう続けようとしたのだろう。だが、亜梨紗は何故かそこで一度口をつぐんだ。
「それで泣いていたの」
 そう問いかけながら、テクタイトの頬に残った涙の跡を中指の背でそっとなぞった。その途端、テクタイトは猛烈に、自分は今宇宙ではなく地上で、人間と触れ合っているのだという事を強く実感した。それは悦びのようでありながら、どうしてだか逃げ出してしまいたくなるような、妙な感情を起こした。
 亜梨紗に否定されかけたが、宇宙の夢は何度見ても自分の記憶であるようにしか思えなかった。それは妙にリアルで、懐かしく、そしてそこに戻れないことを哀しく思わせるのだ。だがテクタイトはその気持ちを亜梨紗に打ち明ける気にはなれなかった。宇宙の記憶を否定される事は、亜梨紗と暮らしていて唯一どうしようもなく受け入れがたいものだった。
 夢について亜梨紗が触れてきたのはその出来事以降初めてだった。亜梨紗はテクタイトの涙を軽くからかう事は何度もあったが、夢の件について聞いてくる事はずっとなかった。もはや亜梨紗はテクタイトの夢の内容などどうでもよいものとして忘れ去っていたのではないかとすら思っていた。だがそうではなかったようだ。複雑な気分になった。
「眠れなかったのですか」
 そう問いながらベッドから身体を起こす。亜梨紗も窓辺からテクタイトの方へ歩いてきた。質問に答えなかったことに亜梨紗は驚きはしなかったようだった。二つに並んだベッドの片方に腰掛け、亜梨紗とテクタイトは向かい合う形になった。
「ちゃんと寝たわ。早く目が覚めただけ」
「悩んでいらっしゃるのですか」
 問いかけると亜梨紗は微かに目を見開いた。
 油断していたところを突かれた、という様子だった。言葉に困っている亜梨紗に、テクタイトは不思議に思っていたことをぶつけた。
「マスターは研究所の先生方や同僚の方々がお好きなのではないのですか。宇宙工学の研究がお好きだったのではないのですか。何故昨日、ミスター・ウィルソンの誘いをお断りになったのですか」
 畳み掛けるように言うと亜梨紗は困ったように笑った。そこには、パーティーに行くか否か迷っていた頃のような、不安のような感情があった。こんな風に笑う亜梨紗を見ているとテクタイトも不安になる。そして、その理由が知りたくなった。
 亜梨紗は立ち上がって、テクタイトを見下ろす形になると、そっと頬に手をやった。自分の頬の温度と、亜梨紗の手のひらの温度には差がある。ぬくもりというのは僅かな熱エネルギーだ。それは、万有引力とは違うエネルギーなのに、一度それを知ってしまうと、離れがたく惹きつけられるような、不思議な力を持ってしまう。
「いけない子ね、紳士がそうやってレディにぶしつけな質問をするものではないわ」
「ですが、マスター」
「朝食を取ったら帰るわよ。私たちの家に」

 ☆

 パーティーから二週間が経った。亜梨紗の生活はあれ以来特に変わった事はなかった。これまで通り、規則正しく起床し、気まぐれに出かけて、日の落ちる頃には眠る。個人的に続けている研究のための情報収集をしてまとめるのが日課であるようだった。テクタイトも、それ以降パーティーのことは口には出さなかった。今まで通り、亜梨紗の生活の世話を淡々とこなしていた。亜梨紗が夜中に一人、悲しみに沈んでいるようなことはなかった。単調な生活だった。
 勤めていた頃の亜梨紗の研究テーマは地質学に近いものだった。退職後もしばらくは世界各地のクレーターを見て回っており、テクタイトと出会ったのもその旅の途中だった。だがそれ以来亜梨紗の興味は父の専門でもあった観測天文学にシフトしたらしく、夜は自宅にある天文台から空を覗いていることが多い。テクタイトは天文台にだけは近づかないようにしている。宇宙空間は常に夢で見ていた。テクタイトにとっては、望遠鏡で覗くものではなかった。
 ケイリーに再び出会ったのは買出しに出かけた街角で、その日、たまたまテクタイトは一人だった。
「ミスター・スミス!」
 突然背後からそう呼ばれた時、テクタイトはそれが自分を指す名前だとわからずに無視しそうになった。もう一度そう呼ぶ声に聞き覚えがあることに気付いて、慌てて振り向くと、それがケイリーであることがわかって、テクタイトはパーティーで使っていた自分の偽名を思い出した。
「失礼致しました、ミスター・ウィルソン」
「こちらこそ、突然呼び止めてしまって」
 パーティーの時のような正装ではないが、清潔感のあるスーツを着こなしていた。寂れた田舎の街でこのような格好の若い男は何人も歩いているものではない。加えてニホン人離れした容姿もあって、ケイリーは道行く人々にちらちら視線を送られていた。テクタイトが初めてここにやってきたときもそうだった。今は人々も慣れてきたようで、無遠慮な視線を向けられることはなくなったが、それでもこの街に肌の黄色くない人間が歩くというのは、目立ってしまうものらしい。
 だがケイリーはそんなことに気付いていないのか、気にしていないのか、平然としていた。
「今日はお一人ですか」
「ええ、買出しに――ミスター・ウィルソンは、どうしてこちらに?」
 ケイリーは頷いた。
「ドクター・ミヤシタにお話があって参ったのです。本日はご在宅でしょうか」
 亜梨紗は三日前から、隣県の博物館に行っていた。宇宙展示の企画を、監修者として手伝いに行っているのだ。時折、亜梨紗はそのような外部からアルバイト程度の仕事を引き受けている。今回のような長期出張は初めてだが。
 一週間ほどは帰ってこない事を伝え謝罪すると、ケイリーは首を振った。
「いえ、私がアポもなしに突然訪れたのがいけないのです。ご自宅まで伺う前に判ってよかった。来週の火曜日にご帰宅されるということは、その翌日に伺ってもよろしいでしょうか?」
 予定は無いはずである。だがケイリーが会いに来たことを、亜梨紗はどう思うのかと、テクタイトは心配になった。一度本人に聞いてみないといけないだろう。帰宅して確認を取ってからまた連絡すると言うと、ケイリーはほんの少し恐縮して、会釈した。
「ところで、ミスター・スミス。今少しお時間を頂いても?」
「私、ですか?」
 予想外の申し出に、困惑して聞き返すと、ケイリーは笑みを浮かべて頷いた。爽やかで感じの良い笑みだ。この人当たりだけを見て悪い印象を持つ人はそんなにいないのではないのかと思う。あの亜梨紗の感情を思い出して、パーティーで出会ったときから感じていた不可解さが再び浮上してきた。
 いずれにせよ、亜梨紗に縁のある研究所のスポンサーだ。失礼が無いようにするべきだと判断し、テクタイトはそれを承諾した。

「ミスター・スミスは公私共にドクターのパートナーだと聞いていますが、どれくらいになるのですか?」
「はあ」
 街角の小さな喫茶店。テクタイトが案内した店は、何度か亜梨紗とも買い物の帰りにお茶を飲んだことがある。小さく若干寂れてはいるが、気の置けない初老の店主の人柄と、静かな店内の雰囲気が亜梨紗のお気に入りなのだ。今日はたまたま他に客がいなかった。
 テクタイトの真向かいに座ったケイリーは穏やかな口調でそう聞いてきた。
 個人的な研究を手伝っているという設定にはしてあったはずだが、私生活のパートナーだとはテクタイトも亜梨紗も口にはしていないはず。ケイリー本人か、他の人間による邪推だろう。いずれにせよ、その設定そのものが大嘘だった。テクタイトは亜梨紗の天体観測の研究の詳しい内容は知らないし、手伝った事は一度も無い。
 テクタイトは黙ってケイリーを見つめた。人好きのする笑みに、亜梨紗が隣にいなければ、テクタイトはこの人物に間違いなくいい印象を持ったに違いないと思った。笑顔は優しそうに見えた。
 人間に対して、嘘をついたり不誠実な態度をとるのは、気が進まない。亜梨紗がそういったことを好まない質だからだ。人間の形を与えられて以来、ずっと感情を共有し、寄り添って生きてきたために、テクタイトは亜梨紗から性根も若干引き継いでいた。
「どなたからお聞きしたのか存じませんが――あの方と私は、そういった関係ではありません」
「そういった――ああ」
 聞き返そうとして、ケイリーは申し訳なさそうに笑った。
「これは失礼しました。お二人はビジネスのみの関係、ということですね」
「はあ」
 戸惑いから、返事が気の抜けたものになってしまった。隠し事をしながら他人と会話するというのは、初めての経験だった。このまま、アーシャの作った設定を前提に二人きりでケイリーと会話を続けるのは、難しい。
「ビジネスの関係、というのも違うのです」
 意を決し、テクタイトは口を開いた。ケイリーがきょとんとした顔になる。そのまま、淡々とした口調で続けた。
「研究のお手伝いなどはしたことがありません。少し生活のお世話をしているだけです。私は、人間ではないのです。ジョン・スミスというのも、私の名前ではありません」
「――は?」
 一気に告白した内容の突飛さに面食らったのか、ケイリーは間の抜けた声で短く聞き返した後、目をぱちくりさせて固まった。無理もない。長年の付き合いであるアーシャですら、初めてそれを打ち明けたときはしばらくの間理解に苦しんだらしい。
「私は三年前まで、チャイナにあったクレーターの付近にあったテクタイトという石でした。それをマスター……宮下亜梨紗氏は、魔法で人間の姿にしたのです。それが、私という存在です」
 テクタイトは出来るだけ丁寧に、自分の素性と亜梨紗との関係について説明した。
 パーティーから帰った後、亜梨紗はテクタイトに、もうこれ以降テクタイトの正体を他人に嘘をついて誤魔化さなくても良い、と言った。テクタイトの存在は亜梨紗が自分の意思で作り出したものであり、それを後悔したこともないし、恥ずべきことでもないと思っているからだ、と言った。だがアーシャが心配していたように、これから研究所やそのほかの社会活動に戻ろうとしたときに、この事実は障害になるのではないか。その心配を口にすると、亜梨紗は大丈夫よ、と言って笑った。その時の亜梨紗の心には、曇りのようなものは感じられなかった。テクタイトの正体を隠してこそこそしたくはないというのは、心から思っていることであるようだった。
 テクタイトには人間の社会の事はわからない。三年間、ずっと亜梨紗とほぼ二人きりも同然の生活で、集団で織り成す複雑な人間関係というものは目にしたことすらなかった。アーシャは亜梨紗が信頼する無二の友であるようだし、彼女の心配が筋違いなものとも思えない。それを考えて暫くは迷っていたが、テクタイトは最終的に亜梨紗の考えを一番に尊重するのだと決めた。
 話の間に出されたコーヒーに、ケイリーもテクタイトも殆ど口をつけなかった。ケイリーは熱心にテクタイトの話に聞き入り、それが終わると、ほう、と息を吐き出した。
「鉱物から思念体を人間の形にする……そんなことができるとは。魔法というのは、やはり、本当に、神秘ですね。それは魔法の中でも特別高度なものなのでしょうか」
 言いながら、ケイリーの語調はわずかに熱くなっていく。亜梨紗が魔法の力を使って、無機物から人間の形を造りだしたという事実を、彼は否定的には受け止めなかったようだ。むしろその力に興味が湧いたようである。声音は明るかった。
「私は魔法についてはよく知らないのです。マスターは、私を造りだした以外は私の前で魔法を使うことはあまりありませんし」
「そうですか。では、あなたを作ったのは特別な理由があったのでしょうか」
「それは――わかりませんが……」
 パーティーの会場では、テクタイトの石を見たときにそのまま立ち去れなかった、と門川に話していたが、それがどう特別だったのか、テクタイトにはさっぱりわからない。何故自分を作り出したのか、どういうつもりでいるのか、テクタイトは亜梨紗に聞いた事が無かった。気付いたら人間の形をしていた、そして主である亜梨紗に寄り添って暮らしていく。それはその瞬間からテクタイトにとって、理由も無く始まっていたことなのだった。
「それにしても、ミスター・スミス……いや、ええと、なんとお呼びすれば?」
「テクタイト、とマスターやミス・ベイカーには呼ばれています」
「では、テクタイト、私の事はケイリーと」
 そう言ってケイリーはにこりと微笑んだ。
 テクタイトはなんだかむずがゆい気持ちになった。ファーストネームで人間を呼んだ事は今まで一度も無かった。それはその対象と親しい関係を築いた証なのだと亜梨紗に教わっていた。そうでない相手には敬意を込めてファミリーネームに敬称をつける。それが礼儀なのだと。そして、マスターと呼んでいる亜梨紗以外の全ての人間を、ずっとそのようにして呼んできた。
 そもそも、亜梨紗のいない場所で他の人間と腰を落ち着けてじっくり話し込むという経験自体がほとんどなかった。だからテクタイトは亜梨紗以外の人間と深い関係を築く機会など、ファーストネームで呼び合う相手と出会う機会など、なかったのだ。
「よろしいのですか?」
 思わずそう聞き返してしまい、それを聞いたケイリーが目を丸くした。それから、直ぐにまた屈託の無い笑顔になる。
「もちろんですよ」
 亜梨紗が隣にいたら、違う気持ちになったかもしれない。あの不穏な何かが複雑に絡み合った感情が、テクタイトの中に流れ込んで来るだろうから。だが一人でいる今、この新しい『出会い』に、歓びが、微かに、しかし確かに、湧いてきたのだった。テクタイトの表情は自然と緩んだ。
 ケイリーの興味はテクタイト自体にも向いているようで、日常生活やこれまでのことについて興味の赴くままに聞いてくる。
「テクタイトは自分を人間ではないと言うが、ほとんど人間そのもののように思えますね」
 一通りの話を聞いたケイリーは、そう言った。
「そうでしょうか」
「ではテクタイト、あなたは何故、自分が人間ではないと思うんです」
 不思議に思って呟いたテクタイトに、畳み掛けるようにケイリーが言う。そう言われて、テクタイトは少し考え込んだ。
 テクタイトは、テクタイトという鉱物から精製された思念体だ。亜梨紗からそう言われている。それを疑問に思ったことなどなかった。テクタイトにとって、意識を得たその時から、亜梨紗は絶対の存在だった。改めて自分の存在について疑問を持ち、考えたことなどなかった。
「私は、マスターなしでは存在していられないので」
 暫く考えてみて出た結論はそれだった。テクタイトは亜梨紗の魔力に依存して生きていなければいけないし、それ故に感情を共有している。それは、普通の人間にはありえないことであるはずだった。魔法を使う亜梨紗のような種族の人間でも、そういう生き方はしないはずだ。
 それを聞いたケイリーが急に真面目な顔になった。
「僕には魔法の事はわからないが――それは、本当に、そうなのだろうか」
「と、言うと?」
「あなたが決め付けているだけではないのですか。自分がドクターなしでは生きられないと。自分は人間ではないのだと」
 その問いかけはまたも、テクタイトが今まで考えもしてこなかったもので、テクタイトを悩ませたが、今度は直ぐに自分の中で答えが出た。
「いえ、私とマスターは離れられないのだと思います。私はマスターの魔力を貰って存在しているのだし、感情を共有しているのです」
「それですよ」
 ケイリーの声のトーンが少しだけ上がる。テーブルに両腕を置いて身を乗り出した。ほんの少し、二人の距離が縮まる。
「それでも、あなた自身の感情と言うものがあるのでしょう」
 テクタイトは頷いた。
「それは、確かに、ありますが」
「例えばですね、テクタイト。あなたは、ドクターのことをどう思っているのです」
 突然の質問に面食らって、テクタイトは押し黙った。亜梨紗のことをどう思っているか、とは、あまりにもナンセンスな問いかけに思えた。亜梨紗はテクタイトのマスターなのだ。テクタイトを作り出し、維持するために魔力を与えている。そう言うと、ケイリーは首を振る。
「それでもね、あなたに感情がある以上、彼女に対して何らかの思いがあるはずだ。例えば、あなたがこうやって私に話をしてくれているのは、私の心を許してくれているからだ。そこには、多少なりとも好意のようなものが、あるのでしょう」
 言われて、テクタイトは素直に頷く。ケイリーを信用してもいいかもしれない、と心を許したのは、間違いなくテクタイト自身の感情に沿って決めたことだった。亜梨紗と感情を共有している間は、絶対にこうはならなかった。テクタイトには、テクタイトの感情がある。それは亜梨紗との感情の共有で徐々に得たものなのか、それとも最初からあったものがはっきりとしてきたのかは、どうにもわからないのだが。
 そしてそれを手がかりに、テクタイトは亜梨紗に対して抱いている感情について考えてみた。亜梨紗と共にいるときは、亜梨紗から流れる感情に支配されてしまうことが多い。――だが。
 そうではない事が、時折あることを、テクタイトはそこで思い出した。
「マスターに対する私の、私自身の感情――」
 それは、亜梨紗とのふとした触れ合いの中で突然生じてしまう、理由のわからない不可思議な感情の波。ずっと解消したかった疑問でもあった。亜梨紗には二度と聞けもしないと思っていたが、ケイリーなら、話せばその謎を解消してくれるのではないのか。僅かな期待も込めて、テクタイトはあの夜の出来事を語った。
 ブランケットの上で手が重なったとき、こみ上げてきた、切なさや、僅かな羞恥や、緊張に似ているけれど、でも違う、不思議な気持ち。
 ケイリーは最初、興味津々、と言った表情で黙って話を聞いていたが、突然、あの夜の亜梨紗と同様に、ぷっと吹き出して、笑い出した。声をあげて笑うので、離れたカウンターの中にいた店主が驚いて一瞬こちらに視線を向けてきた。テクタイトが軽く会釈をすると、彼は黙って仕事に戻る。ケイリーは笑いながら、聞いてきた。
「それで、その質問にドクターはなんと答えたんです?」
「今のあなたのように笑って、答えては下さいませんでした」
 それを聞いてまたケイリーは笑う。亜梨紗と同じだった。どうしてこうなってしまったのか、テクタイトには相変わらず理解できない。
「いや、いや、申し訳ない。しかし、参ったなあ。相手が相手でなければ、心底応援したくなるシチュエーションなんだがなあ」
 ひとしきり笑った後、ケイリーはそう言いながらコーヒーカップを手に取った。最後のほうの言葉は独り言のようにも思えた。しかし、聞き過ごせなかったテクタイトは問いかける。
「応援とはどういう意味でしょうか? 相手というのはマスターのことですか」
「うーん」
 ケイリーは腕を組んで背もたれに寄りかかった。思案しているようでありながら、口の端に笑いが浮かんでいるようにも見えた。
「あなたのマスターは、あなた以外の人間にとっても魅力的な女性だということですよ」
 魅力的、という言葉にテクタイトは首を傾げながら、パーティーでの亜梨紗の様子を思い出していた。
「マスターは研究所の方々にも復帰を望まれているようですし、ケイリー、あなたにも研究者として期待をされています」
「まあ、それは、そうだけど、そうではなく……」
 言いかけてから、ケイリーはふっと息を吐き出すように軽く笑った。
「とりあえず、今の問題はそれですね。パーティーの時には一度断られてしまいましたが、もう一度その件についてお願いに上がったのです。ドクターは優秀な研究者です。こんな田舎にこもっているのはもったいない」
 急に真剣な口調になってケイリーは語った。テクタイトが黙ってそれを見つめていると、覗き込むように目を見つめられた。
「ここだけの話、ドクターはやはり私の父のことで不信感を抱いているのでしょうか。それともなにか別の理由が?」
 問われて、テクタイトはパーティーの翌朝のことを思い出した。理由を尋ねても、研究所に戻りたくないのかと尋ねても、困ったようにはぐらかされた。その時に亜梨紗から流れてきた負の感情は、色々なものが複雑に絡み合っていてテクタイトには判断が難しかった。嫌悪、不信感、恐怖、そういったものも混じっていないわけではないと思ったが、それだけではない。この三年間で感じたことのないものだった。
「私も理由を伺ったのですが答えて下さらないのです。ただ、マスターは研究や研究所の方々がお好きなのは間違いないと思います」
 迷った末にそう答えると、ケイリーは自分の顎を指で軽くなでながら少し考えた後、頷いた。
「それなら……もう一度だけ、説得してみる価値はありそうですね。来週の水曜、伺いますと、伝えてください」

 ☆

「珍しいじゃない、あなたから会いたいと言ってくるなんて」
 ティーカップのカフェオレを一口飲むと、アーシャはそう言った。そっとソーサーにカップが下ろされる。耳をすまさなければ聞こえないほどの音がした。
 面白がるような、からかうような、いつも亜梨紗と談笑しているときのような笑みだ。テクタイトは一瞬、いつも亜梨紗といる時そうしているように、心を落ち着けて何かが流れ込んでくるのを待ってみた。当然だがアーシャの胸の内をそうして感じることなどできなかった。
「珍しいというか、初めてよね。一体どうしたの?」
「マスターが留守の間に、ご相談したいことがあります」
「相談?」
 怪訝な顔をしてアーシャが聞き返す。テクタイトは頷いた。続けようとする前に、アーシャが頬をゆるめた。
「秘密の相談? 亜梨紗がいない間に? あなたもいよいよ反抗期になった?」
「ミス・ベイカー、冗談ではなく、真剣にご相談したいことがあったから、ここまで来ました」
 テクタイトは先週のやってきたパーティー会場の近くまで一人でやってきて、亜梨紗には内緒でアーシャを呼び出した。いつもの生活範囲を出れば、テクタイトには何もわからなくなる。アーシャに指定された喫茶店は、先日ケイリーと話をした店よりも広々として明るい店だった。
 アーシャが多少気圧されたかのように眉を潜める。
「……あなたがここまで来る時点で、確かに普通じゃないってことはわかるわよ。それで、一体、どうしたの」
「一昨日、ミスター・ケイリー・ウィルソンが、マスターを訪ねてきたのです」
 その言葉に、アーシャが目を丸くした。驚いているのだ。こういった表情は、テクタイトにもわかりやすいので安心する。この時点では、嫌悪や憎悪は感じられない、純粋な驚きの表情に見えた。
「マスターは長期出張で不在だと申し上げてお帰り願いました。ミスター・ウィルソンは、マスターに研究所へ戻って来ほしいと。説得したいので再来週にまた来ると言伝を頼まれました」
「なるほどね」
 小さく呟くと、アーシャはテクタイトから視線を外してしばらく沈黙した。何かを思案している様子だった。アーシャはケイリーのことが好きではないようだが、それが亜梨紗と同じ感情で、同じ理由なのかはテクタイトには推し量ることができない。わかっているのは、アーシャはそれを本人にも、亜梨紗にもテクタイトにも隠すつもりがないようだということだ。
「それで」
 ゆっくりと、アーシャが沈黙を破る。
「あなたは、私に何を相談しにきたの」
 真剣な顔でテクタイトをまっすぐ見つめてくる。
「ミス・ベイカーは、マスターが研究に戻るべきとお考えでしょう。それに、ドクター・カドカワや、研究所の同僚の方々も。私は、どうすればいいでしょうか」
 この言葉に、真顔のままアーシャはテクタイトの顔をじっと見つめて数瞬沈黙した。やがて、静かに、しかしはっきりと、それを告げる。
「テクタイト……それは、あなたが口を出すべきことじゃないわ」
「それは、私が人間ではないからでしょうか」
 テクタイトがそう聞くと、アーシャは苦しそうに眉を潜める。
「気分を害したの? いいえ、差別的な意味で言ったんじゃないのよ。ただ、あなたや亜梨紗が悪いわけじゃないけど、それが足かせになってしまうことはあるのよ」
「マスターが、魔法を使うこと……」
 アーシャが小さく頷く。
「若い頃のあの子って、今とは違って、すごくハングリー精神に溢れてたわ。学生の頃は男と張り合って、寝食も惜しんで実験に打ち込んでた。あの子、両親がいないでしょ? だから学費も自分で稼いでた。奨学金の他に、マイノリティの種族の学生にあたる助成金ももらってたし……。あの研究所にウィルソン・コーポレーションが出資するって決まったとき、それを責められたのよ」
「当然の権利なのでは?」
「マイノリティ助成枠で進学したことについてよ。あの子はただお金がなかったからその枠を使っただけなんだけど、あの制度は当時、ちょっと批判的に見られていてね。実力のない子がそういう枠で進学するのは不平等じゃなかって言われたりとか。でも、本当にただのいちゃもんなのよ。あの子、学部だって主席で卒業してるし、修士時代に書いた論文が国際的な学会で賞を取ってる。それに、分析技術に関する特許もいくつか取ってて――今はそのお金で生活してるってのは、あなたも知ってるでしょ」
「なんとなくは。でも私は今まで、マスターの過去や、研究についてはほとんど聞いたことがなかったのです」
「それは、興味がないからなの?」
 そう問われて、テクタイトはしばらく考え込んだ。今まで、亜梨紗が語らない亜梨紗のことについて、興味を持って詳しく問うたことなどなかった。知りたいと思ったことがなかったからだ。
「私は今まで、私がいて、マスターがそこにいるのを当たり前だと思っていたのです。それ以外の何かに意味はなかったのです」
「今までは――……これからは、そうではなくなる、ということ?」
 慎重に考えた後、テクタイトは頷いた。
「マスターは、研究所の方々がお好きです。特にドクター・カドカワには深い親愛の情を抱いている。それに、同僚の方々と宇宙工学の話をしている時の気分の弾みようは、私が今までに感じたことのないほどでした。なのに、何故ミスター・ウィルソンの話を断るのか、わからないのです。彼がもう一度説得にくる前に、何かできれば――」
「テクタイト」
 少しきつい口調で、アーシャはそう呼んだ。夢中になってしゃべりすぎていた自分に自分で気付き、テクタイトは妙に動揺してしまった。
「あなたの気持ちはわかったわ。あなたが亜梨紗を大切に思ってることも、わかってる。私も同じ気持ちよ。でもね、テクタイト、どんな理由があろうと、最終的に決めるのは亜梨紗だし、それにね」
 諭すような口調で一度その言葉を切り、一歩体を前に乗り出してアーシャは続けた。
「あなたが亜梨紗から感じ取った感情は、人前でぺらぺらと話すべきじゃないわ。それは、普通の人間にはあり得ないことなのよ」

 ☆

 アーシャとの会話の三日後、亜梨紗は帰ってきた。散々に考えた末、テクタイトはただ、ケイリーが亜梨紗と面会したがっていることだけを告げた。
 予測していた通り、ケイリーの名を出した瞬間、あの、テクタイトには理解できない正体不明の感情が襲ってきた。予測はしていた通りだったのに、この一週間、亜梨紗とすっかり離れて暮らしていたことをテクタイトは実感した。ケイリーと二人で話をした。それによって、テクタイトは紛れもなく、彼に好感を抱いていた。亜梨紗が持つこの謎の感情は、亜梨紗がいない間はほんの少しも感じてはいなかった。テクタイトがケイリーに対して感じた好意や、アーシャとの多少の摩擦は、テクタイト一人のものだった。その事実を自覚して、テクタイトは激しく動揺した。
「そう。明日、ここに来ると言ったのね」
 夕食を食べ終えたテーブルでそう確認している亜梨紗の口調は、至って静かだった。ただテクタイトから聞いた事実を反芻しているだけの。だがその間にもテクタイトの中に亜梨紗から濁った感情が止め処なく流れてくる。今日はパーティー会場とは違って自宅でテクタイトと二人きりだから抑えるつもりがないのか、それが静まることがない。
「マスターは……」
 戸惑いながらも、テクタイトはどうしても、パーティーの時からずっと疑問に思っていたそれを、聞かずにはいられなかった。
「マスターはケイリーがお嫌いなのですか」
 その問いに、亜梨紗が微かに目を見開く。感情の流れが僅かに乱れた。それまでの淀みに、新たに驚きのようなものが加わった。それから亜梨紗は困ったように微笑んで、しばらく沈黙する。
「私の心からそういう感情が出ている?」
 テーブルの上で組まれていた亜梨紗の手に力が入ったように見えた。
「わかりません。ただ、パーティーの時からケイリーに対して何か……辛いような、哀しいような。何か重苦しい感情が、私の方にまで流れてきます」
 それを聞いて亜梨紗は少しだけテクタイトから目を逸らした。テーブルに両肘をついて絡めた指で口元が隠れている。しばらくの沈黙の後、ふうっと亜梨紗はため息のように笑った。
「ケイリーなんて呼ぶってことはあなた、彼と相当話しこんだのね。仲良くなったの?」
 にやりと笑うと、亜梨紗は下からテクタイトの表情を覗き込むように見てくる。思わぬ指摘にテクタイトは動揺した。秘密にしていようと思っていたのに、話しているうちにいつのまにかケイリー、と呼んでいたらしい。油断していた。亜梨紗は考えていたことから少しだけ気がそれたからか、徐々に気分が落ち着いてきたようだ。
「……すみません」
「どうして謝るの」
 聞き返され、自分でもその言葉が無意識のうちに出てきた事に驚いていた。
「マスターのいない間にマスター以外の人間と二人で話して親睦を深めたというのは、とても不思議な感じがします。そしてマスターのあの方に対する気持ちと私の気持ちに、ずれが生じているのが――」
「テクタイト」
 静かに、亜梨紗が言葉を遮った。
「彼の――ウィルソンさんのこと、好き?」
 真っ直ぐに見つめてくる真剣な表情に、テクタイトは躊躇いながらも頷いた。
「はい。とても――親切で知的な方だと思いました」
「私もよ」
 間髪いれず、亜梨紗ははっきりとした口調でそう言った。意外な言葉に、テクタイトは目を丸くする。流れ込んでくる亜梨紗の心は、相変わらず正体不明の重苦しい負の感情を纏っている。
「ウィルソンさんはいい人だと思うわ。あなたと一緒よ」
 そう言い切った亜梨紗に、テクタイトは本当か、と聞きたくて、聞けなかった。怒りや、悲しみや、切なさや、そういった感情の中に、テクタイトの知らない感情が混じっているような気がした。テクタイトは何も言わずにそれの正体を探ろうとした。何か、胸が、締め付けられるような、未知の感情――
「とにかく明日に来るのね。わかったわ。伝言ありがとう」
 そういって、亜梨紗は立ち上がった。亜梨紗はこのまま部屋を立ち去る。それがなんだか無性に、不安になった。初めて生じた、気持ちの大きなずれだと思っていた。それを亜梨紗は違わない、同じだ、と言う。同じだと言うが、あんな感情はテクタイトの中にはない。ケイリーをただ感じのいい人だ、と思っている。あんな複雑な感情と共に、いい人だ、などとは言わない。同じだと言う、亜梨紗が理解できない。
 呼び止めたくなって、思いとどまった。亜梨紗の背中が離れて行き、ドアの向こうに消える。木の扉が静かな音を立てた。
 自分は人間ではない。亜梨紗の気持ちを共有している、だから二人の間に決定的な感情の違いがあることを察知できる。そしてそれが不安である。人間同士の関係ではそうはならない。

 ケイリーが訪れたのは、約束の日の、正午より少し前だった。
 客間に案内したとき、ケイリーはテクタイトに笑って見せたが、どこか表情が硬い気がした。亜梨紗を研究所に望んでいるのは、本気なのだろう、多少気分が高揚しているのかもしれない。
 亜梨紗は至って落ち着いた様子に見えた。ただ、少し緊張しているのが伝わってくる。だが、これまでとは少し違う感情の流れに思えた。
「テクタイトから聞いているとは思いますが」
 前置きをし、ケイリーは研究所の現状と、ケイリーの会社との業務提携の内容や今後の経営計画について一通り説明した後、パーティーの日と同じように、本題を切り出した。
「私は、優秀な研究者であったあなたに、また研究所に戻って、その力を貸していただきたいのです」
 柔らかな笑みと口調だが、ケイリーは真剣だった。テクタイトは部屋の隅でそれを黙って見つめていた。
 暫くの沈黙の後、亜梨紗は口を開いた。
「ウィルソンさん。私の研究員時代の功績を評価してくださっていること、私の身分を差別しないと言ってくださったこと、本当に嬉しく思っています。ですが、私の気持ちは変わりません。研究所に戻るつもりはありません。申し訳ないのですが、これきりにして頂けますか」
 きっぱりした口調でそういう亜梨紗に、ケイリーはほんの少しうなだれた。
「やはり、意思は固いのですね」
「ごめんなさい」
「いえ――」
 苦笑して、少し言葉を切ってから、ケイリーは意を決したように、続けた。
「理由を、聞いてもよろしいでしょうか。やはり、父のことですか。保守的思想の父があなたを嫌がって退職を迫っていたという話は、聞いています。それに関しては本当に申し訳なく恥じ入る思いで――」
「ウィルソンさん」
 遮る亜梨紗の口調は、少し震えていた。緊張と、深い哀しみが一気にテクタイトの中にまで流れてきた。これまでどんなに溢れんばかりの感情が動いても、顔や言動にそれを現さなかった亜梨紗の、声が、こんな風に震えているのを、テクタイトは驚きながら、黙って見守っていた。
「私の父は、私が十歳の時に亡くなりました」
「――はい」
 突然話が変わったように感じて戸惑ったのか、ケイリーは眉をひそめながら、相槌を打った。
「父は国立宇宙博物館で学芸員をする傍ら、この土地に自分の研究をするための天文台を作って、星の観察をしていました。たった二十年ほど前ですが、当時は今よりももっと、私たちの種族に対する風当たりがきつかった。魔法の使えない人間に混ざって生活するために出自を隠す人も多かったけれど、父は堂々としていました。だから、父が新しい天体を発見した時、大きな話題になりました。魔法を使って星を作ったのか、なんて言われもしました。父は魔法の腕も相当なものでしたが、さすがに宇宙をいじることはできません。父はただ、星が好きだっただけです」
 そこで一度、亜梨紗は言葉を切った。目を閉じて、小さく息をしている。澱みなく話していたが、亜梨紗の中にある不安と緊張がどんどんと膨れ上がっていた。
「フタゴ座流星群が観測される日でした。父が二人で見ようと、この天文台に連れてきてくれたのです。日が落ちる前に二人でこの辺りの山道を散歩していました。そこで、突然、猛スピードで車が――近づいてきて」
 声が震えていた。テクタイトもケイリーも黙って続きを待った。
「ぶつかりそうになった私を慌てて庇った父が、轢かれたのです。車はそのまま逃走しました。私は、父の鞄から業務用のコードレス電話を引っ張り出して、救急車を呼ぼうと。今は救急のシステムが整っていますが、当時は一番近くの総合病院に搬送されるだけの手はずになっていました。この近くには救急外来のある病院がひとつしかなかったのです」
 その言葉に、ケイリーの顔色が変わった。テクタイトにもおおよその見当がついた。この近くには未だに大きな病院はひとつしかない。近くといっても、車で一時間はかかる距離だが。そこだけなのだ。
 その病院は、元は公立の病院だったが、経営難になった際に海外の企業に売却された。二十年と少し前の頃のことだ。そしてその企業こそが、ウィルソン・コーポレーションだった。
「初め、救急のオペレータは直ぐに救急車が向かうからそれまで父を励まし続けろ、と言いました。私は必死に手を握って父の名を呼び続けました。しばらくしてオペレータが父の名を確認しました。私がそれに答えてから、いつのまにか繋がっていた救急との電話が切れていました。私は救急が到着するのを待っていました。待てども待てども何故か救急は来ませんでした。丁度いまぐらいの時期ですから、夜はとても寒かった。とても、寒かった……」
 ケイリーは言葉を失っていた。かすかに震えているようにも見えた。部屋に沈黙が落ちた。
「ドクター、私は、私は……」
「ウィルソンさん」
 何か言おうとしたケイリーを、亜梨紗が遮った。笑っているようにも見えた。心の中に悲しみや苦しみが溢れているのに、何故笑うのだろう、とテクタイトは思う。それは、見ていて切ないものだった。
「真相はわかりません。それに、たとえあの日何かがあったのだとしても、あなたには関係のないこと。判っているけれど、どうしても、私には、どうしても――……」
 ケイリーは何か言おうと口を開き、しかし閉ざして、険しい表情で首を振った。
「ごめんなさい。帰って頂けますか」
 亜梨紗の言葉に、少しだけ躊躇った後、ケイリーはゆっくりと立ち上がった。少しの沈黙の後、ぽつりと呟く。
「小惑星アリサ……あれはドクターのお父上が見つけられたのですね」
 亜梨紗が寂しげに笑って頷いた。
「ウィルソンさん、あなたが……もっと、嫌な人だったらよかったのに。もっと思い切り、嫌って、憎めたら……」
 ケイリーは軽く首を振り、黙って立ち去った。
 ケイリーを送り出した後、部屋に戻ると亜梨紗が窓際に立って真昼の青い空を眺めていた。悲しみが、悲しみだけが広がっているのを感じた。
「マスター」
 声をかけて側に寄ると、亜梨紗はテクタイトの手を取った。冷えていた。
「ねえ、今でも宇宙の夢を見るの?」
 掠れた声で聞いてくる。何故いまそんなことを聞くのかがわからず、ほんの少しだけ戸惑いながら、テクタイトは黙って頷いた。
「前に一度、それを否定してしまいそうになったわね。あなたは宇宙の記憶を持っているはずがないって」
「気にしていません」
「嘘よ」
 亜梨紗が笑った。テクタイトの手を、握る。
「私にもね、宙の記憶が、あるの」
 意味が理解できず、テクタイトは黙ってその続きを待った。亜梨紗が静かに続けた。
「あの日、父が死んだ日、陽が落ちて、雨が降ってきたの。なんとか木陰まで父を連れてきて雨宿りしてた。あの夜はこの地方一体が急に土砂降りになって空は雲で覆われていたから、流星群なんて見えるはずがなかった。後から大人たちにそう否定されるばかりだったわ。でもね、私、あの日、父と、息絶える直前の父と、確かに見たの。沢山の流れ星が空を駆け抜けるのを」
 テクタイトの手を握る亜梨紗の指に、力が入った。震えていた。
「綺麗だった。沢山の星が、夜空を駆けては、消えていったの。父は、綺麗だねって言ってたわ、でもその声もどんどん力がなくなっていって……。流れ星に何度もお願いした。お父さんを助けてって。そしたらしばらくしてやっと救急車が到着したけど、その時は何もかもが手遅れだった……」
 悲しみ、苦しみ、悔しさ、憤りが、亜梨紗から溢れてきた。こういう時、テクタイトは、理由を知らなくてもただ側にいて、それを共有してきた。黙って側に寄り添うことで亜梨紗の負の感情が和らぐのを待つのが、亜梨紗を助けることなのだと思っていた。でもそれでは足りない、という衝動のような何かが、内からこみ上げてきた。
「マスター。私はもう、宙の夢は、いいのです」
「――え?」
 戸惑ったのが、わかった。表情も、明らかに狼狽している。珍しい表情だった。亜梨紗の、知らない表情を知れるのは、喜ばしいことだった。
「ずっとこだわってきました。あの夢は確かに私の記憶で、大事なものなのだと。どこか懐かしいような気がして、あそこに帰りたいという気持ちがありました。でも、もういいのです。私は宙には帰らない。ずっと、マスターの……あなたの側にいたいと、思う」
 亜梨紗が、驚いたように目を見開いた。その表情を、美しく、愛しいものだと、思った。これが亜梨紗に対する自分の感情なのだと、今はっきりわかった。
 動揺した亜梨紗が一瞬テクタイトの手を離そうとした。それを逃がすまいと、テクタイトの方から握り直す。長い間触れ合っていた二人の手は、同じ温度になっていた。
「名前を」
 テクタイトのものよりも少し色素の薄い茶の目を覗き込みながら、テクタイトは言った。亜梨紗が黙って見つめ返していた。こんなにじっと力強く目を合わせたのは、はじめてかもしれなかった。
「名前を付けてくださいますか。人間の名前です」
 そう言った瞬間、亜梨紗の胸が高鳴るような、気配を感じた。これからテクタイトが起こすであろう行動を、決して拒絶はしないだろうと、確信した。そしてそれが、テクタイトが亜梨紗から受け取った最後の感情になった。
「ずっと考えていた名前があるの。本当なら、あなたが最初から安定した具現体だったら、つけようと思っていた、名前」
 亜梨紗の形の良い唇が、ゆっくりと動き、声帯が震えて、声になった。空気が振動し、耳に伝わり、信号になったそれが全身のあらゆる神経を刺激し駆けめぐる。それは、宙の夢を含めたこれまでの全ての記憶の中で、一番の悦びだった。
 それを紡ぎ終わった唇に衝動的に吸い付いた。愛しい響きの余韻があるのではないかと、唇を、舌を、歯の裏を、隅々まで探り当て、味わう。感情の共有を断たれたと同時に生じた溝を埋めるべく、肌という肌を重ね合わせた。
 そして彼は人間になった。


初出:恋歌いの石企画さまにて。
宝石擬人化しったー」さまで出たキャラクター案を元に恋愛小説を書く企画でした。サイト掲載にあたって加筆改稿しております。


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