第6回 夏祭り企画 参加作品

金魚の夢

 気付けばあさがおの夢を見ている。夏になるといつもこうだ。
 水と、僅かな泡と、薄いビニールで歪んだ景色。その向こうから目に飛び込んできた、白い布地に咲いている青と紫。夜なのに、あさがお。あれは朝だけの花なのだと知ってもなお、夢の中であさがおは夜に咲いていた。狭い水の世界でくぐもって聞こえる喧騒。かすかな振動。差し込んでくる強い光は太陽ではない。少女の声。
「はやく帰らないと。金魚さん、広いところに移さないと」
 泳ぎながらあたりを見回す。狭い水の中には、自分以外に2匹、赤い金魚がいた。それよりも声の主が気になって仕方がない。揺れる。驚いて身を硬くすると、ビニール越しに自分たちを覗き込む黒い目が現れる。
「はいはい、おうちに帰りましょうね」
 遠いところから、大人の女性の声が、した。光が遠ざかり、喧騒も聞こえなくなり、ゆらりゆられて、先のわからない長旅に疲れ始めた頃、再び、先ほどまでとは違う、しかし明るい光に照らされ、そして、袋から解放される。
 カルキヌキヲシナイト。
 呪文のような大人の女性の声が、遠くから降ってくる。だがその忠告はきっと遅かったのだ。ひりひりと、胸が、体が、かすかに蝕まれる気配を感じた。苦しい、かもしれない。悶えていると、心配そうに金魚鉢を覗き込む少女の顔が迫っていた。
「もう水道水に入れちゃったのね。金魚さんを入れる水はね、カルキヌキヲシナイトだめなのよ」
 もう一度、遠くから大人の女性の声がした。あれは、オカアサンの声だ。
 つんとする何かが体に入り込んで、脳天まで締め付けるように支配してくる。塩素だ。プールの水が鼻に入り込んだ。
 手足をばたつかせる。
「ケンちゃん!」
 水面に浮かび上がると同時、女の声が自分の名を呼んだ。ゴーグルを外す。学校のプールは落ち着いていれば簡単に足がつく。夜の、誰も居ないプール。薄暗い。25mプールのちょうど真ん中に、自分は立っていた。中学校は住宅街の真ん中にあって、プール側は狭い道に隣接していて、フェンスの向こうの街灯や民家の光が辛うじてプールも照らしている。プールサイドに人影があった。
「また、勝手にプールに入ってたの」
 猛暑の続く今夏、蝉は夜になっても泣き止まない。その声に混ざってサキが小さく叫ぶのが聞こえる。
 俺はゆっくりとサキの方へ泳いでいった。気温は確かに高いが日が落ちれば屋外のプールも随分と冷たくなる。波紋が静かに広がっていく。かすかに街灯の光を受けて波が光る。腕が水をかき回すかすかな音が生まれる度、夜鳴きする蝉の声にかき消される。
 サキはまたショートカットにしていた。18まではずっと長い髪をおさげにした、野暮ったい女子高生だったのに。毛先が顔周りで僅かに動きをもって跳ねている。大学進学と同時に東京に行ってしまったサキは、ゴールデンウィークや盆や正月の帰省の度に少しずつ垢抜けどこか印象を違えてやってくる。どういったところがどのように変化してそんな変化を感じさせるのか、男の俺には上手く言い表せない。多分、化粧を始めたり、東京の服を着たり、東京風のアクセントで喋るようになったせいだと思う。その証拠に、プールサイドにしゃがみこんで近寄ってきた俺の顔を覗き込んでくるすっぴんのサキは、そばかすの浮いた頬にむくんだ瞼、丸い鼻、ゆるい輪郭、高校時代のジャージの上にくたびれたTシャツを着ているのも相まって、俺のよく知るかつての野暮ったいサキでしかなかった。
「帰ってたの」
 問いかけると、サキは黙って頷いた。東京に行ってから明るい茶になった毛先が軽く揺れた。笑っている。サキはいつも笑っている。今も微笑んでいる。いつも笑顔でいるから、物静かで穏やかな女だと思われている。
 俺は黙ってプールの中からサキを見つめた。童顔だから、素顔でいれば高校生と間違えられることもあるだろう。だがそれでも、俺にとっては大人になってしまったようにしか見えず、妙な焦燥感に襲われる。あの、水を覗き込んで屈託無く笑っていた少女の面影を探すのに、俺はサキの顔を凝視しなければならない。
「土曜日に東京に戻るよ」
 サキがそういうのを聞きながら、俺は透明のゴーグルを再び目にはめた。プラスティックを一枚隔てた向こうにいる女はやはり20歳の女だった。どこかほんの少し、陰のあるような気もする、笑顔。夢の中で、サキはこんな風に笑わない。オカアサンにも似ていない。サキは多分、オカアサン似だ。でもオカアサンも、あの日まではこんな風に笑ってはいなかった。
「まだ泳ぐの?」
 ゴーグルをした俺にサキは聞いた。俺は答えず、一度全身を沈ませた。皮膚が全て水に触れる。夜のプールの中は闇でしかない。それでも水に触れるといつも、どこか安心するような、懐かしいような気持ちになる。そして同時に、悲しい気持ちになる。幼稚園の夏休み、母に連れられて初めて行った近所のスイミングスクールで、ほのかに塩素の臭いのする、冷たすぎない水に触れた日からだ。その夜、俺はあさがおの夢を見た。年齢を経るにつれてその夢の意味するところを、自分がいつも水を求める理由を、理解するようになった。それは馬鹿げているとわかっているがそれでも、事実なのだと心の奥底で確信している。
 ゆっくりと浮上した。
「いくら夏でも、夜だから体、冷えちゃうよ。いい加減に上がりなよ」
 心配そうにサキがそう言うのを聞きながら、スタートの構えをとった。
「俺、前世では金魚だったんだ」
「――え?」
 不思議そうに聞き返すサキを無視して、壁を蹴る。水しぶきがあがる。背を伸ばし、水を手で掻き分け足で蹴り、ひたすら進む。最初に覚えたフォーム。クロール。あの頃、ビート板にしがみつきながら息継ぎの仕方を覚えるのが一番大変だった。水に触れるのが楽しくて、なんでもできる気がして、水の中で定期的に息継ぎをしなければいけないという概念が理解できず、溺れた。鼻に水が入って、つんとして、大泣きした。それでも水は嫌いになれなかった。人間にエラはないから、呼吸のために水面に鼻を出さなければならない。それを理解し、息継ぎを習得してから、俺はスクールの中でめきめき上達した。調子に乗っていつまでも水に入って体を冷やして震えたことがあった。それは魚でも人間でも同じだ。冷えは毒だ。夏なのに体の芯から凍りつきそうな感覚。サキが俺を水道水にそのまま放り込んだときもそうだったし、夏の日にサキに出会った日もそうだった。
 10階建てのマンションの一室に引っ越した。3歳のときだ。母に手を引かれて買い物から帰って来た夕暮れ、オトウサンに連れられてどこからか帰宅したサキと、エレベータで一緒になった。エレベータが下りてくるのを待ちながら、母とサキのオトウサンが挨拶を交わしている間、俺はサキの顔を黙って見上げていた。視線に気付いたサキが微笑んで、言った。
「こんにちは」
 俺は母のジーンズの裾にしがみついて体を半分隠した。人見知りだった。母が困ったように、ほら、挨拶しなさい、と促したのを覚えている。それまでねっとりと体に纏わりついていた夏の熱気が、エレベータの扉が開いた瞬間に吹き飛ばされた。寒気がして少し震えた。もう一度サキの顔を見上げてじっと見つめた。それからオトウサンも。
 サキとは5歳も離れていたし、住んでいる階も棟も違ったから、そんなに頻繁に会うこともなかった。それでも時折集合玄関やエレベータで鉢合わせたとき、サキは大抵一人でいるか、そうじゃなければオトウサンと一緒にいた。そこに疑問を持つには、当時の俺は幼すぎた。幼すぎて、あの8月のあつい、あつい日、俺はオカアサンに出会うのが初めてなのだということにすら、気付かなかったのだ。
 体を丸め、水の中でくるりと回り、勢いよく壁を蹴る。水圧に息が詰まりそうになる。それでも、この心地が好きだった。
 あの日、俺は既にあさがおの夢を見始めていた。それが何を意味するかはまだはっきりと理解はできていなかったが、時折マンションで見かけるサキやオトウサンに、一方的な親近感を覚えていた。出会えば挨拶と一言二言親同士が会話するだけという関係なのに、だ。サキは出会うたびに微笑みかけてくれるから、それがお門違いな親近感なのだとは思ったことがなかった。来年になったら小学校に入学して、サキが集団登校のリーダーで、一緒に学校に行くのだと聞いて舞い上がっていた。
 暑い日だった。マンションの駐車場でその日、何故母と一緒ではなかったのかどうしても思い出せない。母の目を盗んで走り回っていたのだろうか。照りつける太陽に熱されたアスファルトの上で転んだとき、すりむいた膝の痛みより、ついた手のひらの熱さに仰天したのを覚えている。蝉が鳴いていた。汗でTシャツと背中の皮膚が隙間なくくっついていた。泣くのを堪えていると、その人は、俺に近づいてきて、聞いた。
「大丈夫?」
 どことなく覇気のない、か細く衰えた声で。自分の周りにそんな調子で声をかけてくる大人の女性などあまりいなかったから、戸惑った。ほんの少し戸惑ったがそれでも、俺は声のした方向を見上げた。額の汗がたらりと流れて左目に入った。塩水が目に入って、痛くて、思わず目を閉じようとした寸前、汗のせいで歪んだ視界に入った女性は、確かに、見覚えのある女性だと思った。再び目を開けるまでの数瞬の間に、俺の脳裏に何度も見たあさがおの夢がフラッシュバックする。思わず、口にしてしまった。
「オカアサン」
 それが、多分、引き金になってしまったのだろう。今思えばとんでもないことに巻き込まれたし、本来ならもっと恐怖すべき出来事だったのだろうが、なにしろ当時の俺は、夢で何度も見たサキのオカアサンが心配して声をかけてきてくれたのだから、警戒することも嫌がることもせず、自然に差し出された手を取り、歩き出してしまったのだった。同じマンションに住む初対面の中年女性に、俺は連れ出された。
 あまり細かい事は覚えていない。少し早足であちこちを歩くオカアサンに着いて行こうと必死になっているうち、暑くて暑くて仕方がなくて、汗がひたすら流れていて、商店街の一角でふらついて、転んだ。その瞬間、オカアサンが何事かを叫んだ。それまでの、どこか元気がないようで何かに急かされているような妙な態度から打って変わって、とてつもなく甲高い、大きな声で悲鳴をあげるから、俺は驚くより先に恐くて仕方がなくなり、動けなくなった。アーケードの下の商店街全てに響き渡りそうな大声で、オカアサンは、俺の名前ではない何か別の名前を何度も、何度も、何度も、叫んだ。カルキヌキヲシナイトと言ってサキをたしなめ、金魚をいたわった、優しくて賢いオカアサンはどこにもいなかった。周囲の人々が異変に気付き、そのうちに、救急車とか、警察とか、両親が駆けつけて、それ以来、オカアサンの顔は、二度と見たことがない。
 サキのオカアサンが滅多に外出せず、マンションの住人の殆どとその数年の間に顔を会わせていなかった理由を、俺の両親は、本当は知っていた。近所の人から聞き知っていた。両親は人の噂をむやみに口にするのを嫌う人だったので、俺はそれを知らなかったし、あの一件の後も詳しい事は聞いていない。はっきりしているのは、オカアサンはあれから隣県の実家に戻ってこの町には一度も来ていないということ、俺の両親はこの一件に関して裁判沙汰にしたり賠償請求をすることはないということで、サキとオトウサンはずっと同じマンションに住んでいる。俺の両親はサキやオトウサンを責めるつもりはなかったようだが、マンション住人との気まずさを覚えていたのだろうか、サキは集団登校をやめ、小学校を卒業するまでオトウサンに車で送ってもらっていた。
 壁に右手を着き、水面から顔を上げ、底に足をつける。学校のプールの底は少しだけさわり心地が悪い。ゴーグルを外すとサキが微笑んで顔を覗き込んできた。
「ケンちゃんの泳ぎは、やっぱり、綺麗だね」
「褒めてんの、それ」
「うん。水泳のことわかんないけど、ケンちゃんの泳ぎ、見てるの、好きだなあ」
 俺の泳ぎが、か。
 苦笑する。そろそろ上がらないと、と思いながら、両手で顔を拭った。
「速く泳げなきゃ、意味がないんだよ」
 泳ぎが上達して周りに誉めそやされていたのは本当に小さい頃だけで、段々と回りに本当に才能のある連中が出現してきたとき、極めるのには限界を感じた。無論最初はがむしゃらに努力をしたつもりではあったが、努力をすればするほど結局はムダなのだと解ってしまう瞬間というのは、ある。それでも去年まではスクールに通い続けてきたが、受験も近づいてきた今年、ついに、やめた。
――所詮、金魚だからな。
 水は好きでも、速さを競って泳ぐのには最初から向いていなかったのだ。
 言い訳のように、あさがおの夢を持ち出す。
 金魚は観賞用の魚だ。美しく見えるというのならそのせいかもしれない。
「そんなに綺麗なら、シンクロでもやればよかったのかもな」
 小さく呟くとサキが吹きだした。
「女の子に生まれたら、それもよかったかもね。ケンちゃん、女の子でも可愛いよ」
 なんだよそれ。
 言い返す気も起きず、ただプールサイドのサキを見上げる。悪気はないんだろうな。その顔は。
 俺は何を言われたって、傷つくことがあったって、腹が立つことがあったって、サキの事を嫌いにはなれない。
 黙ってプールサイドに上がろうとした瞬間、サキの笑顔に影が落ちて、ぽつりと、言った。
「離婚するんだって」
 俺はじっと、苦しそうにゆがみ始めたサキの顔を見つめていた。今にも泣き出しそうに見えた。
 サキのオトウサンとオカアサンが別居していても離婚はしていないと言うのは、なんとなく、自分の両親やサキから聞いていた。オトウサンは離れていてもオカアサンを心配していたし、サキもそれを望んでいたのだ。だがオカアサンの病状はいつまでたっても良くならなかった。
「仕方ないよね」
 俺はかけるべき言葉をみつけられず黙っていた。しばらく沈黙が落ちて、それからサキは作り笑いをした。
「私、やっぱり、こっち、帰ってこようかなあ」
 大学3年生になるサキは既に東京で就職活動を始めているらしい。就職活動なんて、こんなに早い時期からはじめなければならないものなのか、と思ったが、曰く、特に東京で就職したいのであれば、3年の頭にはもう始めていなければならないものらしい。
「就活、上手くいってないの」
「――ううん」
 力なく首を振る。
「お父さん、一人にはできないかなって」
 おかしな言い分だな、と思う。既にオトウサンは今一人であのマンションにいるのに。オトウサンは一人で、あの部屋で、一人で3回の春を過ごし、今3回目の一人の夏を迎えて、このまま一人で3回目の一人ぼっちの秋を迎えるのだ。サキはオトウサンをそうしてここに置いて、東京に消えていく道を、自分で決めたんじゃないのか。
「サキのしたいようにすればいいんじゃないの。東京で働くのが夢だったんだろ」
 そう言うと、サキは俺から目を外して、ゆらゆら揺れているプールの水面が、辛うじて街灯の光を受けて光るのをしばらく黙って見ていた。沈黙だった。俺はサキが何かを言うのを待っていた。沈黙の間、鳴いている蝉は一匹だけだということに俺は気付いた。
「ケンちゃん」
 掠れた声で、サキが言った。一度、躊躇うように目線を動かした後、軽く唾を飲み込んだように見えた。俺は黙ってそれを見ていた。
「ごめんね」
 何を、とか、何で今そんなこと言うの、とか、そんな言葉を口にする気も起こらず、俺は黙ってプールサイドに手をつき、水から出た。ずっと水に浸かっていた皮膚が突然空気に触れ、ひんやりした。プールの中にいた時より街灯の光が多く目に入って、ほんの一瞬だけ、まぶしいような気がした。
 あさがおの夢の終わりはいつもそうだ。鱗が全て空気に曝され、息ができず死んでしまう日。
 最初に死んだのは一番小さかった赤の金魚だった。俺が黒で、もう一匹は俺より少し大きい尾ひれの綺麗な赤い金魚。水面に浮かんだチビを拾うサキの顔があまりに悲しげで、俺は目が離せなかったことだけを覚えている。俺たちは気付いたときには生も死もありのまま受け入れることが当たり前だと思っていたので、仲間が天寿をまっとうしたことそのものを悲しいとは思わなかった。二匹で静かに水の中を泳いでいた。
 サキの一家がおかしくなったのは、チビが死んでからだいぶしてからだ。いや、だいぶ経ってからだと感じているのは金魚だった頃の俺の感覚だ。もしかしたら数週間しか経っていない頃のことだったのかもしれない。その辺りのことは未だにはっきりしない。ある頃から、急に家から笑い声が絶え、毎日俺たちに餌をくれるサキの表情に翳りが見え、そして、時折金魚鉢を覗いたり水の交換をしてくれていたオカアサンの顔を見ることがなくなった。
 不慮の事故でサキの弟が亡くなり、それ以来オカアサンが心を病んでいたらしい、というのは、あの事件の後に両親や近所の人の噂話から断片的に聞き知って得た知識だ。それを知ってから、あの夢の終わりの意味も理解できるようになった。
 家の空気が変わってしまった頃から、段々と俺と赤い金魚も体が弱り始めてしまった。金魚すくいの金魚なんてそんなものなのだと思う。別にサキの世話が悪かったわけではない。だがサキは責任を感じたのか、毎日元気なく水を漂う俺たちを泣きそうな目で見ていた。サキのそんな顔を見るのは悲しかった。死ぬのは怖くなかった。長生きしたいとは思わなかった。ただ、サキが俺たちを心配しているように見えたのが悲しかった。だが俺たちはどうしようもなく、そろそろ限界になるのだと受け入れるしかなかった。
 水槽に入っていたら空気の温度を肌で知ることもないから、季節もよくわからない。注意深く人間の服装を見ればいいのかもしれないが、金魚だった頃にそんな観察眼はさすがになかった。ただ、虫の声がしていたから、もしかすると夏も終わりだったのかもしれない。俺は、サキの泣き声に驚いて、食んでいた水草を口から離した。
 金魚さんが死んじゃう、どうして、ちゃんと餌もあげたのに、水槽綺麗にしてるのに、水草も入れたのに、カルキヌキもしたのに、どうして、どうして、と泣き出した。おれは水面でひっくり返りそうになりながら必死にもがいている赤色を見上げた。もう、だめだ、と言っているが、まだ生きては、いた。
 次の瞬間、何が起きたのか、どうしてだったのか、あの金切り声は誰のものだったのか、長らく理解ができなかったが、年を取るうちにようやく判った。俺たちは玄関のタイルの上で水を失って尾ひれを必死に動かしていた。息ができず鱗が乾いていく。蝉ではない虫の声が聞こえた。目の近くに細かいガラスの破片が落ちているのが、辛うじて見えた。もう片方の目は玄関の白い天井を映していた。金切り声とサキの泣き声が聞こえた。もうすぐ俺たちは二匹とも死ぬのだと思ってはいたが、こんな死に方をするとは思っていなかった。意識が遠くなる中、泣きじゃくるサキの顔が一瞬だけ、目に入る。サキが泣いていると悲しい、と思う。あさがおの夢はそこで終わる。
 薄暗いプールサイドにしゃがみこみ、俺を見ようとはしないで視線を泳がせるサキを黙って見下ろした。金魚鉢でも、人間になってからも、ずっと見上げてきた。俺の身長はこれからもっと伸びて、大人になって成長を止めたサキを越すだろう。そのはずだ。大人に近づけば、今までわからなかったことももっとわかるようになる。
 弟の死以降、あの家では死、という言葉がタブーだったに違いない。心を病んだオカアサンだけでなく、サキも、死という概念を意識したくなかった。病んだオカアサンからの逃避と、死というものへの恐怖から、必死に俺たちの世話をした。なのにあの日、ストレスが限界に達したサキは、ついにオカアサンの前で死を口にしてしまった。オカアサンは金魚鉢を玄関先に叩き落して何もかもをなかったことにしたのだ。その後あの家がどうなったのかは知らない。金切り声は、今思えば、あの商店街に響いていた叫び声と同じだった。
 事件の後、ことの重大さを理解できず一人でいるサキに無邪気に話しかけたのは俺だ。サキははじめ戸惑っていたが、邪険にすることなく、遊んで、と言えば、遊んでくれた。まだ小さかった頃の話だ。そのうち、俺の両親もサキの家には気まずい思いがあること、サキの父親も事件の事を思い出したくないからか俺の家とは関わりたくない本音があることに薄々気付き始めたが、それでもサキに関わることはやめなかった。
 やめられなかった。
 白い浴衣の少女に袋を吊り下げられ帰宅したあの日からずっと、サキのことを見続けていた。あのあさがおの浴衣をこの目で見た事は二度とない。それでも、あの夜に咲くあさがおの姿が目に焼きついている。何度も何度もあさがおの夢を見る。夏になるといつもそうだ。
 金魚の世話を必死にしたがるのも、俺のことをなんとも思っていないような顔をして振舞うのも、結局はこの町を出て東京に住みたいと言うのも、本当は、一番逃げ出したいのはサキだからだ。弟が死んだこと、オカアサンがそれからおかしくなってしまったこと。
 金魚の俺が心配で泣いたことなんてきっと一度もない。オカアサンが起こした事件の被害者である俺ことは、なんとも思っていないフリをして、本当は、目にもしたくない。それに気付いてしまってからも、ずっと。俺はサキをずっと、ずっと、ずっと、追っている。愚かな人間だと、思う。
 高校に入って、卒業して、東京の大学に進学できるとしても、あと4年だ。その頃にはサキは東京のどこかのオフィスででも働いて、今より更に遠い存在になっているかもしれない。それでも。
「俺、男に生まれてよかったよ」
「え?」
 突然の言葉に戸惑ったサキが思わず聞き返しながら俺の顔を見上げた。野暮ったい姿。決して可愛くもない、美人でもない。でもあのあさがおの日から、俺はずっとただ一人に恋焦がれている。

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