テルミア・ストーリーズ+企画参加作品

獅子の咆哮


 重大な話がある、とダルディン王子に呼び出されたのは、異世界に召喚されてからちょうど半年が経とうとしていた頃だった。普段は軍の幹部たちが会議に使っているという部屋には、華やかな装飾はなく、置いてあるテーブルと椅子も極めてシンプルなものだ。ダルディン王子にすすめられ、ゆりあと私は重たい木の椅子に座った。人払いがされて部屋には他に誰もいない。
「お話というのは?」
 ゆりあが王子に問いかけた。私は王子に視線を移す。色素の薄い茶の目が、問いかけるゆりあの顔に一瞬向けられた後、微かに揺らいで、それからすぐ慌てたように視線を外した。普段表情を崩すことの少ない生真面目な青年のこの顔を、この半年の間に何度見ただろうか。
 軽く咳払いをして、ダルディン王子は口を開いた。
「あなた方を元の世界にお送りする方法が見つかったのです」
 澄んだ声が会議室に微かに響いた。
 私はあまりに突然なその言葉の意味を理解するのにほんの少しだけ時間がかかっていた。固まっている私の顔を、ゆりあが覗き込んできた。ゆっくりとそちらに目を向けると、弾けんばかりに喜んでいるゆりあがいた。
「真智子」
 艶のある女の声が、震えながら私の名前を呼んでいる。
「私たち、帰れるんだよ、真智子」
 言いながら、ゆりあはまだ呆然としている私の手をそっと取って、握った。ゆりあの手はいつも冷たくて、ときどきぎょっとする。その温度差に一瞬意識が向いたあと、もう一度ゆりあの目を見ると、今にも涙があふれそうになっていて、私の脳はそこでようやく働き始めた。
「ほんとうに……?」
 思いのほか間抜けな声が出た。私はダルディン王子に再び視線を戻した。そこには少しだけ気まずそうな表情があって、私は不穏なものを感じた。ゆりあは涙をこらえてうつむいている。王子の様子にまだ気づいてはいない。
「王子?」
 私が声をかけると、はっとしたように私と目を合わせた。少し躊躇うように視線をさまよわせた後、口を開く。
「よく聞いて頂きたい。これにはひとつ、問題があるのです」
 ゆりあが肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。先ほどまでの歓喜に満ちた表情が一気に消え失せている。
 私たちは黙って王子の言葉の続きを待った。聡明さと高貴さがにじみ出ている、男性的な、しかし美しい顔立ちをしている男の、薄い唇がゆっくりと動いた。
「異界への道は一人分しか開きません。お帰りになれるのはお一人です。どうなさるのか、半月後までに決めて頂きたい」

 私とゆりあがテルミアという大陸に迷いこんだのは半年前だった。
 ゆりあは一ヵ月後に結婚が決まっていた。独身さよなら旅行と称して、近くの小さな山を二人で登ることにしたのだ。ハイキングの経験が多いわけではなかったが、事前に調べて必要な装備を整えていたし、天気予報を見る限り特別危険な日に入山したわけではなかった。だが中腹に差し掛かった頃、あまりにも突然に天気が崩れ始め、地面がぬかるみ、焦ってしまった私たちはルートの中で唯一足元が狭まっている危険な場所で滑落してしまった。
 滑落した――いや、もしかしたらそうではなかったのかもしれない。
 体が落ちていく感覚は本当に一瞬で、気づいたら私たちは空を飛んでいた。直前までの大雨などどこへ行ってしまったのか、目を開けると晴れ渡った青空がどこまでも広がっている。私たちは大きな翼の生えた四足の生き物の背中に乗っていた。手触りのいい金色の毛並みに、力強い白の翼。その生き物は空を飛んでいて、その背中から地上を見下ろすと、日本ではまず見ることのないだろう、地平線まで続く果てしない荒野が広がっている。そして生き物のすぐ下には、人だかりができていた。
――これは何、夢?
 その私の思考を、ゆりあが遮った。
「真智子」
 震える声で私の名を呼んで、ゆりあは手を握った。その手の冷たさが、これは夢ではないのだと私に告げていた。
 肩を寄せ合う私たちを乗せ、生き物は空を旋回し、そして徐々に降下を始めた。だんだんと地上にいる人々の集まりがはっきりと見えてくる。それが軍隊だとわかる距離に達したとき、生き物は一度降下をやめた。ざっと1000人はいるのではないかと思われる軍隊の中から、馬に乗った一人の青年がこちらに向かって走ってきた。
「ウェトシー国が第一王子、ダルディンと申す!」
 張りのある青年の声が、響いた。
「聖獣を駆る異人よ、あなた方が天空神ミアの使いか!」
 私たちは何も答えなかった。どうしようもなく、生き物の上で震えていた。地上にいる兵士たちは皆前時代的な洋風の甲冑を纏い、真剣などを武器としているらしかった。歴史映画の撮影所でないというのなら、ここが現代の地球だとは思えなかった。
 再び生き物が降下を始め、やがて、地に降り立った。そこに、先ほどの青年が馬を走らせて来て、降りた。
 長身の、スタイルのいい男で、端正な顔立ちをしていた。身に着けていたのが血と泥で汚れた甲冑でなければ、思わず見とれていたかもしれない。ゆりあは歩み寄ってくる男におびえていた。
 この時、私の頭の中が急に冷静になり、状況をすべて受け入れる気になったのは、その直後に眼前で起きた出来事があまりにも私にはありふれた展開だったからだ。
 男の視線は、脅えながらも彼を睨みつけるゆりあの上で止まった。その男の顔が急に、無防備な、惚けたような、そんな風に緩みながら、しかしその目がしっかりとゆりあを見つめていることに気づいて、私は彼が一瞬にしてゆりあに惹かれたのだと気づいた。それは私にとってあまりにもありふれた光景だった。ゆりあは昔から美しかった。一緒に中学に入学した12の時から、数え切れないほどの男がこのようにしてゆりあに恋をするのだった。この甲冑の男もそれらと寸分変わらぬ男の一人だと思ったとき、急に頭の中が冷静になったのだった。たとえここがどこで、どのような状況で、目の前の男がこの世界でどんな身分の人間であろうと、ゆりあに一目で惚れてしまう、私が見慣れたただの男だった。

「二人で帰ることはできないということですか」
 長い沈黙の後、か細い声でゆりあが聞き返した。頼りない声ではあるが、まっすぐに王子を見つめて。その視線を受け止めるのに急に耐えられなくなったのか、ほんの少しだけ、王子は目を伏せた。
「次の新月の夜は、100年に一度、聖地に大陸の精霊の魔力が集まる特別な日なのです。その時に、異界への道を開きます。その儀式を行えるのはリオニアでかつて宮廷魔術師をしていた老人ですが、その男の力でも、一人分の道を開くのが限界なのです」
 魔力がどうだとか、この大陸の地名を挙げて説明されても、私たちには半分も理解できなかった。半年間この世界で過ごしてきて、私たちはここに長くい続ける羽目にならないことを祈り続けたし、その願いも込めて、この国に深く関わらないように注意して生活してきた。その中で理解せざるを得なかった数少ない知識が、ある。
 このウェトシーという国は北と東にそれぞれエスラディア、リオニアという国と接していて、あとは穏やかな海に囲まれている。リオニアは王政の近代的な国家で、ウェトシーとは比較的良好な関係を築いているが、軍事国家であるエスラディアとは長年対立しているらしい。私たちが降り立ったあの荒野はエスラディアとの国境だった。
 この大陸にはひとつの神話があって、多くの人がそれを信仰している。その神話は、国を救う英雄がリオノスと呼ばれる聖獣に乗って降り立ってくるという話から始まるもので、そのリオノスというのが私たちを乗せていたあの生き物だった。だから私たちが最初に現れたとき、軍人たちの視線が私たちに釘付けになり、ダルディン王子は慌てて駆け寄ってきたのだ。
 だが、私たちは英雄になれるような特別な存在ではない。ただのOLだ。神の使いだと言われても何もできることなんてない。突然の聖獣の降臨に奮い立った兵たちは、攻め入ってきたエスラディアの軍を見事に撃退したが、それだけだった。ダルディン王子は私たちを丁重にもてなして都まで連れてきたが、人々は私たちが何もできないただの女だとわかると、すぐに興味を失った。それどころか、得体の知れない異人として嫌がられている節もある。この国は若干閉鎖的で、保守的な国なのかもしれない。何しろ、一番私たちの存在を邪険にするのがこの国の王であるグラトーだ。王子に連れられて初めて彼に会った日、露骨に嫌そうな顔をされた。
「聖獣に乗った英雄が現れたなどと聞いていたが、なんだ、女ではないか」
 田舎の小さな会社に勤めている私ではあるが、それでもこんなあからさまな男尊女卑は久々に見た。だがこれがこの国の在り方なのだろう。不快に思ったのは事実だが、それを覚ったダルディン王子が焦ったようにフォローするのを見て、誰を責めることもできないと思った。
 それからの半年間、私たちはダルディン王子に用意された城の隅の一室で、静かに毎日を過ごしていた。時折、王子や、その母であるフラリカ王妃が訪ねてくる以外は、私たちはずっと二人だった。世話役の侍女もあてがわれたが、必要最低限は関わらないようにした。元の世界に帰る方法をなんとかして探すと約束してくれたダルディン王子を信じて、この世界に心を移さないようにただ一つだけを願い続けた。
「それしか、元の世界に帰れる方法がないのですか」
 ゆりあがもう一度確認すると、王子の顔はますます苦しそうに歪む。
「もちろん、方法はまだ他にも探しています。ただ、送還の儀をこの国では行った実績がなく、今回ようやく、それを経験した魔術師を見つけたのです。次の新月の儀式は、一人だけの道を開くのならば、ほぼ確実に成功すると魔術師は申しています。これを逃すと、確実な方法をいつ見つけられるか、私には保障できません」
 王子はずっと私たちに親切にしてくれていた。彼なりに悩んだ末の提案なのだろう。それを思うと心苦しかった。隣でゆりあが震えているのがわかる。私は動悸のする胸を押さえながら、しかし、はっきりと王子に告げた。
「一人だけなんて、無理です」
 この答えは、もしかしたら王子が予測していたものだったのかもしれない。苦い顔をしてはいるが、驚いている様子はなかった。
「二人一緒に帰れる、その算段がつくまで、私たちはここにいます」

「送還の儀の件を断ったというのは本当なの?」
 ほんの少しだけ眉根を寄せてフラリカ王妃は私に問うた。まるでルネサンス期のマリアの肖像画に出てきそうな、美しくかつ母性も感じさせる完璧な容姿をした女性だ。ダルディン王子は男性的な顔をしてはいるが、基本的には父王よりもフラリカ王妃に似ていると思う。お城の隅っこの一室に、窓から差し込んだ日の光が王妃のウェーブのかかった薄い茶の髪にあたって、まるで金色のように輝いた。そんなはずはないのに、まぶしい、と思う。
「……ごめんなさい」
「いえ、謝ることではないわ」
 そういって王妃は苦笑する。ますます心が痛む。
「王子や、王妃さまや、他の方たちが私たちのために苦労されたことは知っているんです。だから申し訳なくて。でも、やっぱりどちらか一人だけなんて、選べないから」
 途切れ途切れにそう説明すると、今度はフラリカ王妃はにっこりと笑って、私の手を取った。白くて綺麗な手だな、と思う。
「仕方の無いことだわ。あの子も、辛い決断を迫ってしまったと気に病んでいたの」
 白い手から王妃の顔に視線を移した。王子と同じ茶の瞳に出会う。明るい笑顔を浮かべた。
「私たちに気を使うことはないのよ。あなたたちが望む形で故郷に帰れるように、全力を尽くします。それまでは、ゆっくりしてくれていいの。ねえ、だから、それまでの間、少しこの国とも交流してみない? ウェトシーは綺麗な国よ。ハンサムな男も多いし、ね?」
「陛下」
 渋い声と咳払いが、トーンの上がっていた王妃の言葉を遮った。王妃がこの部屋を訪れるときに、いつも着いて来る侍女だ。王妃は40歳ぐらいで、この侍女はもう少し年配だ。いつも険しい顔をしているが、聡明で、思慮深い人なのではないかと思っている。王妃は上品な人であるが、少し茶目っ気もある。そして、ついおせっかいから一言余計な事を口走りそうになることもある。それをこの侍女はいつもこのようにして止めるのだ。半年も関わっていれば、周囲の人間の人となりも理解できるし、人間関係も見えてくる。
 はっとして、王妃は一度口をつぐんだ。
「ああ――ところで、ユリア殿はどちらに?」
 言いながら、王妃は部屋の中を見渡した。私たちに与えられた寝室は王城の客人向けの一室で、当然のことながら日本で私たちが住んでいた一般的な家屋の部屋に比べれば驚くほど広かった。西洋風の立派な家具や装飾品は、私たちにはじめてこの部屋が与えられてから増減もないし、配置換えもしなかった。半年間ずっと変わらない部屋をフラリカ王妃の視線につられて一瞬見渡した後、私は首を振った。
「庭を見てくると言って、少し前から一人で出かけていったんです」
 ダルディン王子から件の話をされて4日が経っている。最初は動揺や落胆、困惑の入り混じった気持ちで塞ぎこんでいた私たちだったが、一昨日からゆりあは以前より積極的に部屋から出るようになった。そこで何をしているのか私は知らない。私は外を歩き回って行動範囲を広げる気にはなれなかったし、ゆりあは外出するときに私を誘うことはなかった。
「そう……少しは元気なら、安心だわ。また顔を見に来るわね」
 ゆりあに会えなかったのが残念だったのだろう。王妃は名残惜しそうな表情をしながら、そう言って立ち上がった。グラトー王の妻はフラリカ王妃一人しかいない。王妃と言っても、この国は江戸時代の将軍の妻のように奥に閉じこもっているわけではなく、表に立って王と協力して政治を行っていくものらしい。突然異界からやってきた私たちを気にかけてはいるが、多忙のため王妃が私たちを直接訪問することは頻繁にあるわけではなかった。たまに来ても、長居をすることは少ない。無理をして時間を作っているのだろう。一国の長の妻が、そこまでして私たちを心配してくれているというのは、幸運なことなのかもしれない。そう思うたびに、帰りたいとしか思えない自分に後ろ暗い気分になる。
「真智子」
 突然ゆりあの声がして、私の思考は遮られた。今フラリカ王妃が出て行ったばかりの部屋の入り口に、ゆりあが立っていた。無表情にこちらを見ている。
「ゆりあ、今、フラリカ王妃が、来ていたところだったのに」
 私がそう言うと、ゆりあは一瞬廊下に視線をやって、それから黙って部屋に入ってきた。後ろ手でドアを閉めた。どことなく、強張ったようにも見える顔で、顔色もよくなかった。だが真っ直ぐにこちらを見ている。はっきりとした二重の大きな目は、見つめられると吸い込まれそうな、魅力的な形をしている。
「ゆりあ?」
「――真智子」
 様子がおかしい、と思って声をかけた私を、遮るように、ゆりあは私の名前を呼んだ。その声の、奇妙な緊張に、私は口を噤む。
「真智子は、いいの。元の世界に帰れなくても、良いって、本当に思ってるの」
 真っ直ぐに私を見つめてきて、ゆりあは問う。私たちの距離は10メートルはあった。部屋は広かった。ずいぶんと遠く感じられた。その距離からでも、何故か、逃げられない、と思わせるだけの力がある視線だった。
「良い、わけじゃ、ないよ」
 戸惑いがちに出た言葉は、掠れていた。
「いつかは帰るよ。絶対に帰れる。そう信じてるよ。ゆりあも、そうでしょ?」
「ならどうして、帰らないって言うの?」
 そう聞くゆりあは無表情だった。こんな顔を、今まで見たことがあっただろうか、と思う。10年以上の付き合いなのに。ゆりあが何を考えているのかわからない。それが恐怖で、鼓動が早まった。
「そんなものなの、真智子の気持ちは。今目の前にあるチャンスを逃して惜しくない、そんな程度なの。帰りたくないの」
「ゆりあ、だって、それは」
「じゃあさ、」
 ゆりあはそこでようやく一呼吸置いてから、続けた。
「私に、帰らせてよ」
 私は信じられない気持ちで、ゆりあを見つめていた。
 ゆりあは美しい顔をしている。予想外の、残酷な言葉を口にする瞬間も、まるで映画のワンシーンのように見えて、それが一瞬私から現実感を奪おうとすらしていた。
「私に、次の新月の夜、日本に帰らせて。私、元の世界で生活したい。雅彦さんと結婚したいの」

 ゆりあが今井のことを雅彦さんと呼ぶようになったのは1年前からだ。今井は私の大学の同期だった。教養課程でいくつか同じ授業を選択していたのがきっかけで、なんとなく親しくなった男だった。私が大学3年で、短大を卒業したゆりあが社会人1年目だった夏、駅前のカフェでお茶をしていたところに今井が偶然通りかかった。それが二人の出会いだった。
 二人の最初の出会いは特別なものではなかった。今井はダルディン王子のようにドラマティックな一目ぼれをしたわけではなかった。なんとなくその場で少し会話をした後、今井は立ち去った。それから1ヵ月後、二人で訪れたビアガーデンで再びゆりあと今井は再会し、そしてそのうち、私の知らないところで二人の関係が恋に発展していた。
 別に今井に男として惚れていたわけではなかった。ただ気楽に付き合える男友達で、だからこそ、今井が結局、多くの男と同様にゆりあに惚れたのかと思うと、多少の落胆のようなものが無かったといったら嘘になる。ただ、幸せそうなゆりあを見ているとそんな気持ちもすぐに消えた。
 容姿が良いせいで、ゆりあは時折しつこく迫られ、押し切られ、よくない男に引っかかることがあった。前に付き合っていたのは理不尽にゆりあを束縛する男で、精神的に追い詰められたこともあった。その点、今井が良い奴であることを私は良く知っていた。若い男特有のがさつで無神経なところはあるが、性根は優しく、人の痛みに心を寄せられる、いざとなったら頼れる男だった。こいつにならゆりあを任せられる、とも思った。
 今井君がね、というのろけが、雅彦さんが、という言い方に変化して、それから暫くして気恥ずかしそうに頬を緩めながら、婚約したの、と打ち明けられたとき、私は純粋に心の底から祝福した。

「家族ができるの」
 声が震えている。泣きそうなのかもしれない、と思った。かつて泣き虫だったゆりあが涙を流すのを目にするのは、久しぶりであるような気がする。私は弾かれたように椅子から立ち上がり、ゆりあの元に駆け寄った。
 まだ泣いてはいなかった。ただ弱々しく震えていた。必死に堪えている姿を見て、10歳の頃、はじめてゆりあに声をかけた、あの日を思い出した。その瞬間にゆりあがまた口を開いた。
「やっと、家族ができると思った。ずっと一人だったから。雅彦さんに、プロポーズされたとき、ほんとに、嬉しかったの」
 今度こそ、ゆりあは泣き崩れそうだった。一歩、二歩、ゆっくりと私はゆりあに歩み寄った。震える肩をそっと抱いた。
「……ごめん」
 乾いた声で囁いた。
 二人一緒に帰れるまでここにいるなんて、なんて勝手なことを言ったのだろう。長い孤独と戦ってきたゆりあが、結婚にどれだけ夢を抱いてきたのか、知っていたのに。
「ごめん、私、ゆりあの気持ち、全然、わかってなかったんだね」
 ゆりあはそれに言葉では返さず、鼻をすすった。うつむいているので顔が見えない。私はそれ以上は何も言わずに、ゆりあの背中をさすった。沈黙が訪れ、部屋にゆりあの涙を堪える熱が漂った。人を抱きしめていると、暖かい。なのに、ゆりあの息遣いを聞いていると、胸がほんの少しだけ痛んだ。
 ゆりあの気持ちをわかっていなかった。私はわかっていなかったのか。二人一緒に帰る、ゆりあはずっと、そんな気持ちではなかったのだろうか。ゆりあは良いと思っているのか。私一人を置いて、自分だけが元の世界に戻っても。

「ご決断なさったとのことですが」
 中庭でぼんやりしていた私に、突然声をかけたのはダルディン王子だ。驚いて振り返ると、軽装の王子が、こちらに歩み寄ってくるところだった。少し離れたところに、見覚えのある従者を連れて。
 いつも忙しく城のあちらこちらを飛んで回っている王子にこんなところで話しかけられるとは思わなかった。私は慌てて立ち上がる。
「ごめんなさい、直接お話に伺うべきだとは思ったんですけど、お忙しくて時間が取れないと聞いて」
 ゆりあ一人が次の新月の夜に帰るのだと決めて、私はすぐに王子にその旨を伝えようとしたが、面会をする暇もないと聞かされ、仕方なく従者の一人に伝言を頼んだのだった。
「お話はこの者から聞きました。お会いする余裕がなくて申し訳が無い――今日も外出の予定が入っていて、あまり長くお話はできないのですが」
 一度言葉を切って、ダルディン王子は私の目を真っ直ぐみつめてきた。私も黙って相手を見つめ返す。凛々しくてハンサムだな、と思う。この人が一目でゆりあに惚れることがなかったら、私はもしかしたら多少はときめいていたかもしれない、とふと思った。面食いではないが、そうでなくても理屈抜きで多くの女の胸を騒がすであろう、完璧な容姿なのだ。でも、ゆりあはどうなんだろう、と思う。彼女も容姿で男を選ぶ女ではない。ただ、自分に優しくしてくれる男には弱い、という面はあった。過去の辛い経験が、そうさせていたのかもしれない。でも、親切で一途なダルディン王子に、ゆりあが心を動かされたことは一度も無いように見える。
――ああ、そうか、今井しか、いないんだな。
 今のゆりあの心の中にいる唯一の存在なんだ、あいつは。
 そうだ、帰る、帰ってあいつに会う。そして結婚する。それだけを切に願っている。
 チクリ、と胸が痛む。
「本当に、よろしいのですか」
 ダルディン王子の言葉に、深く考える前に頷いた。
「二人で決めたことですから」
 慌てて口にした言葉が少しだけ震えた、気がした。気づかれていなければ良いと思う。王子も従者もあまり顔色は変わらなかった。王子は少し考えるようにして目を伏せた後、頷いた。
「お二人が決めたことならば、良いのです。それでは、送還の儀の詳しい計画などは、後ほどご連絡致します」
 そう言ってダルディン王子が軽く頭を下げようとした、その瞬間だった。
 突如、上空から突風が吹きつけて、私はその場に立っていられなくなった。屈もうとするより先に、足がもつれて尻餅をつく。見上げると、金色のたてがみと白い翼を持つ獅子がこちらに近づいてくるところだった。
「リオノス……」
 王子が小さく呟くのが離れた場所から聞こえた。私は声も出せないまま、呆然と、芝生の敷き詰められた庭に降り立つリオノスを見つめていた。
 私たちをこの国に連れてきた不思議なこの生き物は、動物園にいるオスのライオンと同じぐらいの大きさで、だけど両側にあるそれぞれ1メートルほどの大きな翼を広げると、それ以上に大きく見える。目の前にした人間すべてを圧倒する存在感。この大きさの生き物がこの翼ひとつで空に舞い上がるなんて、物理的にありえないはずだ。この生き物は魔法を使うのであり、そしてその不思議が、聖獣と呼ばれる所以なのだ。
 私は立ち上がった。リオノスは動かない。動かずにこちらをじっと見ている。澄んだ青の瞳、それもまた、地球では見たことの無い生き物の瞳だ。ゆっくりと歩み寄る。リオノスは時折こうして、何の前触れも無く私とゆりあの前に現れた。理由はわからない。だがこうしてゆりあを伴わずに私が一人でいるところに現れたのは初めてだった。私に用があるというのか。
 あと一歩。あと一歩で触れられる、その距離まで歩み寄って、私は足を止めた。じっとこちらを見ている。噛み付きはしない。吼えもしない。犬のように荒い呼吸をすることもないし、猫のような威嚇もしなかった。知性のある生き物なのかもしれない。だがコミュニケーションはとれない。未知のこの生き物が、私は少し怖かった。獣の目とは明らかに違う静かな視線が、何かを訴えているようにも見えるのに、私はそれを決して理解できないのだ。
 それに対して、ゆりあはリオノスをそれほど恐れてはいないようだった。私と同様、コミュニケーションが取れるわけではない。だがこうして突然目の前に現れたときには、必ず体を撫でていた。輝く金色の体毛は、さわり心地が良いのだという。私がそれに触れたのは、このテルミアにやってきたあの日、一度だけだ。
「リオノスは貴女を選んだのでしょうか」
 突然、ダルディン王子がそんなことを呟いた。
「――選んだ?」
 その言葉の意味が解せずに聞き返しながら、私は振り返った。リオノスもゆっくりと首を動かしている。もしかしたら、この生き物は人語をひそかに理解しているのかもしれない、と思う。
「リオノスを駆る英雄の伝説は、わが国ではひとつの民話として伝わるだけで、そこまで重要視はされていません。しかし隣国のリオニアでは、国が危機に瀕したとき、リオノスが異界から勇者を連れてくるという説話があり、深く信仰しているのです。私もこの目で見るまでリオノスの存在すら疑っていたのですが、もしかしたら――」
 そこまで淡々と話した後、私と目が会ったダルディンははっとして一度口を閉ざした。気まずそうに目を逸らした後、首を振った。
「口が過ぎました。忘れてください」
「いえ――」
 返すべき言葉が見つからず、私はてきとうな相槌を打って、そのまま沈黙してしまった。
 リオノスが私かゆりあ、どちらかを選ぶとしたら、間違いなくゆりあであるはずだ。私はこの半年、この生き物に対する恐怖心をぬぐえないままだったし、ゆりあは最初からそうではなかった。リオノスも、ゆりあには心を開いているのではないのか。
 私たちをこの世界で特別な存在にしてしまった生き物が、一体何を考えているのか。私にはこの先もずっと、わかるようになるとは思えない。なのに、ゆりあは――いや、私たちは、どちらか一人と言われて私を選択したのだ。
 最初にこの世界に来たときから、私たち二人はこの世界に歓迎されていない。だから二人で肩を寄せてきた。それでも、どちらか、というのなら、むしろゆりあなのではないのか。
 胸のうちで何かがくすぶり始める。いや、そこに意識を向けるな。私は一度きつく目を閉じる。ゆりあの幸せを願うんじゃないのか。それが幼馴染であり親友である、私が唯一すべきことではないのか。きっといつか帰れる。それまでゆりあの幸せを願ってここにいるべきなのだ。
 目を開く。リオノスの瞳の深い青に吸い寄せられた。私を見ている。私もリオノスを見つめている。巨大な体、大きな口から白い牙が見える。太い足の先に、鋭い爪が並んでいる。襲われたらひとたまりも無い、恐ろしい獣に見える。人間を襲う生き物ではないのだと頭ではわかっていても近寄りがたい。だがこの世界に留まるのなら、リオノスをいつまでも怖がってはいられないのかもしれない。私たちをこの国に導いた生き物。私を選んだのかもしれない、聖獣。
 怖々と、私はゆりあのように、リオノスに手を差し伸べた。勇気を出して触れてみれば、何かが変わるのかもしれないと、想ったからだ。
 しかし、その次の瞬間。
 地鳴りがしたような、気がした。空気が震えている。足元が覚束なくなり、ふらついた。金縛りになったように、体が強張る。緊張の中で目の前のリオノスを見つめると、何かを叫ぶような、そんな仕草をしているように見えた。
 吼えているのかもしれない。しかし、私の耳には音と認識できる何かは届かなかった。大きな風の音、草木が激しくざわめく音が聞こえるだけで、後は静かなのだ。それは奇妙な光景だった。
「如何なさいました?」
 動悸のする胸を押さえて、無言で固まっている私に、ダルディン王子が不思議そうに声をかけた。私はゆっくりと顔をそちらに向ける。
「今、リオノスが」
「―――はい?」
 王子も、従者も、私が動揺している理由がわからないようで、真顔でこちらをじっと見ている。あたりを見やると、激しく揺らされたと思っていた中庭の木や花や芝生が荒れた様子はなかった。リオノスの無音の咆哮によって、確かにこのあたり一体が激しく震えたと思ったのに。
 もう一度リオノスに視線を戻すと、同時、また風が起こった。思わず目を細める。白い翼が大きく動いていた。ゆっくりとリオノスは浮上していく。太陽の光で金色の体毛が輝いた。どんどんと空に向かっていくリオノスはそのうち私から目を逸らした。黙ってそれを目で追っていると太陽の光が目に入って、あまりの眩しさに思わず目を瞑る。その一瞬に、リオノスは、消えた。
 私はリオノスが消えた空をしばらく眺めていた。さっきの出来事は、白昼夢だったのだろうか。何故今日は私だけの前に現れたのだろう。
 リオノスとの距離を縮められなかった私の胸は、まだ激しく鳴っていた。

 泣き出したゆりあの肩を抱いたあの日以来、私たちの会話は少なくなった。元々この世界に来てから私たちの気分は沈んでいて会話は多くはなかったが、それとは違う緊張感が私たちの間に漂っている気がした。
 帰りたいのだと涙して、それを選択したはずなのに、ゆりあの表情はいつもどこか曇っている。この世界に未練はないだろうし、帰った先では愛しい男との結婚生活が待っているはずなのだ。私を犠牲にしてそれを望んだのだから、素直に喜んでいればいいのだ。私への遠慮なのか、それとも別の何かのせいなのか、暗い顔をしているゆりあを見ると私の心の中はざわついた。その度にそんな自分が嫌になる。ゆりあの幸せを願って最終的には私自身が決めたことなのだ。今更嫉妬などすべきではない。だが心の中に広がる靄はどうしても引かない。
 どこか憂うような面持ちのゆりあは、元々の美しい顔立ちに独特の雰囲気を纏って、ますます色気を醸し出すようになっていた。城の中ですれ違う衛士たちや、そしてもちろん、あの後一度顔をあわせたダルディン王子も、ゆりあの姿を見て圧倒されたのか、明らかに動揺していた。今までの、美しい女性を見た一瞬に少しだけ心が弾むという、そういう類の反応ではない。もっと強く、抗う余地も無く惹きつけられているのだ。そしてそんな男たちを見るたびに、また私は落ち着かなくなる。こうやってゆりあは自分を好いてくれる味方をどこにいたって手に入れられるのではないか。だがここに残るのは私なのであって、そして私の立場はいつまで経ってもこの国の邪魔者かもしれない。不安と、憤りのような黒い気持ちで、ゆりあを見てしまう。
「真智子のお母さん」
 日が沈んで、もう床に就こうかという時、突然ゆりあが口を開いた。
「元気かな」
 ぽつりと。呟いた言葉が広い部屋に響いた。
 私は目を閉じた。ずっと、考えないように心の中に仕舞い込んでいたこと。
 私は両親が歳をとってからできた一人娘だった。初老の母は最近衰えが見え始めていて、目が離せない状態だった。毎朝会社に出る前、そして慌てて会社から帰ってきた後、家事は私一人で担っていた。休日になると母を車で病院まで送っていく。まだ健康な父は、非協力的な人間ではなかったが、あまりにも仕事一筋の人生を送ってきた父が手伝ってくれて役に立つことはあまりなかった。両親の世話は時折果てしない疲労感をもたらした。逃げたくなったこともある。だがこうして突然離れると、たまらなく心配になる。胸が騒がしくて、苦しい。だが考えても仕方ないことだ。私は忘れる努力をするしかなかった。
 元の世界の人たちの心配は、この国にやってきてからほんの少しお互いに不安を漏らし合って以来、口にしていない。言っても詮の無いことだからだ。それは、暗黙の了解になっていたはずだった。何故ゆりあは突然そんなことを言い出すのか。心配と、不安と、寂しさと、悔しさが、唐突に波のように押し寄せてきて、苦しくなった。
 不用意に何か喋ろうとすればゆりあに当たってしまうかもしれない。震える胸を沈めるために、私は目を閉じたまま小さく深呼吸をした。半年ずっと、両親の世話ができなかった。でもゆりあがもうすぐで戻るのだ。万が一の事があれば、その時は――頼りになってくれるはずだ。慎重に自分にそう言い聞かせると、私はゆりあの方には目を向けずに、言った。
「――ねえゆりあ、向こうに戻ったら、お母さんのこと、頼むね」
 一瞬、沈黙が落ちた。
 私がゆっくりと目を開けると同時、ゆりあが掠れ気味の声で、応えた。
「うん、わかってる」
 私は正面をぼんやりと見つめたままで固まっていた。隣にいるゆりあがどんな顔をしているのかわからない。
「真智子のお母さんは、私にとっても家族みたいなものだから。真智子が戻ってくるまで、私が守るよ」
 初めて泥まみれのゆりあを家に連れてきたときからずっと、母はゆりあと「娘の友達」以上に、親身になって付き合ってきた。学校でいじめられて泣いているとき、若いお母さんが家を出て行って呆然としているとき、金銭的な問題で将来について悩んでいるとき、母はゆりあの母代わりとも言える気持ちで、支えてきた。今井との結婚が決まったとき、涙を流して喜んでいたのも母だ。
 思い出す、色んな思い出。ゆりあにとっても、私の母はかけがえのない存在かもしれない。だが、母はただ一人の「私の」母だ。歳を取ってからの娘なだけあって、多少甘やかされては来たが、自分に厳しい母は、私を躾けるときも妥協することなく躾けた。子供の頃はきつく叱られて何度も泣いた。その後に心から反省して謝ると、とびきりの笑顔で頭を撫でてくれた。人生の節目で弱気になると叱咤し、大学に合格すると喜び、卒業の日には涙し、初任給で買ったプレゼントを受け取りながら「こんな物を買っていないで将来のために貯金しなさい」などと照れ隠しに言い放つ。そういう母。あの母を残して、私はいつ終わるかわからないこの世界での生活を続けるのか。
 チクリ。チクリ。心臓が痛い。
 震えそうになる私はゆりあの声で現実に引き戻された。
「もう、寝ようか」
 静かにそう言うと、ゆりあはベッドに横になる。顔が見えない。何を考えているのか。30センチメートルほどの間隔で隣り合っているベッドが果てしなく遠く感じる。ゆりあを遠く感じる。
 どうしてこうなったのだろう。灯りを落として部屋が真っ暗になった部屋で横になっても、私の頭は少しも休まることがない。出会ってから、ずっと一番近い友達だった。もちろん、長年の付き合いの中で、お互いに複雑な感情を抱いて微妙に距離を置いてしまったこともある。それでも私たちは親友と言える特別な関係だった。突然見知らぬ世界での生活を強いられても、二人だからこそ、なんとか正気を保ってやってこれたのだ。その友から、心が離れていく。私はどうすればいいのだろう。元の世界の家族を託しても、その安否を思うたびに、このくすぶるような気持ちも呼び起こされるのだろうか。気が遠くなりそうだった。
「――大丈夫?」
 私はフラリカ王妃の声で我に返った。中年の女性ではあるが、柔らかな声には艶がある。まるで魔法のように、私の意識はそちらに吸い寄せられる。
「顔色が良くないわね。ここ数日、体調がよくないと聞いて心配になって」
 言いながら、王妃は私の顔を覗き込んでくる。
 ここ数日。ああ、あのゆりあと言葉を交わした夜から、数日経ったのか。あれ以来更に口が重くなって、ゆりあとはほとんどど会話をしていない。唯一まともに会話していた相手と気まずくなって、ますます気分が塞いでいた。体調がよくないと王妃に伝えたのは誰だろうか。
「ご心配おかけしてしまって……お忙しいのに、わざわざお見舞いなんて、すみません」
 自分の口から出た言葉が思った以上にぶっきら棒になってしまって、私は自分自身に苛立った。どうしてこんな可愛げのない振る舞いになってしまうのだろう。フラリカ王妃は私の事を本当に心配してくれている、いい人なのに。私はこの世界に留まらなければならない事実を、未だに受け入れてられないのだ。それが、言動に表れている。なんて嫌な女なのだろう。
「―――ごめんなさい」
 うつむきながら呟いた言葉が、掠れた。ほんの一瞬の戸惑うような沈黙の後、王妃の手が、膝の上に置かれた私の手に触れる。
「大丈夫よ」
 王妃の手は、白くて、綺麗で、少しだけ温かくて、触れられると心地が良い。
 あまりに突然触られたので、私の腕が反射的に震えた。その瞬間、フラリカ王妃は珍しく、私の手を逃さないように、包み込んで、強く握り締めた。驚いて思わず顔を上げ、私は王妃の顔を見つめた。目が会った。いつも穏やかな王妃の顔が、微かに歪んで、苦しんでいるような、悲しんでいるような、そんな表情に見えた。何かを言おうと口を開いて、一度躊躇って、それから、王妃は、言った。
「――大丈夫」
 解ってくれている。私の不安な気持ち。ゆりあとの間に生まれてしまった複雑な確執。受け入れてくれている。上手く言葉にはできないけど。この人には心を開いても、良いのかもしれない。私は当分の間、ここにいるんだから。
 私はフラリカ王妃の手の中で、拳を握り締めた。
「ありがとうございます」

 私の胸中を慮ってくれているのは、フラリカ王妃だけではない。
 遂にやってきた新月の日、私の元にやってきたダルディン王子は、母である王妃にそっくりの顔をしていた。儀式を行う魔術用の広間で、私たちの姿を見止めて王子は真っ先に私の元へやってきた。まず話しかけるのはゆりあだろうと思っていたので、意外な気持ちでいた。
 王子は私に問いかける。
「本当に、よろしいのですか」
 先にゆりあは離れたところを一人で歩き始めた。声を潜めた王子の問いは聞こえているのだろうか。
 何を今更、と思う。私は苦笑する。
「二人で決めたことですから」
 以前と同じ言葉を返すと、私はほんの少しだけ意地悪のつもりで、王子に囁いた。これぐらいは許されるだろう、と思って。
「私にはこれから先も会えるでしょう。ゆりあの所に行って下さいよ。ちゃんとお別れしないと、後悔しちゃいますよ?」
 ちょっとからかっただけのつもりだった。だが、王子の顔は私の予想以上に解りやすく曇ってしまい、私は余計なことを言い過ぎた、と気まずい気持ちになった。その時、ゆりあの呟く声が聞こえる。
「リオノス」
 その声につられて、私たちは広めの体育館ほどの大きさの、広間の端に目をやった。いつの間に、どうやってこの城の中に入ってきたのか、リオノスがじっとこちらを見ている。翼を持つ獅子が、室内にいればすぐに気付きそうなのに、その気配が全く判らなかった。
 本当に、何を考えているのか解らない。ぴくりとも動かずにこちらを見ている。だが、その青の目は、間違いなく私を捉えているように思えた。
「ホントに、私を選んだのかな……」
 かつての王子の言葉が脳内にふと蘇って、不思議な気持ちになりながら、私は思わず小さく呟いた。隣でそれを聞きとめたらしい王子が戸惑いがちに、私の名前を呼んだ。
「あの、リオノスは――」
「王子」
 何かを口にしようとした王子を、遮るように、唐突にゆりあが王子に声をかけた。
「急ぎましょう」
 そう言うゆりあは無表情で、顔色も悪い。声の調子が、驚くほどに冷たくて、私は一瞬息を呑んだ。促された王子は、少しだけ不安げに私たちの顔を交互に見た後、ゆりあの言葉には何も答えず、描かれた魔法陣の前にいる初老の魔術師の下へ駆けていった。ゆりあと過ごさなくていいのだろうか。未練が残るからあまり話したくないのだろうか。
 不思議に思いながら、私は一人で魔方陣を見つめるゆりあの元にゆっくりと歩いていった。
「ゆりあ」
 静かに名前を呼ぶ。
「リオノスに挨拶、していかなくていいの」
 リオノスの名前を呼んだきり、そちらには目をやらないゆりあが少し不思議に思えて、私は聞いた。ゆりあは私と違って、あの生き物にも愛着があったようだから。リオノスも、ゆりあを見送りに来たのかもしれない。だがゆりあは感情の見えない声で答えた。
「大丈夫」
 しばらく沈黙があった。隣に立って、ゆりあを見れば、顔を強張らせて、震えていた。
 私がこの2週間複雑な気持ちで過ごしていたのと同じで、ゆりあだって、色んな思いがあったに違いない。自分だけ帰ると言い出した日は傷つきもした。その後ゆりあとの距離を感じて苦しみもした。その間、ゆりあが何も感じないでいたなんて、思っていない。今日で、ゆりあとは当分会えなくなる。いつまで続くか解らない、別離。くすぶっていた黒い気持ちも、この一瞬、私の心から消えた。
「ゆりあ」
 もう一度名前を呼んだ。少しの沈黙の後、ゆりあは視線を魔術師達の方に動かした後、また真っ直ぐ前を見つめて、口を開いた。
「真智子」
 そう言って、相変わらず冷たい手で、私の手を握る。ああ、ゆりあの手だな、と思う。突然触れられると、びっくりしてしまうぐらい、冷たい手。
 目は会わせずに、ゆりあは静かに語りかけてきた。
「ねえ、覚えてる? 真智子が初めて私に話しかけてくれた日」
 私に目を合わせようとしないゆりあの表情は、強張っている。こちらを見てはいないゆりあに向かって、私は頷いた。
 小学4年生の頃、ゆりあはクラスの子にいじめられていた。10代でシングルマザーになったゆりあの母は、いつも金銭的に困っていて、貧しいゆりあはいつも汚い格好をして学校に来ていた。「貧乏の子」と罵られていた。
 ある日の放課後、水たまりに突き飛ばされて泥まみれになっているゆりあを見かねて、私が話しかけた。
――私の家、すぐ近くだから、来ない?
 ゆりあのことはよく知らなかった。隣のクラスのいじめられっ子という認識だった。可哀想だなあ、というぐらいに思って、話しかけた。その時のゆりあは鋭い目つきをしていて、親切のつもりで話しかけた私を親の仇でもみるように睨みつけて来たので、私は怖いような、腹が立つような気持ちが胸の中に湧いたのを覚えている。後からゆりあが、あの頃は皆が自分の敵だと思っていたのだと言っていた。だがそんなことを当時の私が知るわけもなく、でもどうしてだか私はそこで怯まずに泥で汚れたゆりあをちゃんと家に連れ帰ったのだ。もしあそこでゆりあを見放していたら、今の私たちは無かった。
「私、あの頃、毎日が地獄で、死にたかった」
 か細い声でそう語るゆりあは、どうしても私と目を合わせようとしない。未練が残るのが嫌なのか、決心が鈍るのが嫌なのか、それでも最後だから、ちゃんと向き合って話して欲しい、と思う。
 ゆりあがいじめに遭っていた頃の気持ちを私に話すのは、珍しい。口にするのもおぞましい記憶なのだろう。私もずっと触れないできた部分だ。辛かったと思う。死にたい、という言葉は、当然だが、改めて声に出して語られると聞いている方まで苦しくなる。
「あの日、真智子が話しかけてくれて、家に入れてくれて、真智子のお母さんが親切にしてくれて、私、ああ、世の中には、こんなにあったかい人が、いるんだあって、思って。すごく、すごく、救われた」
 ゆりあの声が微かに震えている。私は握られている手を握り返した。
 目の前の魔方陣が、突然輝きだした。魔法の準備が始まったのだろうか。一緒にいられる時間はどれぐらいなのだろう。ああ、こんなことになるのなら、どうしてこの2週間、ゆりあとの会話を避けてしまったのだろう。
「ゆりあ、もう、いいよ。大丈夫だから」
「真智子」
 焦ったように口を開いた私を、ゆりあが静かに遮った。ゆっくりとこちらに体を向ける。その表情がどんなものか、私が認識するよりも早く、ゆりあは突然私を抱きしめた。
「雅彦さんに、愛してるって、伝えてくれる?」
――え?
 耳元で囁かれた、その言葉の意味が理解できずに、聞き返そうとする。それよりも早く、ゆりあは突然私を突き放し、そして目の前の魔方陣の光の中に突き飛ばした。
 声を上げることもできないぐらいの、暴風が私に向かって吹き付けて、目を開けていられないほどの強い光が襲ってきた。
 ゆりあ、と名前を呼ぼうとした。だが、目に見えない何か大きな力に捕らえられた私は、目を開けることも、耳を澄ますことも、喉を震わせることもできないままだった。長い間、どこかへ落ちていくような感覚が続いた。そのうち段々と、意識が遠くなっていく。どれだけ時間が経ったのかわからない。突然、耳元でした大きな声で意識が戻った。
「……ら、門倉!」
 随分と久しく呼ばれていなかった、私の苗字。聞き覚えのある男の声。
 頭が痛んだ。全身が重い。目を開けるのも辛いほどの倦怠感。今井が慌ててナースコールをしているのが聞こえる。
「402号室の門倉真智子です、意識が戻ったみたいで、あの、直ぐに来てください」
 ゆっくりと、瞼を動かす。眩しい。頭が痛い。見覚えの無い、少し古びた白い天井。
「……今井?」
「大丈夫か、今、先生が来てくれるから、俺、お前のご両親に電話してくる、お父さんさっき帰ったばっかりらしくて――」
 慌てたように語りかけてくる、その口調が、あまりにも懐かしい。戻ってきたのだ、日本に。戻ってきたのだ、私、一人だけが。
 あまりの体のだるさに、私は再び目を閉じた。
 帰ってきてしまったのだ、私一人だけ。ゆりあを、残して。
 今更になって全部気付いてしまった。あの日、ゆりあが泣き出して、帰らせてくれと訴えた、あの日から、ゆりあは、そのつもりで。
 ゆりあがこんな事をしでかしたのはこれが初めてではない。あれは中学2年生の頃だった。中学に入って、貧しくても小ぎれいに装えるようになったゆりあは、環境が変わったのもあって、貧しさ故にいじめられることはなくなった。だが次は、ゆりあの美しさを妬んだ女子達から陰湿ないじめを受けるようになった。相変わらずクラスが同じにならなかった私は、それに気付いたのが遅かった。慌てて駆け込んだ放課後のトイレで、水を被って震えているゆりあに近寄ろうとすると、あまりにも冷たい声で拒絶された。
 「放っておいて」とゆりあは言った。私はその時、無性に腹が立った。「あの子達、私を妬んでるだけ。だから平気。真智子にはわかんないよ」
 何よそれ、心配したのに、と、幼かった私は単純に腹を立てた。その時、言葉にして怒りをぶつけていれば、もしかしたらまた違う展開になったかもしれない。だが私は何も言わずにその場を立ち去った。ゆりあは私を止めなかった。それから暫く、私たちは会話をする機会もなかった。私は知らなかったのだ、中学の女生徒の嫉妬によるイジメの陰湿さを。ゆりあがどんな思いであの言葉を発したのかを。私は実のところ、中学になっていきなり男にモテるようになったゆりあに、他の女子たちと同じように焦りや嫉妬のようなものを感じていたのだ。
 冷静になって考えれば、いじめられて平気だなんて、そんな馬鹿な話があるものか。クラス中の人間に無視され、ひと気の無い場所で人格を否定するような言葉を吐き捨てられ、暴力を振るわれ――そして、親友に見捨てられて。
 私が全身に青あざを作ったゆりあを薄暗い体育倉庫で抱きしめたとき、ゆりあはか細い声で、まるでうわ言のように何度も呟いた。「だめだよ、真智子」と。「だめだよ、こんなことしちゃ、真智子までいじめられちゃうよ」
 馬鹿、馬鹿、と言いながら、私は大泣きして、ゆりあを抱きしめた。それなのに、ゆりあは一滴も涙を流さなかった。
 目を閉じているのに涙が流れ出たのが、わかった。ああ、あの時と一緒だ。どうして私はいつも手遅れになってから気付くのだ。馬鹿は私だ。どうして、また。
「おい、大丈夫か? どっか痛むのか?」
 今井の心配そうな声が聞こえる。
 冷静になって考えれば、異世界に一人取り残されて平気だなんて、そんな馬鹿な話があるわけない。そんなことは、私以上にゆりあがわかっていたはずなのだ。ゆりあが私に、そんな事を望むはずがない。どうして気付かずに、一瞬でもゆりあのことを恨んでしまったのだ。
 私が泣いているから、ゆりあは泣いていないかもしれない。取り返しのつかない事をしてしまった、自分の愚かさに、気が遠くなりそうだ。
「――今井」
 喉が上手く震えなかった。少し枯れたような声だった。今井が、どうした、と聞き返す。
「ゆりあがね、」
「――うん」
「愛してるって、あんたのこと」
 私の涙よ、止まって欲しい。ゆりあがちゃんと、悲しいと泣けるように。どうか、どうか。
 ゆりあのことを思い出そうとすると、涙を流せずに立ち尽くすゆりあの隣にリオノスがいた。私が最後まで距離を縮められなかった、不思議な生き物。だが、今私が抑えようとした嗚咽は、まるで無音の咆哮だった。あの日リオノスが私だけに見せた白昼夢のように。ほんの一瞬でも私を選んだのなら、どうかゆりあに私の気持ちを伝えて欲しい。そして、あの娘を、泣かせてあげて。

この作品はテルミアストーリーズ+企画参加作品です。
作中の「テルミア大陸」に関する設定は企画の公式設定を使用させていただいております。
その他の碧によるオリジナル設定などは企画内に限りご自由にご利用ください。


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