亜鉛欠乏/七〇億



 僕はこれまでの二十年の人生で、一万七千と一人の人を殺した。

 最初の殺人は小学三年生の頃に起きた。
 あれは夏休みが近づいてきた、一学期の終わり頃だったかもしれない。僕はその日、どうしても給食に出てきた焼き魚が食べられなかった。
「食べなさい」
 と、その時担任だった女性教諭は僕に言った。記憶が確かなら彼女は当時四十歳近くで、二人いる子供のうちのどちらかが僕と同じ歳だった。不機嫌な表情で子供を見下ろすと、凹凸の少なめな顔の表面がほんの少しだけ地球の引力に引っ張られて立体的になった。
「アフリカには、食べ物を食べたくても食べられないかわいそうな子どもがたくさんいるんですよ」
 その日はとても暑くて、プラスティックの浅い器に乗せられた魚の切り身の、濁った銀色の皮がかぴかぴに乾いていて、でも身の方は脂ぎっているようにも見えて、それがどうにもひどく食欲をそそらなかったのをよく覚えている。僕はそれをじっと数秒見つめた後、再び担任教諭を見上げ、それから素朴な疑問をためらいなく口にした。
「ぼくがこの魚を食べると、アフリカの子どもが食べ物を食べられるんですか?」
 僕がそう言った途端、教諭の目がつり上がり、唇が震え、それを僕が視認出来たと同時に張り手が飛んできた。ぐわんぐわんと脳天が揺れるような衝撃が数秒続いた。僕らのやりとりを遠巻きに見ていたクラスメイトの内の一人が悲鳴を飲み込むように不自然な呼吸をしたのが聞こえた。
「食べなさい!」
 ひきつった甲高い声で教諭は叫んだ。
「食べなさい! それから、食べ終わってから、廊下に立ちなさい!」
 彼女の監視のもと、僕は皿の上に残った魚を、時間をかけて咀嚼し、飲み込んだ。それから命令通り、日の当たる廊下に立っていた。僕抜きで授業は再開された。授業時間中だから、廊下には誰もいなかった。
 その時僕はなんだか唐突に、水槽の中に放られたメダカのような気分になった。湿度の高い夏の空気はぬるま湯で、廊下と教室を隔てる窓ガラスは水槽の壁だった。蝉の声や微かに聞こえて来る教諭の声が、水の中で聞こえるみたいに、なんだか現実味を帯びない遠いもののように感じられた。確かにそこには三十人の同級生と教諭が存在しているはずなのだけれど、なんだかそれと、僕がここに存在するという事象が、相互に何か作用しあうようには感じられない気分になったのだった。
 そうやっている内に、僕は気分が悪くなって、食べたばかりだった給食をもどした。牛乳を含んだゲロはとてつもなく臭く、鼻の奥がヒリヒリした。廊下側に近い席の児童が、数分後に異臭に気付き、教諭に指摘した。ガタガタガタ、という音が響いて、児童たちが椅子を引いて立ち上がる気配を感じた。それと同時に飛び出してきた教諭は、先ほどよりますます不機嫌になって大声で怒鳴った。
「何をやっているんです! 片付けなさい!」
 僕は自分の吐き出したゲロを一人で始末することになった。
 その日僕は帰宅して、父のパソコンを立ち上げて、ユニセフのサイトにアクセスした。その日、アフリカでは一万七千の子供が死んだと書かれていた。
 僕が魚を食べられずに戻したから、死んでしまったんだ。そう思いながら、画面に映し出されている、体の細い黒人の女の子と、暫く目を合わせていた。
「ひどいねー、その先生」
 僕の話を聞き終えたユリが、ベッドの上で寝返りを打った。リサイクルベッドで買ったそれはギシギシと情けなく音を立てた。その音で、僕の意識は小学三年生の過去から大学一年生の現実に引き戻された。
 僕のベッドに我が物顔で横たわりながら、デスクで勉強する僕をユリはにやにやしながら見つめている。妙に力強い口調に、今日は調子がいい日だ、と思った。長い髪が肩をさらさらと流れていた。毛先は明るい茶色だが、頭頂部の数センチは真っ黒だ。
「ひどいと思う?」
「ひどいよー! 廊下に立たせるのも、いやがる子に給食無理矢理食べさせるのも体罰だよー、犯罪だよー、訴えればよかったのに!」
「そんなことで訴えるわけないじゃん」
「なんでー? チキンかよ」
「その言い方の方がひどくない?」
「ぷっ」
 露骨に吹き出すまねをすると、ユリはもう一度寝返りを打った。
 なんでこんな昔のことを唐突に彼女に話してしまったんだろう。小学三年生と言えば、もう十年も前のことになるのだなあ、とぼんやりと思いながら、僕は手元に目線を戻して、やりかけの課題を再開しようとした。シャーペンを握ったと同時に、背後から生ぬるいものが襲いかかってきた。
「ねえねえ」
「なに?」
「かまってよー」
 ユリの細い左腕が延びてきて、僕の左のわき腹にぴたりと寄り添った。量販店で買った安っぽい生地のTシャツごしに、彼女の前腕部の、皮膚の不自然によれたり腫れたりしているのを感じた。利き手の方は僕の右腕の上をゆっくりと這った。そっちの皮膚はいつも通り白くて綺麗だ。滑らかな肌は僕のものよりほんの少しだけ冷たかった。細い指先が僕の右手からシャーペンを奪い去る。
「課題をやってるんだよ」
「あとでいいじゃん」
「だめだよ、明日締め切りなんだって」
「たっくんが、あたしと今してくれない方がだーめー」
 舌足らずにそう言いながら、ユリはシャーペンを床に放って、僕の左頬に手のひらを当てた。ゆっくりとそちらに体の向きを誘導されると同時に、ユリの左腕の凹凸がもう一度、僕のわき腹を擦れた。その感触を感じながら、ああ、今日はマジでだめな日だ、と思った。どうしようと思ったが既にユリの荒れた唇で言葉を紡ぐ余地を塞がれていた。そうされると自動的に僕の上唇と下唇の間に隙間が出来て、彼女の舌を受け入れる準備をするように、僕はしつけられている。彼女の両腕が僕の首に回った。それと同時に、しつけられた通り、僕の腕は自然と彼女のワンピースの、背中のジッパーに回りそうになって、しかしそこで一旦、理性がブレーキをかけた。自分の背後で僕の手が不自然に動きを止めたことに気付いたユリが、ゆっくりと唇を放した。
「……だめそう?」
「うん、ごめん」
 その途端、ゴン、と頭に衝撃が走った。額をぶつけられていた。それから、互いの鼻先がそっと触れあって、顔面に彼女の吐息がかかった。
「じゃあお詫びのちゅーをしてください」
 いつからか慣習になた言葉をささやかれ、僕は言われた通りに彼女の小さい唇に軽く自分のものを寄せる。僕は女性の容姿に関する観察力がおそらく極端に不足しているタイプの男で、目の前の人が化粧をしているのかすっぴんなのかを判断することができないけれど、ユリに関してだけは、唇の荒れがあるかどうかでそれを知ることができる。今日の彼女はすっぴんだ。多分周期的に、もう数日すると今度は彼女はどぎつく粉だのクリームだのを体中のあちこちに厚塗りするようになって、そういうときはものすごく元気で、僕が圧倒されているその数日後、突然連絡が取れなくなる。
「ちぇっ、課題でもして優等生ぶってろ!」
 冗談めかした口調でそう言うと彼女は軽い足取りで再び僕のベッドに戻って、横たわった。
 ユリは一週間の内だいたい三日ぐらいは僕の家にやって来て、その三回に二回はこういう顛末になる。もうそれが半年近く続いているから、こうなることで彼女が特別傷ついているわけではないのだろうと思っているが、でもやはりよくわからない。
 多分だけど、ユリは世の一般的な、彼女と同年代の女子に比べれば、それを求める頻度が高い方だと思うけど、僕も僕で、それに応えられないのは同年代の男子に比べてそういう欲がない方だからだと思う。周辺をよく探せば、彼女の病に理解があって、優しくて頼りがいがあって、彼女を満足させられる男がいるだろうに。僕にはユリがわからない。彼女はただ週に三回僕の家にやってくる。ただやってきて、好き勝手な言動をするだけだ。僕はあまり物を言わないから、彼女に関する情報は、聞いてもいないのに、やたらに元気なときの彼女が自らぺらぺらと吐き出したものだけだった。例えば、彼女はもともと両親と妹と四人暮らしだったけど、優秀な妹は去年東京の誰でも知っているような大学に進学したから今は三人暮らしだとか、中学校を卒業するまでは隣の県に住んでいたからあんまりこの土地っぽい訛りがないとか、先月に長い間飼っていた犬が死んだばかりだから今はよその家の犬を見るだけで悲しいとか、初体験は中学三年のとき、友達だった女の子の彼氏だったとか、そういう話だ。
「ひどい話だね」
 肉体的な苦痛を与えられたあげく、友達と思っていたクラスメイトが主導するいじめが始まったというエピソードを聞かされた時、僕はとりあえずそう言った。まだユリがうちに入り浸りになり始めの頃で、その時、妙に今日は喋るなあと思っていただけで、特に気にもとめていなかった。
「うへへ、たっくんてさぁ、なんかぁ、あんがい、ふつうのこと、いうねえ」
「普通?」
「ちょーふつーで、がっかりー。どうせ、そんなひどい男のことなんか俺が忘れさせてやるーって言うんでしょー。床ドンとかしちゃうんでしょー。きゃー」
「ゆかどん? いや、言わないけど……」
「言わんのかい!」
「えーっと、言ってほしいの?」
「もういいよーだ」
 その日が、僕がユリにちゃんと応えられた日だったのかよく覚えていない。夜が更けたらいつも通り布団で寝て、朝日が昇ったら二人で家を出た。大学に行き、講義を受け、僕は自分の家である学生用アパートの一室に、彼女も多分自分の実家に帰った。
 それから急に彼女からの連絡が途絶えて、一週間も連絡も家への来訪もないのは珍しいとふと思って、メールをしても返ってこず、それから、さすがにちょっと気になって、学部の生活アドバイザー担当の女性に話を聞いたら、彼女は一週間前に救急車で運ばれて、今は自宅療養中だという連絡が学生課に入った、と聞かされた。
「事故かなんかですか?」
「持病の発作と聞いているけど」
 ユリに持病があるというのを、その時僕は初めて知って、少し驚いた。そう言われてみれば時々顔色が悪いと思うことがあったし、夏が近づいて最近は随分と暑くなってきたというのに彼女はいつも長袖で、ベッドの上ですらそれを脱がないから、過剰な寒がりなのかな、などと思っていたことを思い出した。普通に生活をしているように見えたし、言動がかなり緩かったけど実は色々苦労しているのかもしれない、などと思いながら、少しだけ同情的な気分になって、もう一度メールをした。一日経ってから返信が返ってきた。今思えばその文面を見て彼女の持病ということになっているものが一体どういうものなのかおおよその見当がついたはずではなかったか、と思うが、結局そのときの僕にはつかなかったし、ついたとしてもあまり変わらなかったような気もする。
――おみまいいらないあしたがっこういく
――二時限目のドイツ語? 俺もだから駅まで迎えにいこうか?
 返事は来なかった。
 翌日、念のために彼女がいつも使っている路線の、大学の最寄り駅に寄ったが、彼女の姿はなく、講義の時間ぎりぎりになって僕はキャンパスに向かって走った。アスファルトの照り返しのきつい時期で、数分小走りしたけなのに随分と汗だくになった。正門の前にたどり着いたときは講義が始まる五分前だというのにそこそこ大勢の人が行き交っていた。黒いバンから細くて小柄な少女が降りてくるのが見えて、僕はそれに思わず駆け寄った。
「ユリ」
 名前を呼ぶと、薄手の白いシャツで覆われた小さい肩がふるえて、いつもにましてひどく白い顔がこちらを振り返った。いつも他人の顔のパーツなんて全く注視していないのに、その時のユリの唇がやけに紫に近い色をしていたのを鮮明に覚えている。それが動いて何かの言葉を紡ごうとしたのより先に、背後から肩を掴まれて、強い衝撃を左頬に受けて僕はあっという間に地面に転がされた。地面が焼けるように熱かった。
「二度と娘に近づくな!」
 僕の両親よりいくばか老けてみえる、なぜかスーツを着込んだ中年男性が、僕が起きあがるのを阻止するように馬乗りになって、もう一度頬に衝撃が走り、頭がくらくらした。周囲に大勢の人がいたから病院送りになるような事態になる前にことは収まった。それと同時に、ユリと僕がそういう関係であるという噂が次の日にはキャンパス中に広まった。
 僕と違って、ユリはある種の有名人だった。交友範囲が狭い僕でも、彼女の噂は入学直後から度々耳にしていた。尋常でない頻度で男をとっかえひっかえしているとか、頼めばいくらでもヤらせてくれるとか、そういう噂だった。物心ついたときには幼稚園や学校の教室の隅で目立たないようにする習慣が身についていた僕には、そんな派手な噂を立てられるような彼女は遠い世界の人だなあという印象だった。
 六月の終わり、基礎ゼミのメンバーでの飲み会があって、みんなが二次会に向かう中一人返ろうとした僕の後を、いつの間にかユリはつけていた。突然、アパートの前で声をかけられて水を一杯飲ませてくれと言われたとき、僕は悪酔いでもしたのかなと思って、一般的な親切心から彼女を家に上げた。その日がもし僕のが使いものにならない日だったら、彼女とはそれきりでこんな関係にならなかったのかもしれないけど、結果として、僕はその日、予定外の初体験を済ませた。
「あ、ちょっとまって」
 完全にユリの主導によって行われていた行為の最中に、僕はかろうじて抵抗し、一時中断を呼びかけた。
「そのままはまずいでしょ」
「大丈夫、安全日だよ」
「いやいや、だめでしょ」
 上に乗って今にも腰を沈めかけているユリを、僕はなんとか押しのけた。それから、リビングの絨毯の上からのろのろと立ち上がって隣の部屋へ行き、勉強机の一番上の引き出しに、なんとなく念のためにと保存していた一個を取り出した。いつの間にかついてきていたユリが、僕の背中にぴたりと張り付いた。僕は全裸で、彼女は半裸だった。上は手首まで袖のあるワイシャツ一枚を羽織ったままずっと行為をつづけていたのだけど、僕はその時、それが一般的なセックスのプレイスタイルなのかと思っていた。彼女のシャツの袖が僕のむき出しのわき腹をすっと通ったけど、その時は僕もなんだかんだ初めての行為に緊張していたのか、左腕にある無数の傷痕の気配を感じなかった。
「それ、彼女もいないのに、買ったの?」
「いや、これ、去年のエイズデーに高校で配られたやつ」
「なにそれ、マジで! 矢口くん、ほんと面白いね」
「そうかな」
「うん。ね、つけてあげよっか」
 言うやいなや、僕を振り向かせて持っていた物を奪い取ると、ユリは手慣れた手つきで袋を開けて取り出したそれを立ったまま僕の物に被せた。
「なんか……慣れてるね」
「やだもー、そういうこと、言う? フツー」
「え、あ、ごめん」
「あたしは矢口くんとしに来たんだから、他の男の話はしないで」
 思えば、そういう風に言われて、僕は付き合ってもいないよく知りもしない女をあっさり受け入れたんだから、その日に限って言えば僕の方がよっぽど頼めばヤらせてくれる男だったのかもしれない。ベッドの上で達した僕の耳元で、彼女は満足げにため息をついた。温かい吐息だと、ぼんやりと思った。
「また来て良い?」
 さすがに僕は呆然としていて、すぐに言葉もリアクションもできなかった。それを是と取ったのか知らないが、彼女は僕の唇に軽く口づけた。その唇が至近距離で幸せそうに笑みの形を作るのを、鳥目の僕は辛うじて確認した。
「ゴム、今度は、買っといてね。矢口くんチョイスで」
 それから彼女は定期的に僕の家へ押し掛けるようになり、矢口くんと呼んでいたのがたっくんと言う呼び方に変わり、彼女と、僕は、比較的高い頻度で僕が彼女に応えられないのだということを知った。
「亜鉛が足りてないらしいよ」
 スマート・フォンをいじりながら僕のベッドに寝転がって、彼女はある日唐突にそう言った。
「ふぅん?」
 僕が気のない返事をすると、彼女は頬を膨らませた。
 彼女は定期的に病院に入り、そこから出てきた後しばらく、熱心な健康オタクになる。太陽の光がでている間に活動的に屋外へ出て、一日三食、常識的な時間に食事をし、薬局においてあるチラシやインターネットのブログ記事で得た情報を盲信して変わり種の健康食品やサプリメントをはりきって摂取する。凝る時は手のひら一杯の錠剤を一気に飲むので見ていて毎回ぎょっとする。それでも、健康的な生活を求めているのはいいこいとなのではないかと思って僕は黙ってそれを見つめているが、気付いたらサプリメントだと思っていたそれが睡眠導入剤になっていたりして、救急車に運ばれる。
「まじめに聞いてよ! たっくんの話なんだから!」
「えっ僕の話だったの?」
「そうだよ、ほら、これ、みて」
 ユリは背後から、僕の首に右腕を巻き付け、スマホを持った左手を僕の眼前につきだした。その左手の、少しふさがりかけていた大きな傷に一瞬目がいって、それから、液晶画面に視線を向けた。
 「現代人に急増中の亜鉛欠乏症って、いったい何!?」というポップな見出しの下に、長い文章が続いていた。
「ここ、ここ」
 スマホを持ったまま、親指と人差し指で器用に画面を拡大させて、反対側の右手の人差し指が、「主な症状の一覧」の二行目を差した。
 「インポテンツ」とあった。
「あー。そうなんだ」
 間の抜けた声で相づちを打つ僕の頭頂部を、ユリがその小さな右手で掴んで、揺らした。
「牡蠣を食べるといいんだって書いてあるよー!」
「牡蠣かあ、確かにあんまり食べないねえ」
「牡蠣、嫌いなの?」
「いや、別にそういうわけじゃないけど」
 そこで突然、ユリは張り付いていた背中から体を放した。温い湿気がたまっていた空間にクーラーの冷気が通り過ぎて、少しだけ寒気がした。
「ごめん」
 かすれ声が背後からして、僕は慌てて振り返った。ユリがそんなに暗い声を出すことは滅多になかった。
「ごめん、たっくん。傷ついた?」
 ユリの視線は僕の顔ではない色んな場所を頼りなげにさまよっていた。数瞬思いを巡らせてから、僕は戸惑いがちに彼女の肩に手のひらをそっと当てた。それがびくりと揺れて、そんな風に小動物のような露骨な怯えを彼女が僕の前で見せたことがこれまでにあまりなかったのだということに唐突に気がついた。どうしてこのタイミングでそうなったのかはよくわからなかった。戸惑いがちに、潤んだ目が僕の目を見た。
「大丈夫だよ」
 彼女の、グロスがたっぷり塗られた唇が不安定に揺れ動いて、部屋の蛍光灯をわずかに反射して光った。何かを言おうとしたように見えたが、結局なんの声も漏れないので、僕はもう一度声をかけた。
「気にしてない」
 ユリの肩が軽く上下した。息を深く吸い込もうとしたのかもしれない。それから、青ざめた不安げな顔で、聞いてきた。
「なんで?」
「えっ?」
「あたしの言うこと、たっくんは気にならないってこと? あたしのこと、どうでもいいってこと? あたしが明日死んでもたっくんには関係ない?」
「待って、どうしてそうなるの」
 なだめようとするより先に、ユリが強い力で僕の腕を振り払った。
「帰る」
「待って、ユリ」
 立ち上がり、部屋の隅に放ってあった小さな鞄を乱暴に手に取ると、ユリは玄関に向かった。慌ててそれを追いかけて、ミュールを履くのに手間取っている背中に抱きついた。
「放してよ!」
「だめだよ、待って、ユリ。そんな状態で一人で歩かせられないよ」
「あたしのことなんかどうでも良い癖に!」
「そんなことないよ、心配なんだよ。帰っても良いから、それなら家まで送らせて」
 バランスを崩して転びそうになったユリの体をなんとか踏ん張って支えると、ユリが僕の左腕に両手でしがみつきながら、顔を僕の胸に埋めるような形になった。寝室以外の場所で彼女を抱きしめたのは初めてだった。
 Tシャツごしに、彼女の顔面の熱さを感じた。どうすればいいのかわからないまま、とりあえず背中を戸惑いがちにさすった。
 そのとき、それは永遠と勘違いするぐらい長い時間に思えたが、手のひらがしびれるぐらいさすり続けている内に、結局終わりは来た。泣き疲れた彼女と手をつないで、すっかり暮れてしまった町を歩いて、地下鉄に乗って、初めて歩く住宅街の坂を上った。たぶんだけど、市内でも高級住宅地と呼ばれるべきであろう場所だった。いつもおしゃべりばっかりのユリはその間一言も発さなかった。僕はその沈黙は別に苦ではなかったが、ユリはどうだったのだろうと、今でも時々思い返す。
「お父さんに見つかったらまた迷惑かけるから」
 とユリは言って、曲がり角で突然立ち止まった。散々声を上げて泣いた後だったからか、その声はひどくかすれていた。
「大丈夫……見つかっても平気だよ。ユリの方が心配だから」
「すぐそこだから。曲がり角曲がってすぐが家なの。もう大丈夫だから。送ってくれてありがとう」
 つないでいた手を、放そうとする気配があったので、僕は慌ててそれを強く引いた。
「ユリ」
 驚いたように目を丸くしている彼女の、長い髪を、つないでいない方の手で軽く撫でた。それから、前髪を軽く指先で分けて、額に軽く口づけた。そうするべきであるような気がした。だけどユリは更に驚いたように強ばった顔で目を見開いて、僕を突き飛ばし慌てて駆けだした。僕はよその家のブロック塀の陰からユリの後ろ姿を目で追った。ユリは一度もこちらを振り向かず、ドラマに出てきそうな白い鉄製の門を慣れた手つきで押し開け、緑に彩られた庭を駆けていった。大きい洋風の家だった。田舎の実家が分譲マンションである僕とは、なんだか違う階層の人なのかもしれない、とほんの少し思った。

 玄関の、呼び鈴が鳴った。電子音は、電池がなくなってきているのか前に聞いたときより不安定で低い音がノイズ混じりに聞こえた。滅多に鳴らないものなのだがそれでもすり減っていくものらしい。時刻は夜の十一時を回っていた。こんな時間に突然やってくる人間がいるとしたら、ユリしかいなかった。
 玄関の扉を開けると、わずかに開けた隙間から外の街頭の光と、十一月の冷気と、ユリが、倒れこむようにしてはいってきた。驚きながら慌てて手をさしのべて、かろうじて抱き留めた。彼女の背後で扉がガチャリと音を立てて閉まった。横着で電気をつけなかったせいで、視界が真っ暗になった。
「ユリ! 大丈夫?」
「んー、たぁーっくーん」
 ふらつきながらユリが立ち上がって、僕の首に両腕を回す気配がした。トレンチコートを着ているらしく、ごわごわした感触がした。裾がパタパタと乾いた音を立てている。顔が近い気配があったが未だ僕の目には何が起こっているのかはっきりと映らなかった。困惑しているうちに唇を奪われて、例によって反射的に唇を軽く開いて、その途端に何か冷たい液体が入ってきた。驚いて抵抗しようとしたが、唇は離れなかった。どうしようもなくて、仕方なく飲み干してから、それが何であるかを把握した。
「お酒じゃん、なにこれ、てか、ユリ、酒臭すぎ」
「んー、もう一口、あげよっかぁー」
「酔いすぎでしょ、水飲みなよ」
 首に絡みついている腕をふりほどこうとして、彼女が右手に何か結露した缶を持っていることに気付いた。これを飲まされたのか、と思った。奪い取って、そばにあったシューボックスの空になっている段に置いた。夜目が徐々に効いてきて、彼女の輪郭が真っ暗な中にうっすらと浮かんできた。
「やだぁーそれ、ユリのー」
「とりあえず靴脱いで」
 延びてきたユリの手を振り払うと、今度は腰に手を絡めてしがみついてきた。もはや彼女は自分の力で立つことも出来ないらしく、僕の腰に成人女性の一人分の全体重がかかってきた。重い。
「ちょ、ちょっと待って」
 慌ててジッパーに伸びてきた右手を捕まえて押しとどめた。彼女の手の甲は右も左もいつも白くて滑らかで小さい。一体どこで呑んで、どれぐらい外にいたのだろう。いつもの体温の違いではなく、外気によって冷やされたのだろうひどい指先の温度にぎょっとした。
「ここでそういうのは勘弁してよ、いくらなんでも」
 ユリが行為を要求してくるときはいつだって唐突で強引だったが、こんなことは一度もなかった。動揺を隠せないままそう言って密着した体を引きはがそうとする前に、ぽつりと酒臭いかすれ声が漏れた。
「しにたい」
 玄関は外に比べればそこまで寒くないのに、酒臭い空気を孕んでいた肺が急激に凍ったような気分になった。ユリからそんな直接的な言葉を聞くのは初めてだった。
 ユリが定期的に起こす騒動が、一般的に死を目指して行うものだというのはわかっていたけど、彼女が毎度毎度どういうつもりでそんなことをするのかなんて尋ねたこともなければ手前で勝手に想像をしたことすらなかった。うちの風呂場が血で染まったこともないし、僕は未だに1+1+9+通話ボタンを押すとどんな会話や手続きが行われるものなのかだって知らない。ユリはいつの間にか暫く音信不通になって、痩せて傷だらけになったあげく僕の前にしれっと姿を現す。それが日常なんだと思いかけていた。大病なんてしたことのなくて病院の薬品臭さが染みこんだリノリウムなんて数えるぐらいしか目にしたことのない僕に比べれば、たとえ毎回の出血や服薬が致死量とはほど遠かったのだとしても、本当は彼女はいつだって死に近いところにいるのだ。
「しにたい。何もかんがえたくない。わすれたい。しにたい」
「ユリ、だめだよ、そんなこと言っちゃ」
 反射的にそう言ってから、あまりよろしくない言葉だったかもしれないと考えて慌ててもう一度口を開いた。
「大丈夫だから、わかった、なにか、楽しいこと考えてさ、いやなこと忘れようよ」
 急に胸元を強く押された。情けなくよろめいて、それから、ようやく闇と同化した僕の目が、一瞬だけしっかりと両足で立っているユリの姿を捉えた。泣いているようには見えなかった。笑っているようには見えなかった。怒っているようにも見えなかった。
「たっくんには、わからないよ」
 すぐにまたユリの体はふらふらと揺れ始めた。抱き留めようとしたが勢いよく腕を振り回して抵抗される。
「ユリ」
「アフリカの子どもだって」
「えっ?」
「たっくんがおさかな、たべなかったからしんだなんて、おもってほしくないよ」
「えっ、何の話?」
 鈍い音がした。玄関のドアに背中をぶつけたようだった。
「うまれてこなければよかったんだよ」
「何言ってるの、そんなことない」
「しんじゃいたい」
 落ち着いた、というよりは力が入らなくなっている様子だったので、僕はゆっくりと警戒しながら、ずるずると地面に座り込みそうになっているユリに歩み寄った。今度はもう抵抗しなかった。厚手のコート越しに掴んでもなお、彼女の腕の細さを感じた。
「立てる?」
 ユリの目は僕の方を見ずに焦点の合ってない様子で不安定に彷徨っていた。問いかけに答えはなかったが、数秒してから身動ぎする様子があったので、僕はかがんで彼女の両脇の下に手を差し伸べた。
「掴まって」
 ものすごくゆっくりした速度で、ユリの両腕が僕の肩にしがみつこうとしている。力を添えてやって、立たせる。力が入らなくなったらしいユリは、痩せぎすな体型なのに、ずいぶん重く感じた。それでもなんとか立たせて、寝室まで連れて行く。
 横たわったユリは力なく視線をさまよわせるばかりで、ぴくりとも動かなくなった。薄暗い寝室で、立ち尽くし、呆然とその様を見下ろした。数秒考えた後、そっと彼女の口元に手をかざした。なま暖かい息が手のひらにかかって、彼女が生きていることを確認した。確認してから、その後どうすればいいのかわからず、その体制のまま固まっていると、おもむろに、ユリの右腕が伸びてきた。僕の腕を掴んだ、というよりは自分の腕をぶつけてくるような、乱暴な仕草だった。
「たっくんは」
 かすれた声でユリは問いかけてきた。
「たとえば、セックスができなかった夜、あたしが落ち込んだり、傷ついたりしたかもしれないって、考えたこと、ある?」
「……やっぱり、傷ついてたの?」
「ごめん」
 その謝罪が初め、僕の問いに対するユリの肯定の返事だと思って、フォローしなければと口を開きかけたが、それより先に、ユリが続けた。先ほどより落ち着いた様子で、淡々とした口調だったが、若干のろれつのまわらなさは残っていた。
「ごめんね、たっくん、もう二度と聞かないから、教えてほしい。たとえば、先月あたしが入院したとき、たっくんは、自分がインポだったからあたしが死のうとしたんだとか、思ったり、した?」
 ユリはじっと僕の目を見つめていて、それはユリが時折話し相手に対してする癖のようなものの一種だったはずなのだけど、僕はなんだか、これまでになく手のひらが汗ばむのを感じていた。ユリが入院しても、必ずいつかは帰ってくることが、僕にとっては日常になりすぎていて、すぐに答えが見つからなかった。
「最初の頃は――」
 ゆっくりと、言葉を選んだ。
「ちょっとは、考えた。その、セックスのことだけじゃなくて、僕が何かユリを傷つけたり追いつめたりしたんじゃないかとか、不安になったよ」
 じゃあ、今は? とでも聞かれるかと思ったが、そうはならなかった。
「あたしね」
 僕からようやく目をそらして、言葉を選ぶように数秒沈黙して、ユリは続けた。
「セックス、するの、好きじゃないの」
「えっ?」
 思いがけない告白に、さすがに仰天して声を上げた。ユリは笑うか、怒るかするかと思ったが、真顔のまま続けた。
「してると、その間だけは、いやなこと考えなくても良いし、してる間は、誰か、おとこの人にね、求められてる、あたし、存在しててもいいのかな、生きててもいいんじゃないって気になってくる。でもね、全部終わると急に、ものすごく死にたくなってくるの」
「……うん」
「まったく気持ちよくないわけじゃないけど。でもだいたいみんな、独りよがりなセックスして勝手に女に奉仕した気分になって、自分がイッたら相手を平気でぞんざいに扱う。その度に、ああ、あたしってなんて無価値な人間なんだろう、死んじゃえばいいのにって気になってる。毎回そうなるってわかってるのに、死にたくて全部忘れたくなったときに、誰か知ってる男の人のとこに行って、セックスしちゃうの」
「あの日も、そうだったの? 初めてうちに来た日」
「うん、多分そう……あんまり覚えてないけど。でも、した後のことは覚えてる。いつもみたいにひどく死にたい気分にならなかったの」
 困惑して、身じろぎをすると、僕の手を力なく掴んでいたユリの手がぼとりとベッドの上に落ちた。
「僕、別に、何もしてないよ」
「うん、そうだよ。そういうのって、理屈じゃないんだと思う」
 ユリが再び僕と目を合わせて、それから、何か言い掛けて、やめて、目を逸らして、それからもう一度、とても小さな声で、言った。
「あたし、たっくんのこと好きなんだと思う」
 それはため息混じりのとても小さな声だったけど、静まりかえった部屋の中では十分にはっきりと聞こえたし、力ないつぶやきのような言葉だったのに、僕の動きを束縛するのに十分な威力を持っていた。半年以上こんな風につきあいをしていて、ユリからそんな風に言われたことは一度もなかったし、僕からもそんなことは一度も言ったことがなかったのだということに、今更気付いた。どこかへ二人ででかけたときもなかったし、ベッドの上ですら、なかったのだ。そして僕の方は、そもそもそれを無意識のうちにずっと避けてきたのだということを、初めて自覚した。
「……僕、何もしてないよ」
「うん、そうだね。そういうのって、理屈じゃないんだと思う……」
 ユリは一旦言葉を切った。
「ほんとはね、たっくんが、たたなくてセックス出来ない日は、ほっとするんだ。セックスしなくて済んだって。だって、もし今日セックスして、いつのまにかたっくんが他の男たちとおんなじになってて、終わった後死にたくなっちゃったら、すごく辛いから。でも、やっぱり、出来ないと、寂しくなるの。出来ない日は、何もしないで、一緒のベッドで寝たりするでしょう。たっくんがすぐそばにいるのに、手をつなぐだけじゃ足りなくて、たっくんに触れたいし、触れてほしいし、一つになりたいって思う。そんなこと思ったこと、今まで一度もなかった。あたし、たっくんが好きなんだと思う」
「ユリ、僕は」
「言わないで、わかってるから」
 言い掛けた僕の言葉を遮った。再び目が合った。
「たっくんがたたないのは、たっくんの問題。あたしのことが好きじゃないこととは関係ないし、だからたっくんもあたしも気に病むことじゃないんだよ。アフリカの子どもが死ぬのが、たっくんのせいじゃないのと一緒だよ」
 唐突に蒸し返された話に、僕は面食らった。
「あたし、アフリカの子どもたちみたいに、死んだときに、たっくんに無関係なことと無理矢理結びつけて思い出してほしくない。全部忘れてほしい。何もかも」
「ユリ、そんな話」
「ごめんね、今まで無理ばっかりさせて」
 もう一度、ユリの腕が伸びてきた。
「もうここには来ないから、最後に一度だけ、たっくんとセックスがしたい」
 肘から手首までを、ユリの指が這った。それから、指が絡んだ。
「ユリ、酔っぱらってもう動けないでしょう」
「うん……お酒と、眠剤、飲んだ」
「大丈夫なの」
「これぐらいじゃ、死ねないの、わかっててやってるの」
「ユリがちゃんと、動けるときじゃないと、したくないよ」
「一晩寝たら、元気になるよ。そしたら、たっくんのも、元気になる?」
「わかんないけど、多分」
「じゃあ、今晩は、添い寝だけ、して」
 僕は何か言おうとして、でも何も言葉が見つからなくて、仕方なく頷いた。酒と薬のせいで体の自由が利かなくなっているユリに着たままだったコートを脱がせ、僕のパジャマに着替えさせるのは、なかなか骨が折れた。布団をかけて、そこに僕も入り込んで、部屋を真っ暗にした。玄関で触れ合ったときはずいぶんと体が冷えていると思ったが、今は、寄り添うと熱いぐらいの体温を、ユリがそこで生きているのだという証を、感じた。
 これまでにだってこんな風に何もせずにただベッドの中で並んだことはあるのに、なんだかユリが遠く感じられて、沈黙がこれまでになく苦で、僕は聞かれてもいないのにとりとめもない昔話を始めた。統計学の教授と相性が悪いのか最近いつもレポートが「可」の評価ばかりだとか、僕は文系だけど高校の時は結構化学も好きで得意だったとか、中学の時に一度だけ女の子に告白されたことがあるとか、そんな話だ。
「なんで断ったの?」
「だって、好きとか言われても、よくわかんなかったし。びっくりはしたけど」
「相手の子、泣いたりしなかった?」
「全然。その後、罰ゲームで告白されたんだってわかったんだ」
 ユリが、天上を見つめたまま、そっと指先を伸ばしてきて、僕らは目を合わせないまま軽く手を繋いだ。
「たっくん、そのとき、傷ついた?」
「どうかな、覚えてない。そうでもなかったかも」
「たっくんは、どういうときに、傷ついたり、胸が痛んだりするの」
「どんなときって、悲しくなったりすることは、よくあるよ?」
「それって例えば、高速で玉突き事故があって旅行帰りの家族が皆死んだニュースを見たときとか、遠い国の戦争孤児の写真とか見たときとか、そういう話でしょ」
 ユリの指先に力が入って、僕もそれに応えるように力を込めた。
「そうだね……もしかしたら、僕は、遠い国の戦争で見知らぬ子どもが苦しむのと、今この瞬間に身近な誰かに悪意を向けられるのと、同じぐらいの悲しみしか感じないように、無意識にコントロールしてるのかもしれない。全てのことから等分な距離を置くんだ。そうしたら、深く傷つくこともないし、世界中の人と繋がっていられるような気もしてくる」
「でも、地球上の七十億の他人は、たっくんを幸せにしてくれるの? そんなちょっとだけのつながりで、たっくんは孤独から解放されるの? 七十億人じゃなくて、たった一人か、二人かの、深いつながりの誰かは、必要ないの?」
「そういう人が、いる方が、むしろ――」
 言いかけて、口を噤んだ。言ってはいけないような気がした。絡めた二人の指先は同じ温度になっているのに、僕らの心は永遠に混じり合わないでお互いの心臓の上でとどまっている。
「たっくん」
 静かに、ユリが僕の名前を読呼んだ。
「眠たくなってきたよ」
「うん、おやすみ」
「またあしたね」
 それからお互い黙りこくって、やがて静かな寝息が聞こえてきた。規則正しいそれを聞いているうちに、僕もいつの間にかまどろんでいた。
 そして、カーテンの隙間から漏れてきた朝日の眩さで、僕が先に目を覚ました。僕は黙って、まだ眠っている彼女の横顔を眺めた。
 長い睫、少し丸い鼻、高い頬骨、小さい唇、白い肌、ユリは可愛いし、僕は彼女の容姿が嫌いじゃない。突拍子もない彼女の言葉に翻弄される会話も嫌いじゃない。誘われれば欲情することもあって、彼女の中でゴム越しに何度か精を放った。でもそれは彼女が僕に向けている「好き」とは違うのだ。彼女がそのことに気づいていることに、僕が気付かないぐらいには。だけど、明日から彼女がここには二度と来ないのだと思うと、ほんの少しだけ不安になる。いつの間にか、彼女はその他の七十億人とは別の存在になりつつあった。
「ん……おはよ」
 目が覚めたユリが、寝返りを打って僕と目を合わせ、ほほ笑んだ。僕は何か言おうとして、それから、黙って唇を寄せた。啄むように、軽く合わせ、ユリがそれに応えながらくすくすと笑った。繰り返すうちに、段々と、吸い付くように重ね、やがて、深く舌が混じり合う。腔内の隅々を舌で舐め回し、そのうちにどちらの唾液がどちらに流れ込んでいるのかもわからなかった。ユリの腕が僕のTシャツの中に入り込むのを感じて、僕の唇はゆっくりと彼女の首筋を這った。ため息が漏れる。猛烈に長い時間をかけて、僕は洪水を起こしているユリに自分を挿し入れた。僕が動くと、ユリは嬌声をあげてよがり、その度に中が締まった。
「たっくん、たっくん、たっくんが好きなの! たっくん、たっくん!」
 昨晩に初めて口にしたその言葉をなんども絶叫するユリと同時に、僕は達した。
 ユリが僕の家に来たのはそれが最後だった。

 秋が終わって雪が降り冬も終わって春が過ぎた。
 ユリは宣言通り僕の家には寄り付かなくなったし、無意味な雑談のメールを寄越さなくなった。大学構内ですれ違えば挨拶を交わす程度だ。
 梅雨入りが宣言されたばかりの昼下がり、突然にメールが来た。
『いいもの見つけたよ』というタイトルの隣に添付ファイルのマークがあるメールを開くと、サプリメントのパッケージの写真が現れた。本文はなかった。よく画像を見返すと、牡蠣の写真を背景に、「牡蠣一〇〇〇個分の亜鉛!」というポップなロゴが踊っていた。
『どうしたのこれ』
『あ、食いついたね。でもこれ、広島のSAのだからたっくんには買えないよー。お土産にあげよっか?』
『いや、いいよ。旅行してるんだ?』
『うん、彼氏と。牡蠣エキスいらないなら、燻製にする? おいしそうだよ』
 彼氏との旅行で、仮にも元カレにあたる男にお土産を買うのはいかがなものなのか、と思ったが、僕との関係がそうだったように、新しい恋人ともまた常識とは違う関係性で、相手はそういったことを気にしないのかもしれないし、でもやっぱりユリが無神経なだけかもしれない、などと考えているうちに、なんと返信すればいいのかわからなくなってそれきりになってしまった。
 それから五日後、午前の講義が終わると同時に、これまで一度も話したことのない女子が、急に僕のところに歩み寄ってきた。
「矢口くん、今日の、その、お通夜、矢口くんは、行く?」
「お通夜? 何の話?」
「えっ、ごめん、聞いてないんだ?」
 気の弱そうな女子がさらに戸惑いをあらわにして、所在なさげに視線を彷徨わせた。
「ごめん、矢口くんまだ、沢村さんと付き合ってたんだと思って、その」
「ユリ……沢村さん家で誰か亡くなったの?」
「あの……落ち着いて聞いてね。山陽道で高速バスが事故にあったニュースがあったでしょ。あれに、沢村さんが乗ってたらしいの。病院に運ばれたけど、昨日、亡くなったって」
「あー……」
 間抜けな声を漏らした僕を、気の毒がるように一瞥してから、口早にお通夜の日程と場所を告げ、彼女は立ち去った。
 彼女は誰なのだろう。ユリに学内の親しい友人がいるのかどうか、僕は知らなかった。だが頻繁に講義を休まざるを得なかった彼女が、誰からの助けも得ずにこれまでいくつかの単位を取れていたとは思えない。僕の知らないところで、彼女はそれなりに人とのつながりをちゃんと持っていたのだ。僕より先に彼女の死を知れる程度の親しさ。僕との関係がとうの昔に終わっていることを知らない程度の親しさ。
 廊下は混雑していた。騒がしい人混みの中をぼんやり歩いた。誰かと肩がぶつかった。背の大きな男だ。舌打ちが頭上から聞こえた気がしたが、すぐ騒音にかき消された。こんな一瞬のこと、きっとすぐに忘れてしまう。
 いつか死んでも、僕に自分のせいだと思われたくない、と言っていたユリを思い出した。乗っていた高速バスが偶然事故に巻き込まれるなんて、なんて完璧な死因だろう。仮に僕が今日お通夜に行ったとして、ユリの父親はお前のせいだなんて言って僕を殴ることはしないだろう。できるはずがない。どう考えても、隣県の高速道路で起きたスリップ事故を誰かのせいにするなんて不可能だ。あれだけ何度も自分で自分を痛めつけては入院して、結局は必ず帰ってきていたのに、全く違う形である日突然退院しなくなるなんてあまりに出来すぎた話だった。出来すぎた話すぎて実感がわかなかったし、今後、ユリはもういないという実感が湧いてくる気もしない。大学構内で彼女の姿をたまに見かけることもあったが、会わない日の方が多かったし、そうでなければ、ユリとの接点なんてもうなかったのだから、思えばあの最後に繋がった朝から、僕にとって彼女はいなかったのと同じなのかもしれない。
 喧騒が随分遠くから聞こえてくるような、奇妙な感覚になった。梅雨時の湿度の高い生ぬるい空気は藻のみっしり生えている小さな小さな池で、僕はその中の小さな小さなバクテリアみたいなものだ。この校舎の中にいる数千人の学生や職員とも、これまでに出会ってきた何百人という人々とも、地球の裏側のまだ見ぬ国々に生きる人とも、何の接点も感じられない。
 僕は、僕の亜鉛不足で、たった一人の人を殺してしまったから。
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