序章

トナシバ!


「あ」
 美冬は思わず声をもらした。
「坂本さん、おはよう」
 昨日まで、自分が座っているはずだった席に涼しい顔で着席しようとしている絵梨に、美冬は挨拶した。そうだ、昨日、テスト期間の終了と共に、席替えが行われたのだった。
「ああ、おはよう」
 小柄な美冬より5cmほど高い目線で見下ろされ、言われた。洗練された――クラスメイト達は冷たいとか鼻につくとか言うこともあるが、少なくとも美冬にはそう感じられる――立ち姿で、隙が無い。育ちの良さから来るものだ、と思った。
「席替えしたんだもんね。忘れてたから、びっくりしちゃった」
「そう」
 美冬の言葉をさらりと流しながら、教科書を机の中に入れている。
「……坂本さん、進路調査の紙、もう出した?」
「もらった次の日に出したけど」
「そっか」
 間髪入れずに即答する絵梨に、美冬は一瞬たじろいだ。美冬の鞄の中には、まだ白紙のままの進路希望調査の紙が入っている。提出期限は、明後日だ。だがまだ、記入欄を埋めかねている。
「坂本さん、やっぱり大学進学?」
「ええ、W大学へ」
 何の迷いも無い絵梨の口から、日本全国の殆どの人間が知っているであろう名門大学の名前が出た。しかも、目指している、などではなく、まるでもう行くのが決まっているような言い方だ。相応の自信があるのだろう。
「スポーツ推薦? 陸上の」
「まさか。普通に狙う」
「すごいなあ」
 2年生で、こんな事をさらりという絵梨に、美冬は内心閉口した。大した自信だ。それに、東京の私大を目指せるのだから、やはり経済的にも絵梨は恵まれた環境にある事を実感させられた。
「川口さんは、進学じゃないの?」
 質問攻めされた事を不審に思ったのか、今度は絵梨が美冬に聞いてきた。美冬の、鞄を持っていた右手に一瞬変な力が入る。
「う、うん、進学、だけど、まだ迷ってて」
「何を」
「お母さんはN短大行けっていうんだけど、先生には、4大薦められてて」
 N短大は、教養学部だけの女子短期大学で、美冬の自宅から通える場所にあるところだった。母親には就職率のよさからそこを薦められたが、美冬の授業の成績がまずまずであるのを評価してくれているクラス担任に4大を薦められると、優柔不断とわかっていても、若干惹かれてしまう。
 そういった経緯のせいで、美冬の進路調査書は未だ白紙のままだった。
「ふぅん」
 なんだか興味がなさそうに、絵梨は相槌を打った。一瞬、両方の眉毛が少しだけ上にあがったような気がした。馬鹿にされたかな、と美冬は思って、また体がこわばった。
 絵梨は容姿端麗、成績も優秀で、陸上部のエースだ。家もそれなりに裕福で、育ちがいい。しかし、自分に過剰な自信があって他人を見下しがちな側面があった。美冬は高校2年生になってしばらくから、ずっと絵梨を含んだ数人のグループで行動を共にする機会が多いが、何かある度に絵梨に馬鹿にされるのではないかとおびえていた。
「優柔不断、だよね、私」
「……そうね」
 今度は絵梨は、明らかに眉をひそめてそう言った。
 普通の女子同士の会話なら、気休めの否定とフォローするような言葉が挟まれるはずだ。しかし、絵梨はそういった「女子同士の付き合い」に必須の「表面上の言葉」をかけることは一切無い。
「優柔不断っていうか、川口さんてさ」
 そう、だから、常に彼女の言葉は「本音」なのだ。
「『自分』がないんじゃない?」

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