序章
トナシバ!
席替えの後の初めての授業日だった。
1つ判ったのは、隣の席の山崎邦夫は、かなり汗臭いという事だ。
確か、野球部だったろうか。グラウンドで何度か顔を見ているからなんとなく記憶している。テスト期間中は部活動を禁止されているから、久々の朝練で汗を大量にかいたのだろう。不快臭だ。
それを除けば、窓から離れていて直射日光が当たらないから暑すぎずまぶしすぎず、黒板は見やすく居心地の良い席だった。
静まり返った教室に、美冬が英語の教科書の長文を朗読している声が響く。英語を一番の得意科目としている絵梨の評価としては、なかなか滑らかで発音も正確だった。
美冬は決して勉強が出来ないわけではない。なのに短大進学の選択肢が出てきたという先ほどの話には少々驚いた。絵梨には考えられない事だった。
成績があるのなら、できるだけ偏差値の高い大学を目指すのが当たり前ではないか。迷う余地などあるはずがない。
指名されたクラス委員を引き受けて、誰かに頼みごとをされたら必ず引き受けて、何かをしている理由を聞いたら「誰それに言われたから」。
見ていて時折苛々する事があった。
気は優しくて、決して悪い女子ではない。
いつもつるんでいるグループの頭の悪い女子達の中では、比較的まともなのが美冬だと認識していた。
「よし、そこまででいいぞ、川口」
英語教師が、朗読していた美冬を止めると、名簿を見ながらすこしうなった。次は誰かが指名されて、美冬が読んだ英文を訳すよう言われるのだろう。
「青井、今の文、訳してみろ」
クラス中の予想通りだった。教室の前から二番目、真ん中の列の男子が立ち上がった。出席番号1番の青井健二だった。
背は中背ぐらいの痩せ型で、高校地区大会で1勝もできない弱小サッカー部の次期部長の男子だ。顔は特別崩れているわけではないが、特別整っているわけでもないと思う。成績はあまり芳しくなく、専門学校に進学すると1年の頃から公言していたはずだ。
とりわけ、惹かれる物がある男子ではない。というのが、絵梨の評価だ。
絵梨は、一瞬青井に向けた視線を、ゆっくり美冬の方に向けた。美冬の目は、青井に向かっている。普段どおりの目だと思った。ただ、「突然立ち上がった人」に注意が一瞬向いただけ、といった感じの。
それだけだ。
絵梨はその様子を一瞥すると、自分の教科書に目を落とし、青井の誤訳を3箇所確認した。
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