第一章

トナシバ!


「まずは、ゆっくりお休み下さいね」
 サリエに案内された部屋はやたらに広い寝室だった。学校の教室二つ分はありそうだ。天井も高く、落ち着かない。淡いワインレッドを基調にしたインテリアで統一されていた。調度品は皆やはり高級そうなものばかりだ。金色の窓枠に縁取られた外の風景は、薄暗い森だった。どんな木があるのかは、暗くて離れているためによくわからない。もうすぐ夜なのだと思った。元の美冬がいた世界は、こちらに来る前までは夕方だった。今頃は深夜だろうか。どうやらこちらの世界とは時差があるらしい。美冬の不安がまた増した。
「何かありましたら、こちらを鳴らして下さい。すぐに参りますので」
 サリエがそう言いながら、ベッドのサイドテーブルにあったベルを指した。小さな可愛らしいベルだった。サイドテーブルにはそれだけが置いてある。
「それでは、また明日お目覚めになったら参りますね」
 そう言うと、深々と頭を下げて、サリエは退室して行った。美冬は一人部屋に取り残された。
 部屋は暖かかったが、あまりにも広く、あまりにも孤独だった。美冬は身震いし、胸もとのセーラー服のタイを握り締めた。不安と恐怖に襲われた。泣きそうなのを、唇を噛んでこらえた。
 何も知らない異世界で、一人にされてしまった。恐ろしかった。
――青井くん
 美冬は、いつも不安になったり、くじけそうになった時に思い出す、クラスメイトの名前を心の中で強く呼んだ。
 小麦色に焼けた肌とか、美冬と違って二重でぱっちりとした目だとか、笑うと優しさがにじみ出る目元の皺とか、すっと伸びていて見ていて気持ち良い背中とか、思い出せる事は沢山あった。
 でも、声を思いだそうとした瞬間、ここに来る直前の記憶が呼び出された。
――坂本?
 生徒会室に急いでいた美冬の耳に、美冬ではない女子の名を呼ぶ青井の声が飛込んできた。
 プリントの山を持つ腕に、知らず力が入る。
 階段の踊り場に、振り向く少女の姿が目に入った。名前を呼ばれた、絵梨だった。
 健二の声はいつも柔らかい。優しく落ち着いている。あの声で名前を呼ばれると、さぞ胸が高鳴るだろうと、美冬はいつも恋焦がれていた。しかし、目の前で健二に呼ばれたのは美冬の名ではなく、絵梨だった。
 絵梨だった。
 絵梨の忘れ物を持っているという健二が階段をゆっくりと上がってくるのが見えた。階段の上にいる美冬からは、後姿しか見えない。健二の方へ、絵梨がゆっくりと歩み寄っていくのも見えた。階段の上にいる美冬には気づいていないらしい。
 長身の健二と、それより15cmほど低いだけの絵梨は、とてもバランスが取れていると思った。冷たい表情をしていても、絵梨はやはり美人だと思った。後ろ姿しか見えないが、そんな絵梨を見つめながら、健二は微笑んでいるに違いない。
 二人の会話が段々と耳から遠ざかっていくような錯覚に陥った。聞こえないように見えない手で耳をふさいでいるせいだ。
 身じろぎをした瞬間、腕からから一枚、抱えていたプリントが落ちた。
 放課後の廊下は人がいないから、物音がやたらと響く。
 紙の風を切る音が、やたらと大きく感じられた。その瞬間、絵梨が驚いたようにこちらを見上げた。健二はもういなくなっていた。
「かわぐ……」
 戸惑いの表情をかすかに浮かべた絵梨が、美冬を呼ぼうとした。
 美冬は泣きたくなった。今は、絵梨の声など聞きたくなかった。姿も、目に入れたくなかった。
「坂本さん」
 名前を呼ぶことで、それ以上を遮った。逃げ出そうと思った。
 しかし、次の瞬間、美冬は仰天してしまった。
 美冬の元へ行こうとでもしたのだろうか。階段を踏み出そうとした絵梨の体が、大きく傾いた。
「あぶな……!」
 慌てて、駆け寄ろうとした、その時、美冬自身の視野も大きく傾いだ。自分も足元を踏み外したのだと思ったのと、目の前がいきなり暗転したのは、同時だった。

――そうだ。
 その後、いきなりこの世界に来ていた。
 絵梨は一体あの後どうなったのだろう。階段の丁度真ん中にいたから、落ちていても打ち所が悪くなければ無事だろうが……
――坂本さん。
 心配ではあったが、絵梨の事を思い出して、胸が痛くなった。
 もう、あの二人のツーショットは見たくない、と思った。
 そうだ、いつも彼女は自分の憧憬の対象であると同時に、羨望する相手でもあった。
 彼女のようになりたいと思いながら、なれない自分に苛立ってもいた。
――坂本さんだったら。
 もし絵梨だったら、この状況に陥ったらどうするだろう。
 考えてみた。
 まず、あの3人の突然の申し出に、言いなりになったりはしないだろう。元の世界に戻る手立てを考えて、戦うかもしれない。
 でも、しばらくは元に戻れない、と言われたら?
 依頼の通りに、王女の身代わりになったりするだろうか。
 身代わり、なんて。
 絵梨がそんな事をするようには、なんとなく美冬には思えなかった。
――でも、坂本さんだったら。
 絵梨だったら、美冬とは違って、王女なんて高貴な身分になりすますのは造作もないことに思えた。
 元々育ちの良い少女であったし、プライドが高くてお嬢様育ちだと陰口を叩かれることがあったのは知っている。
 でも、その欠点になる危険を持っていた絵梨の一面だって、王女になってしまえば長所になるかもしれない。
 絵梨ならば、何の問題もない。
 情けなさと悔しさが、急にこみ上げてきた。
 また涙が出てきそうで、美冬は唇を噛んだ。
 絵梨がどうしたというのだ。今、この状況に立たされているのは自分だ。決断を迫られているのも自分だ。ここには、自分しかいないのだ。元の世界の誰かと自分を比べても、その相手を知っているのは自分だけだし、それに一喜一憂しても仕方がない。
――そうだよ、坂本さんは、関係ない。
 選ぶ道は、一つしかない気がした。

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