第二章

トナシバ!


 突然した第三者の声に驚いて、絵梨は思わず振り返った。そこには、ぼろぼろのTシャツとズボンを履いた、長身の男が立っていた。年齢は、20歳前後だろうか。
 綺麗な顔立ちをした男だと、絵梨は思った。しかし、服装がみすぼらしい上に、髪はぼさぼさである。
「負けじゃない! ちょっとつまずいただけだ! 足の速さなら同じぐらいだ!」
 少年は相変わらずばたばたと絵梨の下で叫びながら暴れた。
「負けは負けだ」
 静かな声で男は少年の言葉を一蹴した。
「ちきしょー、わかったよ」
 拗ねたような声で、少年は握っていた絵梨の鞄を手放した。一瞬呆然としていた絵梨だが、どうやら鞄が自分の手元に戻ったらしい事に気が付くと、慌ててそれを手にとって抱きしめた。きつく、きつく。
「どけよ! 返したんだからよ!」
 次の言葉は、絵梨に向けたもののようだった。苦しそうに顔を振り上げて少年が絵梨の方を見ながら怒鳴る。しかし、絵梨はここで少年を自由にする事にためらいを覚えた。突然絵梨の背後に現れた青年は、絵梨の下敷きになっている少年の仲間のようだった。仔細はわからないが、突然絵梨の持ち物を奪って逃げるような少年とその仲間だ。あまり心を許して良い相手だとは思えなかった。それならば、少年をすぐに解放してしまうのは、自分の身も危険にさらす可能性があるような気がしてならない。
 抱きしめていた鞄をさらにきゅっと強く抱きしめると、絵梨は少年を下敷きにしたまま、後から現れた青年の方に向き直った。
 できるだけきつく睨んだ。負けない。絶対に負けるもんか。
「なんなの、あなた達。誰なの。なんで私の鞄を盗ったりしたの」
「――ん?」
 青年は表情ひとつ変えずに、冷静に絵梨を見つめている。聞き返すようにのどを鳴らしただけだった。答えたのは、絵梨の下にいる少年だ。
「お前が! へんてこな格好をしてぼけーっとして突っ立ってるからいけねぇんだろ! この街であんな隙だらけだったら盗られて当然だろ! どけよ!」
 大声で叫んで暴れる少年に、絵梨はむかむかと込み上げてくる怒りを覚えた。
 ぼけっと突っ立っているも何も、絵梨は気づいたら見知らぬ場所にやってきていて、どうしようもなかったのだ。その上、状況を把握する暇すら与えられずに、自分の唯一の持ち物を奪われた。それを当然だとこの少年が言うのだ。
「人の物を盗って、当然って何! そんな汚い事をして、平然としているなんて信じられない!」
 絵梨は少年に怒鳴りつけた。全力で怒鳴りつけた。最後の言葉が、段々と震えてきた。わけのわからないこの状況に、再び恐怖が湧いてきた。
「この街って、何! ここ、どこなの? 私、なんでこんなとこにいるの」
 目が潤んで来たのを感じた。嫌だ。泣きたくない。負けるもんか。負けるもんか。
「ふぅん」
 絵梨の言葉の最後に重ねるようにして、青年が声を発した。
「見たことのない格好をしているし、この街の人間じゃないみたいだな、あんた。訳ありみたいだ」
「そうだよ、なんだよその変な格好!」
 少年が青年の言葉に続ける。
「変な格好じゃない!」
 とにかくこの少年の言葉は絵梨の神経を逆撫でする。絵梨はとりあえず怒鳴り返した。
「あなたたちの方がよっぽど、ぼろぼろの、変な格好じゃない!」
「んだと、くっそぅ!」
 少年が再び暴れた。
 そこで、ずっと無表情だった青年が、ぷっと吹き出した。腕を組んだまま、笑い出す。
「笑ってんじゃねーよ、リト! 馬鹿にされたんだぜ!」
「面白いな、あんた」
 少年ではなく、絵梨の方に、笑顔を向けながら、青年は言った。
「そんなに怖がらなくたっていい、別に取って食ったりなんかしない」
「こ、怖がってなんかない!」
 自分の恐怖を悟られた事に、絵梨は動揺しつつ、青年を睨みつけて言い返した。しかし、青年は動じない。
「話を聞こうじゃないか。困ってるみたいだしな。俺はリト。この街の事ならなんでも知ってるぜ。そっちはコウだ」
「おい、なんなんだよ、リト!」
 少年が抗議しようとしたが、青年は黙殺した。
「あんた、名前は?」
 絵梨は、青年の目をじっと見つめた。顔はずっと、怒り顔のままだった。まだ絵梨の警戒心は解けない。当たり前だ。ただ、この状況下で少しでも事情を把握できる手がかりがあるのなら、すがりたい気持ちもあった。
 たっぷり30秒は沈黙してから、意を決して、絵梨は口を開いた。
「絵梨。坂本絵梨」
 ようやく名乗った絵梨に、青年はにっこりと微笑んだ。
「エリか。変わった名前だな」
 青年はぼろぼろのTシャツにぼろぼろのズボンにぼろぼろの靴を履き、腕は汚れて髪もぼさぼさだったが、綺麗な顔立ちが笑顔を作ると、極上だった。

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