第二章

トナシバ!


「……い、おい。大丈夫か?」
 突然、視界が一段階暗くなった。すぐ隣でリトの声がする。絵梨は我に返った。我に返ったことで、一瞬放心状態になっていた事に気づいた。心配したのか、リトが立ち上がって絵梨の側に来て、顔を覗き込んでいる。太陽の光がリトの体で遮られて、裏路地が余計に薄暗く見える。
「だ、大丈夫よ」
 無遠慮に顔を覗き込まれて、絵梨は内心動揺した。リトぐらいの年齢の年上の男性に、これぐらい接近されたことは、今までなかった。
「そうか」
 リトの表情が少し緩んだ。その微笑に、絵梨は少しどぎまぎする。しかし、さっきから鳴り止まない動悸は、別の理由からだった。
「私」
 声が少し震える。震えるな。この恐怖と動揺を、他人に悟られたくない。
「どうやったら、元の世界に帰れるの」
 何があっても気高くいたい。自分は特別なのだから。
 しかし、口にしてみた言葉が自分の耳に届くと、そのあまりの情けなさに、絵梨は悔しくなった。まるで、泣き言みたいな言葉だと思った。自分の不安が言葉に、声音に、にじみ出ている。
「うーん」
 絵梨の顔を覗き込んでいたリトが、うなりながら視線を一瞬外して、その場に座り込んだ。
「俺らは、魔法についてはほとんど何も知らないからなあ」
「……」
 要は、リト達からは、これ以上何も手がかりは得られそうにない、ということだ。絵梨は落胆し、更なる不安が募った。
 どうすればいいのだろう。
 この、まったく見知らぬ、勝手のわからぬ世界で、これから情報を集め、自分の状況を把握し、元の世界に戻る方法を探さねばなるまい。
 あまりに手がかりのないスタートだ。
「まあ、よくわからないが」
 黙っている絵梨に、リトが話しかけた。
「ここの街の人間に呼び寄せられたんなら、その魔法使いもあんたの事を探してるんじゃないのか? しばらく様子を見てみるのも、手だと思うけどな」
「そう……なの?」
 もはや、「魔法」が絡んでいる時点で、絵梨にはこれからどうすべきなのか全く思いつかなかった。リトの提案には少し納得できるところがあって、安心した。
 しかし。
「しばらくって……どれくらい?」
「さぁなあ」
「その間、私どうすればいいのかしら」
 その答えが、リト達から得られると思ったわけではなかった。ただ、不安が言葉になって口をついて出ただけだった。リトが再び、うーん、とうなった。
「どうしようもないよなぁ。まあ、俺達と一緒に行動するっていうなら、寝床ぐらい用意してやれるが」
「おい、リト、俺は反対だぜ」
 しばらく黙って二人の話を聞いていたコウが、突然不機嫌そうに口を挟んだ。
「こんな女とつるむなんてごめんだぜ」
 絵梨は黙って、挑戦的な態度のコウに一瞬目をやり、そのままリトに視線を戻した。
 二人とも、泥で汚れた、汚く綻びた服を着ていた。絵梨の元いた世界でいう、Tシャツとジーンズに似た服装だ。髪は手入れされておらず、顔も少し汚れている。どう見ても、身分の高い人間には見えない。
「あなた達って」
 絵梨はさっきから気になっていた事を口にした。半分答えはわかっているが、あまり確信したくないことだった。
「一体、どうやって生活してるの?」
 リトが一瞬、だまって絵梨の瞳を覗いた。答えはすぐに返ってきた。
「野良だっていったろう。てきとうに、その辺の人間や店から必要なものを頂戴して生きてる」
「それって」
 絵梨はめまいがするのを感じた。窃盗や万引きをして生活している、ということか。最初に、コウが絵梨の鞄をひったくって平然としていたのにも合点がいく。アメリカの治安の悪い街や、アジアなんかで社会問題になっている、ストリートチルドレン、というやつに似た立場だろうか。
 冗談ではない、と思った。
 絵梨の常識では絶対に許せない生き方だ。どんなに落ちぶれても、そんな行為に手を染めたくはない。汚らわしい。絵梨は犯罪行為などしたくないし、そんな事を生業にしている連中とつるむのすら、寒気がする。
「ありえないわ」
 思わず、そんな言葉が出た。
「人のものを盗って、それで生活するなんて、信じられない。私、あなた達と一緒にいるなんて、お断りだわ」
 言うや否や、絵梨は立ち上がった。そうだ、一刻も早くこの二人から遠ざかりたい。
 絵梨の言葉にかちんときたらしいコウが、声を荒げた。
「んだと、お前、ほんと腹立つ! 何様のつもりだよ」
「コウ」
 リトがそれを制した。絵梨に貶されたにも関わらず、落ち着いた態度のままだ。コウに向けていた顔を、再び絵梨に向けて戻した。
「それなら、好きにすればいいさ。何か俺らに用があったら、またこの辺の路地に来ればいい。大体はこのあたりをうろついてるからな」
「結構よ。二度と会わないと思うわ」
 立ち上がった絵梨は、リトを見下ろすような格好になっていた。リトはなぜか余裕の笑みすら浮かべている。むかむかしてきて、絵梨は二人に背を向けると、表の道に向かって歩き出した。コウから奪い返した鞄をしっかりと抱きしめて。


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