第二章

トナシバ!


 日陰になって少し薄暗い裏路地を歩きながら、これからどうしたものか、と考えた。
 リトの言うとおり、自分をこちらの世界に呼び寄せたものがいるのだとしたら、その人が絵梨を探しに来るのを待つのが賢明な判断かもしれない。
 しかし、それはいつになるのだろうか。すぐにその人はやってくるのだろうか? それともしばらく待たされるのか? 皆目検討もつかない。その間、絵梨はどうすればいいのだろうか。自分を探している人を待つのだから、あまりうろちょろと動き回らない方がいいような気がした。しかし、身を寄せる場所も、頼れる人もいない。寝床もないし、どうやって食べ物を手に入れればいいのかもわからない。
――だからって、リトたちのような生き方だけは絶対に出来ない。
 さっき仲間に誘われたときの屈辱感を思い出して、絵梨は静かに唇をかみ締めた。
 2、3分は歩いた。もう数メートルで大通り、というところまで来て、一旦立ち止まる。開けた明るい大通りには大勢の人が行き来していた。ここは今までの自分の常識が通じない世界。油断をすれば先ほどのようにまた窃盗の被害に遭うかもしれない。
 一度息をゆっくり吐き出すと、辺りを見回した。リト達と別れた場所からは一本道だったが、絵梨が歩いている間に二人はどこかへ立ち去ったらしい。裏路地に人影はなかった。
 一旦壁に背をおしつけ、絵梨はその場に座り込んだ。
 今絵梨が持っているのは、先ほどコウから取り返した学生鞄ひとつだった。下校前に体操着と弁当箱も持っていたのだが、忘れ物を取りに行くちょっとの間、と思い、下足箱の側に置いていたのだ。
 鞄を開けた。
 筆記用具。教科書。ノート。電子辞書。携帯電話。バスの定期券と生徒手帳に、財布。
 絵梨は携帯電話を手にとってみた。あまりクラスメイトと頻繁に電話やメールをするタイプではなかったが、それでも高校入学と同時に親に買ってもらった携帯は毎日学校に持ってきていた。
 開いても待ち受け画面は真っ暗だった。電源ボタンを長押ししても無反応である。昨夜充電したばかりだったので、ここに来る前に電池がなくなっていたという事はありえない。
――これも異世界に来た影響なのかしら。
 ためしに電子辞書も手にとって見る。やはり電源が入らない。
 不安が押し寄せてきて、ほんの少し早まる鼓動を追い払うため、絵梨はもう一度息をついた。
 筆記具は使える事を確認し、定期券や生徒手帳が役に立つことはなさそうだと思いながら、絵梨は財布を開いた。
 保険証と、学校帰りにたまによる店のカードと、現金が少し入っていた。紙幣がこの世界で通用することはなさそうだが、硬貨はどうだろうか。いくつかの100円玉はたまたま新しいものだったらしく、綺麗に光っている。貨幣そのものとしての価値は同じではないが、合金として何らかの価値を発揮するかもしれない。
 全ての持ち物の確認が終わると、絵梨は立ち上がり、再び歩き始めた。
 表の通りに出ると、視界が一気に明るくなり、絵梨は思わず目を細めた。太陽の光で辺りがほんのりオレンジ色に染まっている。もうすぐ夕方らしい。ここに来る直前は、既にもうすぐ日が落ちるという時間帯だったはずだ。元の世界とこちらでは、時間も少しだけずれているのかもしれない。
 とりあえずは、今夜眠れる寝床が欲しかった。気温は暖かいのだが、野宿をするのには厳しいだろう。それに、一瞬でも油断をすれば引ったくりに遭う、そんな治安の町でそれは危険すぎる。
 宿はないのだろうか。
 そう思ってあたりを見回してみると同時、絵梨は急激に居心地の悪さを感じた。
 街は人という人でごったがえしている。非常ににぎやかだ。
 その人、人、人が、絵梨の方に注目しながら歩いたり、あるいはぶしつけに立ち止まって絵梨の事をじろじろと見つめていた。不審そうな目で。
 絵梨は鞄をぎゅっと抱きしめた。人に注目されるのは慣れている。学校で、表彰台やステージの上に上がった経験が何度もあるからだ。しかし、そういったときの注目のされ方と、今は明らかに違った。
 絵梨は、コウが絵梨の制服姿を「へんてこな格好」と貶したのを思い出した。そうだ、この街の人々は、中世のヨーロッパを彷彿させる、時代錯誤な、絵梨には見慣れない格好をしている。逆に言えば、彼らからすれば、絵梨の格好が「見慣れない」という事だ。
 好奇の視線にさらされて、絵梨はその場にとどまっているのが辛くなった。しかし、しばらくはこの街で絵梨は過ごさなければいけないのだ。この程度のことには慣れなければなるまい。
 自分にそう言い聞かせると、絵梨は自分を注目している人々をしっかりと見回してから、宿屋を探すために街を歩いてみることにした。

 宿屋はすぐに見つかった。旅人らしき格好をした人が頻繁に出入りしている建物を見つけ、勇気を出してその建物の中に入り、主人らしき人間に話しかけたのだった。
「――あの」
 カウンターに無愛想に突っ立っている中年男性に、絵梨は声をかけた。
「あん?」
「ここは、宿屋ですか?」
「そうだが、なんだね」
 街の人々と相違なく、この中年男性も絵梨の格好をじろじろと眺め、怪訝な顔をした。絵梨はその視線は気にしないように心がけた。
「泊めてもらえませんか」
「――金はあるのかね」
 眉根を顰めて男性は絵梨の顔を覗き込んだ。居心地の悪さを覚えながら、絵梨は一か八か、財布の中から、持っている硬貨を1枚ずつ出した。
 500円玉、100円玉、10円玉、5円玉、1円玉。
「この国の硬貨は持っていませんが、これで代わりにはなりませんか?」
 男性は絵梨から5枚の硬貨に視線を移したが、すぐに絵梨に向き直り、そして、馬鹿にするように鼻で笑った。
「なんだこのおもちゃみてえのは。金がない奴に止まらせる部屋はないよ。とっとと出てきな」
 さきほどよりも大声、その部屋にいる全ての人間にも聞かせるかのように、男は言い放った。あまりに冷たい言い方に、絵梨は一瞬ひるみ、返す言葉をとっさに見つけられなかった。
「さっさと出ていきな!」
 もう一度、今度は怒鳴られるように言うと、男はカウンターの上に並べた硬貨を払い落とす。絵梨は慌ててそれを拾い、そのまま店を後にした。


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