第二章

トナシバ!


 全身が強張っていた。震える。目を閉じて、何も見えない。恐怖のあまり、意識が遠くなる。その瞬間、突然、ばしゃあ、と、ある種間抜けにも思える、水の音が、辺りに響いた。
「?!」
「うわ、なんだ?!」
 男達の動揺した声が当たりに響いた。絵梨は目を開けた。絵梨の真正面にいた男がずぶ濡れになっている。と、その時。
「へっへーん、エロ野郎ども、すっげぇマヌケ面してやんの!」
 聞き覚えのある、少年の声が路地に響いた。路地、というより、頭上からか。男達は目を吊り上げて真上を睨み付ける。誰の声だろう、と絵梨は一瞬考えるが、その思考は次に別の方向から響いてきた声によって遮られた。
「エリ、走れ!」
 鋭い声、明確な命令、明瞭に呼ばれた自分の名前――絵梨の頭は一気にクリアになった。男達は今頭上からした少年の声――恐らく、彼が男達にいきなり水を浴びせたのだろう――に意識が完全に向いている。逃げ出すチャンスは今しかなかった。それは、ホイッスルだった。絵梨は地面を力強く蹴り、声のした表通りの方へ駆け出した。薄暗い路地裏で、新しい人影が絵梨の視界にはっきりと飛び込んできた。
「こっちだ!」
 リトは叫ぶと、走り出した。絵梨はその背中を追いかける。表通りに出ると、人はさっきよりも更にまばらになっていた。裏路地の出口で待ち構えていたリトが絵梨の手を取って、掴んだ。絵梨は一瞬、異性に手を握られるという慣れない状況に動揺を隠せなかったが、リトは構わず手を強く引いた。
「逃げるぞ」
 再び走り出したリトにつられて、絵梨も走り出す。今日は、走ってばかりだと思った。

 昼間、コウを追いかけて全力疾走した時ほどの距離は走っていないはずなのに、絵梨の息はいつの間にか上がってきた。足に気だるさとわずかな痛みが走り始める。何度目かの角を曲がったとき、走るスピードを緩めてリトが振り返った。
「大丈夫か?」
 目が、会った。はじめてあったときから、リトの目には落ち着きと優しさがほんの少しにじみ出ている。絵梨はその問いかけではじめて、自分がこの一日の一連の出来事で心身ともに疲労を覚えていることを自覚した。
「平気」
 それだけ言うが、わずかに上がった息は隠し切れなかった。リトは走る足を歩みに変えて、裏路地に入った。
「ここまで来れば、大丈夫だろう」
 そう言うと、リトは掴んでいた絵梨の手を不意に開放した。急に喪失したぬくもりに、絵梨は一瞬、言いようのない心細さを感じたが、そんな自分に動揺と、嫌悪のようなものも感じ、頭を振って黙ってリトの背中に続いた。
 路地を抜けると、建物の壁に囲まれた、小さな広間のような場所に出た。月の光が裏路地よりも多く入り込んできて、明るい。広間の隅には、いくつか、木製の巨大な箱などが積み重ねてあった。絵梨が不安げに隅々まで観察していると、木箱の陰から急に人影が現れた。
「おー、リト、戻ったのか」
 絵梨と丁度同じ位の年頃の少年だった。絵梨の世界の基準で行けば、長髪の部類に入るだろう、ぼさぼさの乱れた髪で、薄汚れた服装はリトたちの物とほぼ同じだった。あどけない顔立ちをしており、身長は絵梨よりやや高いか、といった程度だ。
「ん? どうした、女なんか連れて」
 驚いたような顔をして、少年は絵梨の方を見つめる。リトが絵梨の方に一瞬目をやってから、少年の方に向き直った。
「さっきファイの奴らが絡んでたんでな、追い払ってきた」
 その言葉に、一瞬絵梨の背筋に寒気が走った。無我夢中で駆けている間は忘れていたが、自分はリト達が現れなければ、どんな目に遭っていたか――絵梨は無意識のうちに、自分で自分の体を抱きしめるようにして固まった。うつむき加減になった絵梨の耳に、呑気そうな少年の声が飛び込んできた。
「まぁたあいつらか、俺らのシマで、勝手なことしやがってよぉ」
「今コウが相手をしてる」
「ふぅん。姉ちゃんも、災難に遭ったみたいだなぁ」
 そういう少年と目がばっちり会って、絵梨はそれが自分を気遣った言葉だとわかり、答えに窮した。災難、と表現しておきながら、少年はあくまで飄々と、特に大きな感情を抱いていない様子である。
「パクだ。俺達の仲間の一人だ」
 リトが、そう言った。少年の事を、絵梨に紹介してくれたようだった。そのまま、リトが少年の方に向き直る。
「エリだ。色々わけありでな、遠いところから来たらしい」
「ふぅーん、確かに、この辺じゃ見ない格好してるもんなぁ」
 そういいながら、パクは絵梨の制服姿をものめずらしそうに眺めまわしている。絵梨は居心地の悪さを覚え、パクの方をにらみつけた。パクは、全然気付いていない。
「エリ」
 リトが声をかけた。
「さっきみたいなことは、俺らの縄張りじゃ滅多にはないはずなんだが、ああいう事があると、一人で夜を過ごすのは不安だろう」
 問いかけというよりは、確認するような物言いだった。絵梨は黙るしかなかった。確かに、今の一件で、野宿がかなり危険であることを思い知った。しかし、リト達の前でそんな泣き言を言ったところで、どうなるというのだ。絵梨の反応を待たずに、リトが続けた。
「今夜は、ここで休んでいったらどうだ?」
「――え?」
 その申し出に、絵梨は思わず眉を顰めて聞き返した。ここ、とは、この広間のことか。屋根もない、石畳一面の、屋外である。ここで寝るとは、野宿と同義ではないのか。
「屋根はないけど、一応寝袋のようなものは用意できる。離れたところで俺達が見張りをするから、安心して寝てくれていい」
 結局は、仲間への勧誘なのか。一度断ったというのに。絵梨は答えあぐねていた。なんとなくパクの方にも視線をやった。二人ともやはり品のよい存在には思えなかった。まだ彼らと行動を共にする、というのには抵抗があるのは事実だった。しかしこの申し出を無下にするのにもためらいが生じた。
 一瞬自分に向けられた視線についてパクは何か勘違いしたようで、気前のよさそうな笑みを浮かべて口を開いた。
「俺は別に構わないぜ。リトが良いって言うんなら、歓迎する」
 別にあなたに許可を求めたわけじゃない、と心の中で突っ込みながら、絵梨は尚もなんと言い出すかについて考えていた。そんな絵梨の心中を察しているのか、リトは更に続けた。
「別に、今後もずっと一緒にいろって言ってるわけじゃない。今夜はここで過ごすのが一番良い手じゃないか? さすがに、今日は疲れただろう」
 その最後の一言は、絵梨に決断を促すものとなった。言われたとおり、心身共に疲れきっていた。過度の疲労感は、プライドを抑えるほどまで膨れ上がっていた。
 絵梨は、リトの申し出を受け入れる事に、決めた。

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