第二章

トナシバ!


 絵梨は眠れないで何度か寝返りを打った。決して柔らかいとはいえない薄い布で出来た寝袋のようなものは、大きさとしては十分であったが、どこか窮屈に感じられた。それでも夜特有の冷気にさらされることを思えば、まだ防寒になるありがたい存在だ。
 空を見上げた。建物と建物の合間から見上げる空は狭い。先ほどまで出ていた月は位置を変えて建物の影に隠れてしまったので、あたりはまた少し暗くなった。星は綺麗だった。現代の都会は空気が汚れていて、星がくすんで見えるなどと言うが、この沢山の星々がはっきりと見える夜空を見ると、その話もあながち嘘ではないのかな、と思う。
――でも、ここは地球じゃないわけだし……
 絵梨は一瞬自分の頭に浮かんだ考えを打ち消した。日本で今まで見ていた空とは、そもそも、根本的に違うのだ。違うように見えるのは当たり前だ。
 そう、ここは見知らぬ世界なのだ。
 辺りに視線を巡らせた。視界には他の人間は映らない。寝袋と薄い毛布を一枚絵梨に手渡した後、リトとパクは自分たちは絵梨から少し離れたところで寝ると言って、消えた。すぐ近くにはいるらしいが、若い少女の目に付くところにいるのは悪いから、という判断だったらしい。それは絵梨にとってもありがたいことだったので、受け入れた。
 周囲にある建物は、簡素な外観の、日本ではあまり見ないものばかりだった。背の低い家々が密集して並び、複雑に入り組んでいるさまを見ていると、昔テレビで知った地中海の古い町並みを思い出す。空気は乾燥していて、どこか砂っぽい感じがした。
 ここは、全く見知らぬ世界なのだ。
 絵梨は再び不安になった。なんでこんな事になっているのだろう。いつまでここにいればいいのだろう。現状もこの先のことも、わからないことだらけだった。
「眠れないのか」
 突然、男の声がして、一瞬体が震えた。体をゆっくり起こすと、数メートル離れたところにいつのまにかリトが座っていた。
「別に」
 心細くなっていたまさにその瞬間に声をかけられて、動揺した声はわずかに上ずった。体を起こして、そのまま建物の壁に背中を預けて、リトに向かい合うようにして座った。
「知らない町に来ていきなりあんな目に遭ったんじゃあ、ぐっすり眠れる方がおかしいかもな」
「そんなんじゃないわよ」
 思わず絵梨の口から強がる言葉が出た。リトは気を使っていった言葉だったのだろうが、それを素直に受け入れる心の余裕はなかった。
「それとも、盗人の世話になっているのが不快で眠れないとか?」
 リトは何気ない調子でそう言った。絵梨は思わず目を大きく開く。
 そういえば、昼間は絵梨はリトたちにかなり辛らつできつい言葉を吐いたのに、リトは何故ピンチの絵梨を助けて、寝床まで用意してくれたのだろうか。
「それは」
 急にリトに対してばつの悪い気分になって、絵梨はどう言って良いのかわからなくなった。急に目を逸らした絵梨に、リトは軽くため息をついた。
「あまり深く考えない方が良い。寝床は大事だし、食べるものが無ければ死んでしまう。生きていくためには仕方の無いことだってある。あんたの住む世界では普通じゃないのかもしれないが、ここじゃ俺達みたいなのは大勢いる」
 淡々とリトは語りだした。絵梨はゆっくりとリトに視線を戻す。
「あんただって、自分の世界に戻るなりなんなり、したいんだろう。それじゃあ、今日ここで野垂れ死にしてしまったらどうしようもないだろう。今はとにかく生きていなきゃ話にならない」
 それはもっともな話だと思った。心細くなるにつれて、絵梨の中で、帰りたい、という故郷への執着は大きくなっていた。諦めたくは無い。しかし、死んでしまったら意味が無い。
 とにもかくにも今は、この状況を生き延びなければならないのだ。
 そう自分に言い聞かせると、少しだけ不安定だった心が落ち着いてきたような気がした。
「眠れなくても横にだけなってた方が良い。少しでも疲れが取れる」
 そう言うと、リトは立ち上がって背中を向けた。
「あ――あの」
 絵梨は去ろうとするリトを思わず呼び止めた。リトが振り返る。
「どうした?」
 絵梨の様子を伺うリトの顔に怒りの様子は特に見受けられなかった。初めて会ったときから、リトはあまり敵意や悪意を感じさせない表情をしている。しかし逆に、何を考えているのかもはっきり読み取れない表情だった。
「あの、私……昼間は」
 なんと続ければいいのかわからなくて、絵梨は一度言葉を切った。この世界は風があまり吹かないな、と絵梨は思った。静かだ。そして湿気の少ない気候のせいか、肌寒い。リトが少し怪訝そうな顔をしたあと、ふと頬を緩めた。苦笑しているようだった。
「ああ――別に、気にしなくていい。コウのこともたしなめておいたし。俺は、あんたの気持ちもわからなくもないしな」
 絵梨は何か言い返そうとして、また口ごもった。リトが続ける。
「とにかく寝た方が良い。日が昇ったら移動しなきゃならないからな」
 再び背を向け、リトは絵梨の視界から、消えた。


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