第二章

トナシバ!


 紅の朝日の光をまぶたに感じて、絵梨はゆっくりと目を開いた。そしてゆっくりと体を起こす。寝起きに特有の鈍い頭痛がして、絵梨はあの後結局、自分が多少の睡眠をとっていたのだと気付いた。
 空気はまだ冷たかった。毛布を体に巻きつけたまま、注意深くあたりを見回した。何の音も無かった深夜に比べ、表通りの方からは人の気配がする。
「起きたか。丁度良かった」
 建物の陰からリトがひょこりと姿を現して、絵梨に声をかけた。そのまま絵梨の方へ歩み寄ってくる。
「ええ。おはよう」
 絵梨はそう言いながら立ち上がった。未だ昨日の疲れが抜けきっておらず、なんとなく全身に気だるさが残る。リトは朝になったら移動するというような事を言っていた。ここを移動する準備をした方がいいのだろう。絵梨は毛布と寝袋を畳もうと腰をかがめた。
 ふと、リトの方を見上げる。
 リトは少し驚いたような表情をしている気がした。
「……どうかした?」
 絵梨が尋ねると、リトははっとしたような顔をして、それから戸惑ったような笑みを浮かべた。
「いや、別に」
 リトがなんでもないと言うので、絵梨はリトから視線を足元に戻し、手早く毛布と寝袋を畳もうとした。その時。
「おはよう」
 つぶやくような小さな声で、リトがそう言った、気がした。

 絵梨がまとめた寝袋と毛布をリトは小さめのコンテナのようなものに詰めて、持ち上げた。寝具類のほかに何が入っているのかはわからない。
「起きて早々で悪いんだが、ここを移動しなきゃならない事情があってね」
 そういいながら、リトはなにやら色あせた埃っぽいマント状の羽織ものを手渡してきた。
「……これは?」
 絵梨は思わず尋ねる。
「その格好じゃ、街中を歩いてると目立つだろう。今はまだ朝早くて人もそこまでいないが、あまり目に付かないようにした方が良い」
 絵梨は、昨日散々奇異の目で見られた居心地の悪さを思い出して、それは納得のいく提案だと思った。妙な男達に絡まれたのも、そもそもはこの町になじめない格好をして目立っていたせいかもしれない。
「そうね、きっとその方が良いわ」
 そう言うと絵梨はその布を羽織った。うん、これならセーラー服もそれほど目立たないだろう。絵梨は少し満足して頷いた。
「それじゃあ行くか。あんたの話も聞いてやりたいんだが、ここにはもういられないんでね。移動が終わってから落ち着いて話そう」
 リトはそう言う表通りに向かって歩き出し、絵梨もそれに続いた。
 表路地に出るとまだ人はまばらで、どこに向かっているのか慌ただしく走っていく人、リアカーのようなものを引いている人、露店の準備をしている人が、数えられるぐらいの数、いた。
「完全に日の出が済んだら、もっと人が増える」
 そうリトは説明した。まだ朝日は完全に地平線から顔を覗かせていないらしく、町はどこかまだほの暗かった。空はかすかにオレンジ色が混ざっている。皆、まだ家で寝ているのかもしれない。
「どこに移動するの?」
 絵梨は自分たちの向かう先について尋ねた。
「ここから少し離れたところにある、町教会の近くの場所だ。さっきまでいた場所が、近々お偉いさん達に使われるって情報が入ったんでね」
「そう」
 事情もよくわからないので、絵梨は適当な相槌を打って頷くしかなかった。しかしその返事に力が無いと感じたのか、リトが振り返って柔らかく笑った。
「大丈夫だ、そんなに遠くはない」
 不安になったのかと思って励ましたのだろう。その笑みが優しげで、絵梨は一瞬心臓が大きく鳴るのがわかった。
 思わず言葉が出てこなくなって、絵梨は黙って頷いた。リトが絵梨から視線を外す。
「次の場所に移動したら、当分はそこにいられると思うんだがな」
 つぶやきか独り言とも取れるような言い方で、リトは言った。絵梨はその言葉にひっかかりのような物を覚える。
「あなた達って……その、いつもそうやって、色んな場所を転々としてるの?」
「ああ」
 リトは特に嘆いているようにも悲しんでいるようにも、怒っているようにも見えなかった。
「その時々で都合の良い場所に移動してる。一箇所にとどまるのはなかなか難しいね」
「長い間、一箇所に定住したことって、ないの?」
 絵梨が思わずそう聞くと、今度はリトは少し何かを考える仕草をした。そして口を開く。
「まあ、この国じゃ、珍しいことじゃないんだ」
 本当に、なんでもないことのように、リトは言った。
「家がない、とかね」
 絵梨は考えを巡らせた。日本では、世界の、特に発展途上国や、格差の広い国に比べると、ホームレスというのはそれほど多くない。そして、そういう人間と関わることは、今まで絵梨には全く機会が無かった。はっきりいって、侮蔑していた部分がある。しかし、今の絵梨は。
「私も、家が、無いわ」
 この世界では。
「何も持ってない。この世界での身分もない」
 自分自身に確かめるように、絵梨は言った。リトが少し意外そうな顔をして、振り向いた。そしてしばらく絵梨の様子を伺った後。
「そうだな」
 絵梨は少し不安げにリトを見つめた。
「俺達と一緒かもしれないな」
 絵梨はそれには答えずに、少し視線を泳がせた。沈黙が訪れて、二人は無言のまま路地を歩く。少しずつ、人通りが多くなってきた。絵梨は黙って、明るくなるにつれて活気が出てくる町を観察していた。

 少なくとも30分以上は歩いた。もうすぐ目的地だ、とリトに告げられ、絵梨は一瞬迷った後、数歩先を歩いているリトを呼び止めた。
「リト」
 口にしてから、絵梨は自分がリトの名前を呼んだのが初めてである事に気づいた。リトだけではなく、この世界に来て初めて誰かの名前を呼んだ。不思議な気分だった。元の世界にはあまりないだろう名前に、言いにくさと馴染み辛い違和感を一瞬覚え、少し緊張する。
 リトが振り返った。少し驚いているような目と出会って、絵梨は更に心拍数が上がってしまう。気付かれないように小さく、鼻で深呼吸をした。
「あの、私、決めたわ」
 高らかに宣言するつもりがなんとなく動揺の隠せない言い方になって、絵梨は自分にがっかりした。咳払いをする。
「なにをだ?」
 リトが不思議そうに絵梨の顔を見ていた。絵梨は気を取り直して続ける。
「私……あなたたちと、一緒に生活してみることにする」
 絵梨は静かにそう言いきった。リトはその言葉に目を丸くしている。沈黙が落ちて、絵梨は気まずさを感じた。
「あの……リト?」
「そうか」
 つぶやくようにして絵梨から目を逸らすと、リトは何か考えるような仕草をしながら口をゆがませた。
 そして、また視線を絵梨に戻して言う。
「ゆうべの話は、別に無理に誘うつもりで言ったんじゃなかったんだが……」
「いえ、違うの」
 絵梨は慌ててリトの言葉を遮った。これは自分で決めたことだった。
「正直、抵抗が無いって言ったらウソになる。でも、ここは私が今までいた世界と全然違って、私が今まで持っていた常識が通用しないっていうのは、十分にわかったわ」
 そこまで言うと絵梨は一度言葉を切った。リトは黙って話を聞いている。
「郷に入っては郷に従えというし」
 まだ少しだけ声が震える。自分に言い聞かせるつもりで、絵梨は続けた。
「私、ここにいる間は、ここの事を知ろうと思う」
 言い切ったとき、絵梨の心臓は大きく音を立てていた。歩いている間中悩みに悩んだ結果だった。
 実際のところ、こうするしか選択肢がない、というのが理由ではあった。絵梨を珍しそうに見るだけの町の人々、自分を冷たく追い払った宿屋の主人達、夜道で絵梨を襲った男達。唯一、この世界で絵梨に親切にしてくれたのが、リトだったのだ。一人では生きてはいけない。そして、頼れるかもしれない人間が、リトしかいない。
 リトはしばらく絵梨の顔をじっと見つめた後、沈黙を破って口を開いた。
「わかった。あんたが決めたんなら、いいだろう」
 リトが表情を緩めて笑顔を作った。
「色々大変なこともあるだろうが、まあ、俺達も助けるよ。歓迎する」
 絵梨は頷いた。
「とりあえず、行こうか」
 そう言うと、リトは歩き出した。絵梨は小走りでそれを追いかけながら、リトの背中に言った。
「ありがとう」

 それから更に5分ぐらい歩いて人気の無い裏路地に入ると、物陰から昨夜リトに紹介された男が飛び出してきた。
「お、リト。早かったな。こっちだ」
 言いながら一つの建物のドアを開ける。木で出来た、古くて痛んだドアだった。それから絵梨に気付いたのか、気前のいい笑みを浮かべる。
「よお、姉ちゃん。よく眠れたか?」
 絵梨は未だ緊張が解けず少し顔が強張る。
「ええ、まあ」
「そりゃ良かった」
 パクに続いてリトと建物の中に入ると、家具も何も無い小さな暗い部屋だった。中には人が一人いる。14、5歳と思われる大人しそうな少年だった。
「マナ」
「はい!」
 名前を呼ばれたらしい少年が慌てて立ち上がった。
「エリだ。今日から俺達と仲間になることになった。まあ色々助けてやってくれ」
「はい」
 そう返事をすると、少年はエリに歩み寄ってきて、言った。
「マナと言います、よろしくお願いします」
 パクやコウに比べると、初対面の人間に対して遠慮がある、大人しそうな少年だ。変声期を終えていないようで、声は少しかすれている。
「よろしく」
 絵梨がそう言うと、リトが頷いた。
「パクも、よろしく頼む」
「おう」
 パクがそう返事したのと同時に、さっき絵梨たちが入って来たドアが勢い良く開いた。
「あーっ! お前、まだこんなところにいたのか!」
 聞き覚えのある少年の声に、絵梨は振り返った。大きな声だ。コウの声だった。相変わらず絵梨に対して敵意をむき出しにしているコウに、絵梨がなんと言うか困った瞬間、リトが絵梨に言った。
「エリ、昨日あの男達を撒くのに、コウも手を貸していたんだ」
 その台詞に、絵梨は昨夜の事を思い出した。道で出会った男に襲われると思った瞬間、誰かが男に水を浴びせ、挑発し、それに男達が気を取られた隙に、絵梨はリトに連れ出されて逃げ出すことが出来たのだ。
「あれ、あなただったの……」
 絵梨は思わずコウに向かってそう言った。あれがなかったらどうなっていたかわからない。そう思うと、コウは紛れも無い絵梨の恩人だった。
 その件に関しては、感謝をしなければいけない。絵梨がそう思った、次の瞬間。
「しっかし、あいつらも変なヤツ。こんな女に手出して、何が面白いんだか」
 コウが鼻を鳴らしながら、絵梨に向かってそう言った。薄ら笑いが混じった顔だ。目が会って、絵梨の感謝の気持ちが一気に消えうせる。
 思わず苛立ちが声になった。
「はぁ?」
「ちょ、ちょっと、コウ」
 焦ったようにコウをたしなめようとするのは気の弱そうなマナだ。おどおどしながらも、コウと絵梨の間に割って入っている。コウを全力で睨み付けた絵梨の後ろから、パクの声が聞こえてきた。
「なんかにぎやかになってきたなあ」
 のんびりとしたパクの声に、リトが応えている。
「まあ、仲間が増えるのも、悪くないだろう?」


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