第三章

トナシバ!


 絵梨はコウに対して沸き上がっていた怒りだとか、現状に対する腹立たしさとか、自分が作戦を失敗させてしまったことに関して自分自身に若干の憤りがあることで頭が混乱したままだった。それをぶつける対象がいなくなって、どうしたらいいのかわからなくなる。体に力が入っていた。
 コウの姿が見えなくなると、リトは大きく息を吐き出して絵梨を振り返った。その顔は無表情で何も読み取れない。少なくとも穏やかな雰囲気を感じ取ることはできなかった。
「エリ」
 名前を呼ばれて絵梨は緊張した。リトが歩み寄ってくる。
「さっきの言い方は、さすがによくない」
 無表情でリトがそう言うと、コウが怒りを露にして怒鳴ってくるのとは違う迫力があった。また責められるのか、と思うと、悔しさや苛立ちが再びやってきた。
「どうして」
 言いながら、絵梨は唇を噛んだ。リトに向けた言葉というより、現状に対する不満が言葉になって漏れたようなものだったが、リトは自分の言葉に対する反論だと思ったらしい。
「俺達はああやって生きるしかない。それをあんな風にけなされたら、コウが腹を立てるのも当然だろう」
 絵梨はとっさに返す言葉がなくて沈黙した。握り締めた拳に力が入る。
 人のものを盗みながら、野宿する毎日。それがここでは仕方の無いことだと言われても、長年日本で生きてきた絵梨がそれを抵抗なしに受け入れられるわけがない。挙句それが上手くいかないと一方的に責められ、リトにまでお説教などされないといけないのか。
「わたし」
 絵梨はリトと視線を合わせた。リトはまだ無表情のままだ。
「もう、無理、こんなの。続けられない」
 リトの表情が少し険しいものになった。しかし一度それを口にしてしまった絵梨は止まらなくなってしまった。
「帰りたい」
 言ってもどうにもならない本音が口に出てしまい、絵梨は自分が情けなくなった。肩に入っていた力が抜けていく。うつむいた。泣きそうだった。
「エリ」
 リトが絵梨の名前を呼んだ。歩いて近づいてくる気配がする。絵梨は顔を上げなかった。
 リトの足音が迫ってきて、止まった。うつむいている絵梨の視界にリトの足元が見える。思ったより近い位置にいる、と思った瞬間に、突然第三者の声がした。
「おーお、なんか修羅場みてぇだな、リト」
 知らない男の声が背後から聞こえてきて、絵梨が思わず振り返ろうとしたのと、リトが強引に絵梨の腕を掴んで自分の背中に絵梨を押しやったのは同時だった。何が起こったのかわからずに、絵梨はリトの背中の向こうの様子を伺おうとする。しかしリトが絵梨の腕を掴んだままなので、身動きが上手く取れなかった。リトの背中は案外大きいようで、何も見えない。
「何の用だ」
 リトが突然現れた男にそう言った。険しい声で、それはさっきまで絵梨にかけていた言葉よりも更に迫力があった。警戒しているリトの態度とは反対に、相手の男は飄々とした様子で答えた。
「リトが最近女連れてるって噂になってるからよ、どんなもんかと見に来てやったんだよ」
「互いの縄張りには口出ししない約束だろう」
 リトの鋭い口調にも相手は全くひるまない。
「別に様子見に来るぐらいいいじゃねぇかよ。それともあれか? 他の男には見せたくねえぐらいいい女ってか?」
 からかうような軽い口調で男はそう言った。何故かリトの絵梨の腕を掴む力が少し強くなった。
「とにかく、帰ってくれ。お前がちょっかい出していい女じゃないんだ」
「おー、こわ。愛されてるみたいだな、お嬢ちゃん?」
 後半の言葉は絵梨に向けられた言葉のようだった。話を聞いていて、絵梨はこの男が何か自分について大きな勘違いをしているような気がしてきた。そしてそれを否定せずにはいられなかった。
「私、別に、リトとはそんなんじゃ」
「エリ、少し黙ってろ」
 言いかけた絵梨の言葉を、リトが遮ろうとしたが、絵梨の言葉を聞き逃さなかったらしい男が反応した。
「お、そりゃ、ほんとかい?」
 明るいトーンでそう言うと、足音がこちらに迫ってきた。リトが絵梨の腕を掴んだまま体の向きを変えようとしたので、絵梨の腕がわずかにひねられるような形になって、思わず絵梨は小さく悲鳴をあげた。
「リト、痛い」
「え」
 動揺したように一瞬リトの手の力が緩んだので、その隙に絵梨はリトの手を振り払って、彼の背中から離れた。軽い口笛の音が通りに響いて、絵梨がその音に釣られて視線をそちらに移すと、見知らぬ男が絵梨を見ていた。リトより大柄の、無精ひげがわずかに伸びた男だった。年齢は、リトと同じかそれより上か。おそらくリト達と同じく、街の野良なのだろうと思わせる身なりをしていた。
「べっぴんじゃねーか。なるほど、リトが惚れこむわけだ」
「ダン、いいかげんにしてくれないか」
 絵梨と男の間に割って入ろうとしたリトの肩に、肘を当てて男がいきなり寄りかかった。興味津々に、絵梨の全身を眺めている。リトはかなり不愉快そうだ。
「いいじゃねーか、ちょっと口説くぐらい。別にお前の女じゃないんだろう?」
 挑戦的な笑みを浮かべながらリトにそう言うと、その男は絵梨に視線を戻した。
「姉ちゃん、彼氏はいんの?」
「エリ、相手にするな」
 男の質問に、リトの言葉が重なった。
 絵梨は黙って男をにらみつけた。リトの言葉に従ったわけではないが、絵梨は馴れ馴れしい男は嫌いだし、軽々しく口を利くに値しないと思ったのだ。しかしそんな絵梨の態度に男は全くひるまない。
「いいねぇ、その、そっけない感じ? 俺、気の強い女、好みなんだよな」
 リトはそれを聞いてため息をついた。
「わかっただろう、お前なんか相手にされないよ。さっさと帰ってくれ」
「おいおい、わかってねーな。難しいほど燃えるんだろ、恋ってやつは」
 にやりと笑って、男はリトの頬をつついた。リトはかなり嫌そうな顔をしている。男は絵梨に視線を戻した。
「俺はダン。こっからちょっと離れたところで野良やってんだ。姉ちゃんなら俺らの縄張りにいつでも歓迎だぜ。可愛いからな。んで、名前は?」
 絵梨は首を振って黙ったままもう一度男をにらんだ。一切口を利く気はなかった。絵梨としてはかなりきつい顔をしているつもりなのに、ダンと名乗った男は何故かますます機嫌を良くする。
「いや、マジで良いわ、その目。超タイプ」
「ダン、そろそろ本気で怒るぞ」
「そうかっかすんなって。男の嫉妬は醜いぜ?」
 そう言いながら、ダンがリトの肩を叩くのと、表通りからコウの叫び声が響いたのは同時だった。
「あー! ダン、お前こんなところで何してんだよ!」
 そちらを見ると、コウとパクがいた。コウはダンに対して敵対心をむき出しにしているが、パクはなんでもないような顔をして頭をかいている。
「ちっ。うるせーのが来ちまったな。ここらで退散するか。んじゃ、またな、エリ?」
 満面の笑みを絵梨に向けて浮かべながらそう言うと、ダンはコウ達とは反対側の方向へ歩いて行った。ダンの姿が見えなくなって、リトが小さくため息をついたのが聞こえた。絵梨は急にどっと疲れを覚え、全身から力が抜けてその場に座り込んだ。

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