第三章

トナシバ!


 紅色の空が段々と遠くなり、視界が暗く塞がれて来た。
 ダンが下ろしたロープに捕まりながら、絵梨はゆっくりと井戸の壁を伝って中へ降りていく。
「もうちょっとだ、エリ」
 先に底まで降りたダンが、声をかけてくる。その声も、段々と近くなってきていた。金属の足場は古くて弱っているため使えないのだという。素手でロープにつかまっているせいで、手のひらが擦れてひりひりと痛む。やっとのことで底についたときには、流石に息が上がっていた。
「ご苦労さん」
 すぐそばでダンの声がしたと思ったと同時、殆ど真っ暗闇のようだったところに、突然明かりが発生した。目がくらんだのが一瞬だったのは、ダンがその光源を手のひらで包み込んだからで、それをよく見てみると、小さな手鏡のような形状をしている物体だった。
「これは……?」
「便利だろ? 魔法の灯りだ」
 ニヤリと笑うと、ダンはその物体で辺りを照らした。つられるようにして、絵梨は周囲を見渡す。絵梨たちのいる場所の両側に、ちょうど学校の廊下ほどの広さの道が、延びているのがわかった。ダンのもっている灯りでは、遠くまで照らすことはできず、その道がどれぐらい先まで続いているのかはわからなかった。
「王宮に続いてるのはこっちだ」
 ダンは片方の道を指してそう言うと、歩きだした。絵梨が慌ててそれに続く。
 井戸の中に続いていた道は、石の壁で覆われていて、ひんやりした空気をしていた。太陽の光が一切当たらないからだろう。地上に比べると、ほんの少しだけ湿気があるのを感じる。肌寒さを微かに感じ、絵梨は身震いしそうになる体を抑えた。
「どれぐらい歩くの」
 問いかけると、ダンは少しだけ振り返り、しかし歩く足は緩めずに、答えた。
「まあ、結構歩くわなあ。エリ、王宮まで行ったことあんのか?」
「いえ、ないわ」
 そもそも王宮がどこにあり、どれくらいの広さの、どんな場所なのかなど、絵梨は知らなかった。知らなかったということは、少なくとも絵梨がこの世界に来てからリト達と行動していた範囲からはかなり離れた場所にあることで、この地下道が王宮に繋がっているのだとしたら、かなりの距離を歩かなければならないことになる。
 二人の足音が石造りの道に微かに響いていた。
 沈黙の中で、絵梨はこの後の事に思いをめぐらせた。この道の先に王宮があるとして、本当にあのパレードの中にいた少女に会えるのだろうか。王族が住んでいる建物なのだとしたら、警備も厳重であるだろうし、敷地内に入ったところで自由に動けるとも思えない。身分の高い人ほど建物の奥の奥に控えているものなのではないのだろうか。
 絵梨は少し先を行くダンの後ろ姿を見た。どこまで信用していいものなのかわからないが、こんな抜け道を知っているのだから、何の考えもなしに行動しているとも思えない。下手なことをすればダン自身の身も危険にさらされるはずだ。
 美冬の件に関して情報を得たい以上、多少の危険を冒してでも行動に移すべきなのだ。少しでも手がかりを得るまで、ついていくしかない。
 絵梨はそう自分に言い聞かせると小さく息を吐いた。
 5分ほど歩いただろうか。ずっと一本道だったのが、そこで二手に分かれていた。
「こっちだ」
 ほんの一瞬だけ立ち止まり、振り返ってダンはそう言うと、迷うことなく右手の道に歩みを進めた。絵梨がそれに続こうとする。
 だが、その瞬間、絵梨は突然前に進めなくなった。
 足元が覚束なくなり、鈍く頭を揺さぶられるような感覚。
――眩暈?
 そう思ったと同時に、地面からの反発のようなものを感じて、片方の足が勝手に浮いた。
――違う、地面が揺れている?
 だが、絵梨が視線を移すと、ダンは怪訝な顔をしている。
「おい、エリ、どうした?」
――どうした、じゃない。どうしてあなたは平気なの。
 そう問いかけたくなったが、声になる前に、更に強い衝撃が来た。ついに立っていられなくなったのだ、と感じた。どこかに落ちていくような感覚と共に目の前が真っ暗になる。ダンが自分を呼ぶ声が、遠くから聞こえた気がした。だが次の瞬間、それよりももっとはっきりした人の声が、より近い場所から、した。
「――坂本さん……?!」
 腰を地面に打ち付けた、と思った。思ったより強い痛みではなかったが、痛いことは痛い。思わず両目を瞑ってしまった。
 その背後から、確かに聞き覚えのある少女の声が降って来る。
「――――どうして」

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