第三章

トナシバ!


 坂本さん、と呼ばれたのが随分と久しぶりのような気がしていた。
 坂本絵梨。生まれてからずっとその名前だった。坂本という苗字は、父親が坂本という家の男だから、絵梨にも与えられたのだ。それは絵梨が、坂本という苗字が確かに存在する世界に生まれたことを示している。だから異世界にいる間、坂本という苗字は絵梨にとって何の意味もなく、そのように呼ばれることはなかったのだ。
 懐かしく感じられる奇妙な響きに絵梨は目を開いて、ゆっくりと辺りを見回した。
 どこからか確かに明かりで照らされている。先ほどダンが使っていた魔法の明かりではないし、かといって電気の類でもない。夕日のような、赤みのあるやわらかい日光。しかしそれがどこからさしているのかわからない。小さな隙間から漏れているかのような、かすかなその明かりが、絵梨のいる場所をわずかに照らしていた。
 ひんやりとした石造りの床に、絵梨は座り込んでいる。その足元に、長い階段が続いていた。上りの階段と、下りの階段が真っ直ぐに伸びて、闇に繋がっている。その二つの階段の間、踊り場のような場所に、絵梨は座り込んでいた。そしてその背後に。
 見覚えのある少女が立っていた。
「坂本さん、なの」
 美冬が微かに震える声でそう言った。
「川口さん」
 絵梨も確認するようにその名を呼んだ。
 しっかりと振り向いた。確かにそこに、美冬が、いた。
 青ざめている。絵梨の記憶の中の美冬がいつもそうだったように。いつもどこか自信なさげに、縮こまっておどおどしていた。それは、そのままだ。
 だが、違うのはその格好だ。
 美冬が着ているのは、日本の女子高生が普段着にするようなことは決してないであろう、豪華な洋装だった。わずかな明かりを受けて輝く生地は、そのあたりの若者向けのファッションモールに陳列される安い服のポリエステル生地などでは決してなく、高価な絹生地であると一目でわかった。華美な飾りはないが、丁寧な文様を刺繍してあるレースが足元まであるスカートの裾で重なっている。淡い青色は上品だった。
 その姿を驚きながら観察した後、もう一度顔を上げる。美冬とはっきり目が会った。動揺していた美冬の目が、潤みはじめる。
「坂本さん」
「――どうして」
 一瞬表情を緩ませた美冬の言葉を、さえぎるように絵梨はつぶやいた。絵梨の声に、美冬が肩を震わせる。
「その格好……どういうこと」
 思わぬ形で再会した知り合いは、自分とはあまりにも違う出で立ちをしていた。美しく高価な洋服。綺麗に整えられた身なり。この2週間、絵梨が衣食住に困って苦しい生活を強いられていた中、美冬は絵梨とは正反対の、恵まれていた時間を過ごしていたのだろうか。
 沸き起こってきたのは怒りだった。屈辱と、嫉妬と。どす黒い気持ちが溢れて全身が熱くなる。
「どうしてそんな姿をしているの」
 もう一度口にした言葉は、微かに震えた。
「わ、私」
 明らかに怯える様子を見せながら、美冬は絵梨の疑問に答えた。
「2週間前から、この世界に、いるの、その、召喚されて」
「――召喚?」
 小さく二度、美冬は頷いた。明らかに絵梨に気圧されていた。
「王女さまが、この国の。亡くなって、私、その代わりを、やれって」
 絵梨は立ち上がった。立ち上がると、美冬より目線が上になる。怯えて固まっている美冬は、随分と小さい生き物に見えた。こんな情けない様子で、豪華なドレスを纏って、高貴な身分になっているなんて。自分があんな惨めな思いをしている間に。
「王女に、なるって、川口さんが?」
 美冬がゆっくりと目線を上げた。目が会って、一瞬、沈黙が訪れた。美冬は今にも泣きそうだった。目が潤み、震えている。
 どうしてなのだ。こんな事はおかしい。
 絵梨の怒りは収まらないまま、美冬に向いた。
「そんな情けない顔して、怯えて、立ち姿もみっともないのに。王女なんて、おかしいじゃない。どうして川口さんなの。どうしてそこにいるのはあなたなの」
 あまりの憤りに、怒鳴ることも叫ぶことも出来ず、声はただ淡々と紡がれた。震えは止まらない。
「――どうして」
 そこで一度言葉に詰まったとき、絵梨はふと、その一瞬に何かが変化したことに気付いた。
 弱々しく縮こまっていた美冬が、いつのまにか絵梨を真っ直ぐみていた。睨みつけているのとは、違う。しかし、それまでの美冬とは打って変わって、据わった目線であるようだった。はっきりとした敵意ではない。ただ突然、絵梨に対しては怯みそうもない、妙な気迫のような何かを感じさせるものだった。何も言わずにじっと見つめてくるその目は、絵梨に既視感を覚えさせた。
 既視感――階段、夕暮れ、美冬、そうだ、この世界に来る直前の。
 そう思ったとき、また足元がぐらりと揺れた。
 思わず両足に力が入る。それと同時、どこからか男の声が響いてきた。
「おーい、エリ、どこいった?」
 ダンの声だ。まるで音楽用のホールで声を張り上げているかのように、その声が大きく響いている。だがそれが、どこからか聞こえてくるのかわからない。あたりを見回しても闇が広がるばかりだ。奇妙な現象だった。
「坂本さんの、お友達?」
 声の聞こえてくる場所を探そうとする絵梨を、美冬の声が遮った。静かな声だった。震えは無く、妙に落ち着いていた。その声も、美冬らしくない、だがどこか聞き覚えのある調子でもあった。
 一瞬、何故かその美冬に気圧されそうになって、そんな自分にいらだちながら、絵梨は睨み返して否定した。
「違うわよ」
「でも、坂本さんのこと心配してる」
 絵梨に重ねるようにそう言うと、美冬は余裕のある動きであたりを見回した。
「大丈夫かー?」
 もう一度、ダンの声が聞こえてくる。今までの飄々とした掴みきれない口調に、焦りのような、切迫した雰囲気が加わっている。突然、一緒にいたところから姿を消したのだ。驚きもするだろう。親しい間柄ではなかったが、確かに、心配しているのかもしれない。
 そう思ったところで、美冬がもう一度口を開いた。
「相変わらず、モテるね。坂本さん」
「――は?」
 平然と言い放たれた言葉の意味を、理解するのが一瞬遅れた。あまりにもその場に不釣合いな言葉だった。直前までぶつけていた絵梨の怒りも、この見知らぬ不思議な場所で二人きりという状況も、まるで気にしていないかのような台詞だった。動揺して何も言えず、ただ美冬の目を見ると、美冬もゆっくりと視線を合わせてきた。この瞬間、美冬の方が明らかに落ち着いているように見えて、絵梨はその事実に更に底知れぬ怖さを覚えた。
 その時。
 また足元がぐらついた。先ほどよりももっと大きい揺れ。踏ん張るようにして体を支える。この揺れにはさすがに美冬も驚いたのか、緊張した顔であたりを見回している。そしてもう一度大きな、大きな揺れが来て、遂に立っていられなくなった。地面に倒れこむ、体が叩きつけられて、擦れる。その痛みに思わず声が上がってしまった。
「エリ! 大丈夫か?!」
 間近でダンの声がして、自分が目を一度固く瞑ったこと、その間にあの地下道に戻ってきたことに気付いた。自分が突っ伏している地面は、先ほどの謎の空間よりも砂っぽく、湿って、ひんやりしていた。
 美冬はどこにもいなかった。
 薄暗く狭い地下で、友達ではない、知り合って間もない、さして信用もしていない男に心配されていた。
「川口さんだった」
 呟いた自分の声が、妙に弱々しく震えて聞こえた。
 あのパレードにいたのは、美冬だったのだ。絵梨が屈辱の生活を強いられている中、王女の身代わりになったという美冬だったのだ。かつて教室で一緒に過ごしていた頃とは違う、妙な気迫のある態度は、裕福な生活の中で得たものなのだろうか。
 震える。内から負の感情が溢れて、制御ができなくなりそうだった。唇をかみ締めた。許せない。何が許せないのか? わからない。何もかもが。目が熱くなる。泣いたりするものか。何者にも、絶対に。負けたりしたくない。
「あー…っと、どうする? とりあえず、帰るか? 日が落ちてるだろうし」
 絵梨の様子から、目的が果たせたこと、そしてそれが絵梨をいい気分にさせるものではなかったことをなんとなく感じ取ったのだろう。少し戸惑うような声音で、ダンはそう声をかけてきた。
 帰る、という言葉に、絵梨の気持ちは更に暗くなった。自分の帰る場所は、リト達のところしかない。定まった場所すらない生活。だが、そこしかないのだ。
 何も言わずに、絵梨はゆっくりと立ち上がった。


Copyright(C)2006- 碧 All rights reserved. designed by flower&clover
inserted by FC2 system