第三章

トナシバ!


 地面を踏んでいる感触に、現実感がなかった。頭の中が痺れているようだった。思い出すのは、美冬の妙に落ち着いた様子と、綺麗な出で立ちと、自分が苦しんでいた間に高貴な身分になっていたと告げられた衝撃の事実。どうしても、それらが頭の中をぐるぐる回って離れない。吐き気がした。
 日は沈みかけてあたりは殆ど暗くなっていた。それぞれの家が灯りを点し始め、窓からほのかな明かりが漏れてくる。肌寒くなってきた。どれぐらい歩いたのか、あとどれぐらい歩くのか、わからない。周りの様子を見ても、ここがどこなのかと考えることができなかった。思考ができないほど、頭が疲れていた。疲れて思考ができないのに、あの不思議な空間での出来事が頭の中で繰り返された。
 眩暈と共に、体がぐらりとした。
「おい、エリ」
 ダンが名前を呼ぶ、それが思ったより近いところで聞こえた。ダンが自分を支えようと手を伸ばしていることに気付いて、絵梨は思わずそこから遠ざかった。
 更に足元がふらついた。ダンが驚いて固まっている。頭を押さえながら、絵梨はその様子をしばらく黙って見た。急に頭が冷静になった。足元を正して、背を伸ばした。冷たい風が絵梨の頬を微かに撫でた。
「平気」
 口に出した言葉が情けなく掠れた。もう一度、言った。
「平気よ」
 ダンが戸惑ったように頭をかいた。
「なら、いいけどよ」
 そう言うと、また歩き出す。その背中の後ろを、距離を置きながら絵梨は着いて行く。
 相変わらずモテるね、という美冬の言葉が突然蘇った。また気分が悪くなる。どういうつもりであんなことを言ったのだ。腹立たしいような、吐き気が催すような、とにかく不快な気分になる。異世界の、町の片隅で明日の生活すら憂えなければならない自分に、なんて言い方を。
 そう思って、絵梨はふと気付く。それじゃあ、自分は美冬がどんな言動をすれば満足なのだろう。心配? 同情? 王女の立場にいるのなら援助しろ、と?
 いや、そんな馬鹿な。自分があの美冬に、そんな扱いをされるなんて、絶対に許せない。臆病でおどおどして自分のない情けない子。ずっとそんな目で見てきた同級生。そんなことになってたまるものか。
 拳を握り締めた。理不尽だ。どうして、こんなことに。
 また、風が吹いた。少し寒い、と思った。ジュノの町は乾燥していて、日中は暑くても日が沈むと急に寒くなる。何度か風のある夕暮れに思わず震えていると、リトが防寒用にブランケット代わりの布を肩にかけてくれたことを思い出した。
 帰る場所、自分にはそこしかない。コウとは相変わらず仲が悪いし、パクやマナは何を考えているかまだよくわからないし、リトの言い方に腹が立つこともあるが、自分が頼れる相手は結局リトしかいないし、彼らがいなければ明日の生活が本当に立ち行かなくなるのは、紛れも無い事実なのだ。それは悔しく、理不尽だと感じもするが、ただ嘆いていても急に元の世界に戻れるわけではないのだ。
 もう一度唇をかみ締めた。逃れられない現実と、これからも戦わなければならない。
 その時。
「エリ!」
 自分の名を呼ぶ声が路地に響いた。顔を上げる。声のした方を振り向くと、リトがこちらに走り寄ってくるところだった。そこでようやく、自分が見覚えのある場所にまでたどり着いていたことに気付いた。
 気が抜けた。だいぶ長い間見知らぬ場所で時を過ごしていたようだった。頭だけではなく、体中に、どっと倦怠感を覚えた。肉体的にも疲弊していたのだと実感した。
 ジュノは知らない町だ。突然飛ばされてきた、縁もゆかりも無い町。だけれども2週間過ごして、こうして知人のいる、見知った場所ができたのだ。それは、ある意味で絵梨を不安にもさせてきたが、安心もさせてくれるのだった。
 リトは絵梨の方に駆け寄ってきたと同時、ダンの姿を見止めて顔を曇らせた。
「――どういうことだ」
「あ?」
 厳しい口調でダンに言葉をかける。先ほどまでの絵梨を心配するような遠慮がちな態度が一変した。対するダンもリトには怯まない。
「エリに何をしたんだ」
 リトは今にもダンに掴みかかりそうな様子だった。ダンはそれに対して構える様子はないが、一触即発といった雰囲気だ。
「何もしてないわよ」
 絵梨はリトに向かって言った。リトが眉を顰めながら絵梨に顔を向ける。
 声が掠れてしまう。しっかりしなければ、と思うが、疲労感が隠せなかった。早く寝床で横になりたい、と思った。
「王宮に、行こうとしたの。私が」
 言いかけて、一瞬忘れていたものがまた頭の中を駆け巡った。昼間のパレード、華やかで綺麗な。あの中大きな輿に乗っていたのが、美冬だった。華やかなドレス、綺麗な出で立ち、王女の身代わり。らしくない、怯みもしない態度――
「エリ!」
 もう一度名前を呼ばれた。それと同時に足音が近づいてくる。リトがふらついた自分を支えようとしている、と思って、先ほどと同じように避けようとするが、間に合わなかった。腕を掴まれ、逆にそれで更にバランスを崩してしまい、絵梨はリトの胸の中に倒れこんだ。足元が完全に覚束なくなった一瞬、リトがもう一方の手で絵梨の方を抱いた。
「大丈夫か」
 静かな声が耳元で聞こえて、リトの息遣いや体の温かさが間近で感じられて、冷え切っていた体が微かに温まってくるようだった。抵抗しようとすると、リトが絵梨の腕を掴んでいた手を一瞬離して、それから背中にきつく回した。その途端、何故か堪えていた涙が突然溢れ出し、止まらなくなった。嗚咽を必死に堪える。泣いているところなんて誰にも見られたくない、と思いながら、どうしても涙が流れ続ける。胸元の濡れたことに、リトは気付いたのだろう。軽く背中を叩かれた。絵梨はそのままリトの胸に顔を押し付けた。

Copyright(C)2006- 碧 All rights reserved. designed by flower&clover
inserted by FC2 system