序章

トナシバ!


 晴天。
 照り付ける太陽の下で、ホイッスルが鳴った。
 走る。
 すぐに、白い障害物が近づいてくる。
 跳ぶ。走る。跳ぶ。
 地を蹴る、着地する。頬を、掠める、朝の、冷たい、風。
 何かが一瞬、少しだけ足に触れた。
 違和感。
 ペースが崩れそうになる。
 ダメだ、考えるな、何も!

「じゅ、13秒67です」
 絵梨の背後から、か細い少女の声が聞こえた。
 今絵梨が走った100メートルハードルのタイムだ。
 呼吸が上がっている。自分の息する音が耳にうるさい。
「何をぼさっとしてるの、早く倒れたハードル、元に戻して!」
 苛立ちながら絵梨は振り返って先ほどの少女に怒鳴りつけた。陸上部のマネージャーだ。まだ1年生で、何かと鈍い所が、逐一絵梨の気に障る。慌てた様子で絵梨が倒したハードルを戻しに走っていく背中をねめつけると、絵梨は顎で滴りそうになっている汗を手の甲で軽くぬぐった。
 残暑が厳しい9月。部活漬けだった夏休みがあけて、3年生の先輩がいない朝練にはまだ慣れない。
 実力はない癖にやたらに威張り散らす、癇に障るような先輩がいなくなってくれたのにはせいせいしたが、なんとなくしまりの無さが陸上部全体に広がり、走るときの張り合いのなさを感じた。
 青空の下、まだ朝独特の湿り気がグラウンドを漂って、本格的な暑さにはなっていない。陸上部の連中が各々の種目のトレーニングに励む隣を、野球部の生徒達が走っていく。その野太い掛け声達をBGMにして、後輩の野口が、今絵梨が走ってきた隣のレーンのハードルを越えてきた。真剣な顔をしている。腕を振りすぎているのが目に付く。無様だと思った。無駄なフォームの分、速さも遅れる。
「野口さん、跳躍のときのフォーム、あまりよくない」
「はい!」
 ゴールした野口にマネージャーがタイムを告げる前に、絵梨は注意した。野口はそれに間髪入れず返事をする。無駄に声のでかい女だと思った。
「あの、悪いって、どのあたりがですか?」
 純粋な目をして教えを請う後輩に、絵梨は内心ため息をつく。
「自分で考えなさい」
 中学では帰宅部だったという初心者の1年生だ。タイムもよくないし、やる気だけで実力を感じない。あまりかかわりたくない。
 それ以上の質問は受け付けないと言う合図を無言で出しながら、絵梨はスタートラインに小走りで向かった。次の大会では自己ベストを更新したい。やる気の無い部員や、実力のない後輩達の事など気にしなければいい。自分は特別なのだから。

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