序章

トナシバ!


 印刷開始ボタンを押すと、目の前の印刷機がのろのろと鈍い音を立てながら振動を始めた。低い音でうなる。左手から、勢いよく紙が排出されてきた。
「ふぅ、遅くなっちゃったねぇ。もう6時かあ」
 美冬の隣で、学級委員仲間の沢井美佳子が背伸びをしながら言った。その声も、印刷機の轟音のせいではっきり聞こえない。部屋がインク臭い。
 10月にある学校祭の準備のため、生徒会をはじめとする学生組織はにわかに忙しくなる時期だ。今日の代議委員会で決定した事項をまとめた広告を、今印刷機にかけたところだった。会議は小一時間かかり、日も暮れそうな気配である。
「印刷終わったら、生徒会室に持っていって、仕事完了ね」
 沢井の確認に、美冬はうなづいた。問題は、「印刷が終わったら」である。
「印刷機、エラーしないといいな」
「そうだね」
「あぁ、もう、はやくしてー!」
 小声でそんな事を言いながら地団駄する沢井に、美冬は首をかしげる。
「何か急いでるの?」
「早く帰りたいじゃない」
「まあね」
 相槌をうちながら、その願いはかなうのかなあと思った。
 目の前の年季が入った印刷機は、がたがたと怪しげな音を立てながらゆっくりと印刷し終えた紙を排出していく。1枚1枚、排紙側のトレイを眺めていると、突然排紙がストップした。
「うっそ、エラー?」
 印刷機が甲高い発信音で悲鳴を上げている。
「紙詰まりかな?」
「もう、最悪!」
 沢井の苛々は募る一方らしく、高い声で悪態をつく。ここが職員室の隣である事を思い出して、美冬は段々居心地が悪くなってきた。
「沢井さん」
 叫ばないで、というつもりで口を開くが、排紙トレイを引っ掻き回そうと目を吊り上げている沢井は聞く耳をもたなそうだ、と瞬時に判断した。それでも、これ以上暴れたり叫んだりされるのは居心地が悪い。
「沢井さん……その、急いでるんだったら、私、あと全部やっておこうか?」
「え! いいの?」
 急に目を輝かせて美冬の方に振り返る沢井に、美冬は内心ため息をついた。
「いいよ。私、家まで徒歩だからバスの時間とか関係ないし、印刷機のエラーには慣れてるから」
 そして、一人で印刷室に取り残される状況にも慣れている、不本意ながら、と心の中で付け加えた。
「ホントに? なんか悪いね。ありがとう!」
 言うや否や、沢井は足元に置いていた自分の鞄を手にした。相当早く帰りたかったようだ。口早な台詞にどれぐらい感謝が込められていたのかは疑問であった。
「また明日ね」
「またね!」
 戸が開いて、閉まった。印刷機の音も無く、1人になった部屋で、もう一度、今度は心の中ではなく声に出して、美冬はため息をついた。それから排紙トレイを覗き込む。1枚、印刷途中の用紙が引っかかっていた。それを強引に引っ張り出すと、スタートボタンを押す。印刷が再び始まった。
 あと、50枚だ。
 側にあったパイプ椅子に腰掛けた。
 生徒会室に寄ったら、丁度体育会系の部活が終わった友人らと鉢合わせるかもしれない。そうしたら、一緒にバス停まで帰ろう。


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