第一章

トナシバ!


 頭が痛くて眠れない、と思っていたのが、気づいたら眩しい朝日に目がくらんでいて、結局眠れたのだと自覚した。疲れていたのかもしれない。
 美冬は、自宅にある布団とは比べ物にならないほど柔らかいベッドと肌触りの良いシーツから体を起こして抜け出した。
 小鳥の声が聞こえる。窓の外に目をやると、明るい森の風景が見えた。針葉樹林だった。美しい。町で育ってきた美冬は今まで、本物の「森」というものを見たことがなかったことに、今はじめて気づいた。
 制服のすそを軽くはたいて、延ばした。ベッドの上には、サリエが用意してくれたのだろうか、ネグリジェのようなものが置いてあったが、美冬はなんとなく、元の世界との唯一の接点である、制服という着物を脱ぐ気にはなれず、昨夜はそのままの格好で眠ってしまったのだった。
 セーラー服のタイを綺麗に結びなおすと、側にあった手鏡で寝癖がついていないかを確認して、美冬はサイドテーブルにあった小さなベルを、手に取った。
 クリスマスツリーに飾ってありそうな、小ぶりのベルだった。金色に輝いていて、かわいらしい。手にとってそれをしばらく眺めていたが、しばらくしてから、美冬は一度ため息をついて、それを軽く振ってみた。
 ちりんちりん、と、軽やかな高い音が鳴った。
 サリエは、自分を呼び出したい時にこれを鳴らせと言っていたが、こんな小さな音では、部屋の隅まで届くか届かないかではないだろうか。
 不安になって、美冬は少し考えた後、少し強めに、もう一度振ってみた。
 その瞬間。
「聞こえておりますわ」
 部屋の扉が開いて、サリエが入ってきた。
「あ――」
「おはようございます、ミフユさま」
 食事が乗っているお盆を持っていた。スープと、パンと、卵料理と思われるものが並べられている。スープからは湯気が出ていた。
「お、おはようございます」
 言いながら、美冬は軽く頭を下げた。教師や先輩に挨拶するときなんかにする、美冬の癖だった。
「お食事をご用意しましたから、召し上がってください。お口に合うかわかりませんが……」
 にっこりと微笑みながら、サリエはサイドテーブルに料理を手早く並べていった。
 見た様子では、美冬のいた世界でいう、洋食料理と非常に近似していた。スープから漂う匂いも、食欲をそそるものだ。並べられたフォークとナイフを見て、生活様式に致命的な違いがないことがわかって、美冬は心の中で安堵のため息を付いた。
「ありがとうございます、いただきます」
 サリエが引いてくれた椅子に腰掛けると、美冬はサリエの目を見て、そう言った。一瞬、サリエが驚いたような表情を浮かべたが、それは徐々に笑顔に変化していった。
「恐れ入ります――ミフユさまは、お優しい方なのですね」
「え?」
 サリエの言葉に、美冬は首をかしげた。しかし、それには答えず、サリエはただ微笑むばかりだった。
「どうぞ、お召し上がり下さい」
「あ、はい、いただきます」
 促されて、美冬はまず癖になっている合掌を軽くすると、手前にあったスープのようなものを口につけた。
 オニオンスープのようだった。食べ物の傾向も、美冬の世界の洋食料理と殆ど変わりがないようなので、美冬はまた安堵した。
「おいしいです」
 美冬はそういうと、今度はパンのようなものにも手を伸ばした。食事が問題なくできるというのは、とても安心できることだ、と思いながら。

 食事を済ませると、サリエは水を用意してくれた。洗面器――といっても、美冬がいつも風呂場で使っているプラスチックのようなものではもちろんなく、豪華なバラの彫刻が彫られた、白い陶器の洗面器だ――に張られた水で、軽いうがいと洗顔を行った。水道の蛇口から出る水というものに慣れている美冬は、これには多少面食らったが、困りはしなかった。
 濡れた顔を拭いていると、背後からサリエが声をかけた。
「ミフユさま……そろそろ、カインさまをお通ししてもよろしいでしょうか?」
 カイン、という言葉に、美冬は一瞬ドキリとした。
 あの黒髪の青年は、なんだか苦手だった。
 しかし、今後の美冬の身の振り方の話をする際に、避けては通れない存在であるはずだ。
「はい、どうぞ」
「入るぞ」
 答えたのは、サリエではなかった。
 昨日、美冬にきつい言葉をかけたのと同じ声で、カインはそう宣言すると、サリエが入ってきたのと同じ扉から部屋へと入ってきた。
 一瞬、驚いて振り返った美冬と、カインの目が、はっきりと会った。しかし、美冬はすぐにそこから視線を逸らした。
 この人は、苦手だった。
「答えを、聞かせてもらおうか」
「カイン様、突然すぎます」
「しかし、私達に協力しないのなら、いつまでもここにおいておくわけにはいかないだろう。はっきりとしてもらおうか」
 前半はサリエに向けた言葉のようだったが、後半は美冬に向けられたようでもあった。
「ミフユさま、その」
「私――」
 何かフォローを入れようとしてくれたのだろう。サリエは、やはり優しくて、美冬の味方になってくれそうな女性だ、と美冬は内心、安心した。
 それは、決心の、後押しにもなった。
 サリエの言葉を遮るようにして、美冬は口を開いた。
「私でよければ、私に――アイシア王女の、身代わり、やらせてください」
 はっきりと、言い切った。
 一瞬、部屋に沈黙が落ちた。
 沈黙を最初に破ったのは、カインだった。
「本気か」
 今度こそは、目を逸らさないぞ、と思って、美冬はカインを見つめた。
「はい、私の答えは、そうです――でも」
 カインの方は、どうなのだ。
 昨日は、美冬が王女になることを、真っ向から反対していたではないか――そう言いたいがそこまではっきりと口にする気にはなれず、一瞬言葉を濁すと、カインが一瞬軽くうなづいたように見えた。
 そして。
「サリエと、一晩話して、決めたことだ」
 そう言うと、カインは急に、美冬の目の前まで歩いてきて――
「王国騎士カイン・ヴォーレン、殿下への忠誠を、ここに誓う」
 そう言って突然、膝を折った。昨日と同じ、騎士のような動作だった。
「え、ちょっと、まってください、そんな格好、しないでください」
「ミフユさま」
 サリエが、美冬の名を呼びながら、深々と頭を下げた。
「王国を、お救い下さい」
「え、え、え、そんな、救う、って」
「大丈夫です」
 サリエが頭を上げて、にっこりと微笑んだ。
「ミフユさまなら、きっとお出来になります」


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