第二章
トナシバ!
晴天。
照りつける太陽の下で――ホイッスルは、鳴らなかった。
鳴らなかったが、絵梨は気づいたら駆け出していた。
全速力だ。
スカートが翻る。構うもんか。誰かの肩にぶつかった。構うもんか。泥水の中に一瞬足を突っ込んでしまった。構うもんか。
目標は、前方を走っている、中学生ぐらいの少年だ。絶対に追いついてやる。
人ごみの中、走る環境としてはとても悪かった。人を掻き分けて先へ行こう行こうとする事自体は、駅伝やマラソンを彷彿させた。絵梨にも経験がある。しかし、今はそんな状況とは全くかけ離れている。
階段から落ちる、と思った瞬間、絵梨は目をかたくつぶってしまった。
そして腰を床に打ち付けたと思って目を開けた瞬間、そこには見知らぬ風景が広がっていた。
まず、さっきまでは屋内にいたはずなのに、頭上には青空。そして美冬しかいなかったはずなのに、周りには人、人、人、人ごみ。しかも、その人たちは一昔前の時代のようなお洋服のようなへんてこな格好をしている。
床に腰を打ちつけた、と思ったが、そこは地面だった。乾いた大地。風がわずかに吹いて、砂が舞い上がった。
絵梨は突然起きた出来事に仰天して、しばらくそこに座り込んでいたが、周囲の奇異の目に気づいて、すぐに居心地の悪さを感じて立ち上がった。この視線から逃れたかった。
しかし、次の瞬間。
どん、と、絵梨の後ろから何かがぶつかってきた。そして、次の瞬間。
「私の、鞄――!」
思わず、叫んでしまった。
絵梨の前方を、中学生ぐらいの汚い格好をした少年が、走っていた――絵梨の鞄を持って。
そして、走り出していた。このわけがわからない状況下で、数少ない絵梨の持ち物を奪い去られたという事実に、絵梨はかつてないぐらい恐怖した。震えそうだったが、唇を噛んで耐えた。走って、追いかける。自分には、足がある。
ここは街のようだった。レンガ造りの建物や、出店のようなものが沢山並んでいる。少年は、その中を勝手知った様子で素早く逃げていく。曲がり角を曲がって、時には障害物を飛び越えて、絵梨はとにかくその後ろ姿を見失わないように、走った。
息が上がっていく。体力づくりのために、陸上部で毎朝ハードルのレーンとは別にグラウンドを走っているが、その距離をゆうに超えた長さを走っていた。
そして、勝負はあった。
「待てっ!」
裏路地のような場所に入ったとき、少年が石かなにかに軽く躓いたのを、絵梨は見逃さなかった。ラストスパート。全ての力を振り絞って、少年に追いつき、上から覆いかぶさる。
「うわっ!」
「返して! 私の、鞄!」
絵梨はもう何がなんだかわからないまま、絶叫した。こんな大声は、小学生の学習発表会で劇をやったとき以来じゃないのか。
自分の叫び声が裏路地に木霊したような気がして、急に絵梨に理性が少しだけ戻ってきた。
今の絵梨はすごい状態だった。自分より若いと思われる少年の背中に飛び乗って、品のない叫び声を上げている。
――ここは、どこ。わたしは、なにをやってるの。
急にさっきまであった不安感が再び湧いてきて、絵梨の少年の服の端を握っていた手が震えた。
――泣くもんか。
そんなみっともないこと、できやしない。ここがどこで、この少年が誰であっても、絶対に負けない。
唇を、かみ締めた。
少年は、大声で叫んでいる。
「うっわー、何だよこの女! まさかこの俺が走りで女に負けるなんて思いもしなかった! ちっきしょー!」
そして、暴れているが、絵梨の力で抑えられる程度の力だ。本気で暴れているのだろうか。
「返しなさい、私の、鞄!」
絵梨は怒鳴った。よくわからないが、明らかに絵梨のほうが、少年より優位に立っているようだった。とにかく、持ち物を返してほしかった。
そして、少年が絵梨の鞄の持ち手を握り締めている左手をつかもうとした、その時。
「返してやれ、コウ。お前が負けたんだろう」
澄んだ大人の男性の声が、背後から、した。
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