第三章

トナシバ!


 ジュノの町は常に空気が乾燥している。絵梨が来てから雨が降ったことは一度も無い。軽い砂で覆われた大地は滑りやすく、風が吹くと砂埃が舞い上がる。
 絵梨は人ごみの中で緊張していた。手のひらが密かに汗ばんでいた。これから目の前で起こること、その時自分がしでかさなければならないことを考えると、気が遠くなりそうだった。
 しかし、なさねばならないこと。
 深く息を吸い込んで、吐いた。
 真昼の町は活気に溢れている。雑貨や食料品の屋台がずらりと並び、様々な人がごった返していた。
 絵梨は立ち並ぶ屋台を眺めた。その中に、果物を売っている屋台がひとつあった。中年の小太りの店主の前に、綺麗な色とりどりのフルーツが山盛りになって並べられている。林檎やオレンジに似た、どこか見覚えがあるように錯覚させるような果物から、あまりなじみの無い、南国を髣髴させる果物まで、様々なものが並べられていた。
 リトから聞かされた話では、この周辺では良質の果物が多くは手に入らないのだという。他の地方や国と、国家を通じた取引で流通がなされているとのことだが、近年、あの店主がジュノの町での果物の流通を独占しているらしいのだ。詳しいことはわからないが、出店で売ってはいるが、不必要なほどの高額で果物を販売し、殆どの一般民は果物を手に入れる事ができないとか。
 要は、リト達としては、その店主は「悪者」だと言いたいのだろうが。
 絵梨はもう一度、深く息を吐き出した。大きなため息を付くことで体と心をリラックスさせる。試合前に必ず絵梨がやっていることだった。
 そろそろ、コウが来るはずだ。
 一度足元に目を落とした。絵梨はこの世界に来る直前に学校の内履きを履いていた。屋内で体育の授業を受けるときにも使用する内履きだから、割りに動きやすい。こっちに来た後もずっとそれを履き続けていた。
 一方、服は制服だったので、不都合の方が多かった。特にスカートは動きづらいし、校則をギリギリで遵守している丈でも、この世界の常識では短い部類に入るらしい。オーソドックスなセーラー服のデザインも、この世界では目立ってしまう。そういうわけで、リトがどこからか調達してくれた汚れたTシャツのようなものと、ハーフパンツぐらいの長さのズボンを履いていた。
 服だけではなく、ここ数日の食事も、リトたちが世話してくれた。元の世界で言うところの、ジャンクフードに近いものだった。決して美味いものではなかったが、食べられるものではあった。それらの食事をリトたちがどうやって手に入れたのかは聞かなかったが、だいたい想像はつく。抵抗が無いといえば嘘になったが、背に腹は代えられないので、絵梨はその食事を受け取った。
 そして、数日が経って、今だ。
 いつまでも何も知らないフリをしてただ世話になっているのも居心地が悪い。そう思っていたところに、リトから、自分たちの仕事を手伝え、という指令が入ったのだ。
 絵梨は果物屋に視線を戻した。
 小さな、あまり小奇麗とは言えない姿をした少女が、物欲しそうに果物の山を見つめていた。それに気付いた店主があからさまに顔を顰め、嫌悪の表情でにらみ付ける。凄まれた少女が悲しそうな顔をしてその場を去ろうとしていた。
 そこから少し視線を外した。見覚えのある少年が人ごみをかき分けるようにして走ってきた。コウだ。絵梨は唾を飲み込んだ。
 コウは勢い良く走ってくると、果物屋の前で立ち止まった。予定通りだ。怪訝な顔をする店主に向かって、コウはにぃっと笑顔を作った。そして、次の瞬間。
 コウはTシャツの裾を引っ張って、そこに手前にあった果物をありったけかき集めると、全速力で駆け出した。店主が目を吊り上げる。
「この、ガキ――!」
 走り出したコウを店主が追いかけようとする。絵梨は今だ、と思い、果物屋の屋台に向かった。周囲の人々は何事か、といった様子でコウと、怒鳴りながら走り出そうとする店主を見ている。絵梨は無人になった屋台の裏側に回りこみ、通りに向かって屋台を全力で押してみた。
 リトが絵梨に頼んだのは、コウが店主の気を引いている間に、屋台をひっくり返すということだった。果物を路上にばら撒いて、その隙に果物を盗むという作戦だったらしい。
 屋台は乾燥した木の板だけで出来た簡素のもののように見えたのだが、案外に重かった。2、3度全力で押してみたが、びくともしない。
 絵梨は焦った。一度屋台から手を離して屋台全体を見回してみた。屋台自体のつくりはやはりそんなに重そうには見えなかった。問題は大量に積んである果物たちに違いない。重心は、屋台の下のほうに来ている。
 てこの原理だ。
 絵梨はひらめいたと同時に、屋台の上部にある、天井の枠に飛びついた。そのまま、後方の壁を強く蹴る。慣れない動作は思ったより上手くいかず、壁を蹴る力は小さくなったが、それでも先ほどまでびくともしなかった屋台がかすかに揺れ始めた。
 しめた、と思う。絵梨は屋台が前後に動くのにあわせて、2、3度壁を蹴った。振り子のような動きが、段々と大きくなってくる。最後に、絵梨は全力で壁を蹴った。
 大きな音がして、絵梨の体は投げ出される。乾燥した地面を転がって、絵梨の体の表面がひりひりした。
 課題は、終わったのだ。立ち上がってすぐに逃げなければ。
 そう思う絵梨の腕が、しかし次の瞬間、誰かにいきなり掴まれた。
「おい、何してくれんじゃ、ガキ」
 ガラの悪いどすの聞いた声が、頭上からした。そのまま腕をひねり上げられる。突然の事に絵梨の頭は一気に混乱した。逃げなければ、と思うが、体が動かない。足元にマンゴーに似た果物が一つ、転がってきた。
――まずい。
 店主が、コウを追うのを諦めて早々に帰って来たため、捕まってしまったのだと悟るまでに時間は早々かからなかった。小太りだと思っていた店主は、案外腕力があるらしく、絵梨の体を楽々と持ち上げている。足の裏が地面についていない。じたばたと体を動かしてみるが、どうにもならなかった。
 人々の視線が自分たちに集中している。作戦は失敗してしまったし、自分は絶体絶命だった。絵梨が絶望しそうになった、瞬間。
 突然後方から衝撃が襲って、絵梨は前から地面に倒れこんだ。きつくひねり上げられていた手がその瞬間に解放される。
 突然の事に混乱しかけた絵梨の耳に、聞き馴染んだ男の声が飛び込んだ。
「エリ、走れ!」
 リトの声だ、と思った。急いで立ち上がって、後ろを振り返った。絵梨と一緒に地面に倒れこんだらしい店主の背中に乗ったリトが、店主の腕をひねり上げていた。
「いいから、先に行け!」
 切羽詰ったきつい怒鳴り声だった。こんなリトは見たことが無い。絵梨は一瞬その迫力に押されて、何も言わないでただ走り出した。


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