第三章

トナシバ!


 少し薄暗い、放課後の校舎だった。
 階上にいた美冬の、自分を射るような視線。彼女にしては珍しい、物怖じしない真っ直ぐな視線に見つめられ、思わず気圧されて、言葉を失った。その次の瞬間だった。絵梨がこのジュノの町に迷い込んでいたのは。

 自分の前を歩いていくダンの背中を見ながら、絵梨は最後に見た美冬のことを思い出していた。
 そうだ、この世界に来る直前、絵梨と一緒にいたのは美冬だったのだ。もしかしたら今の絵梨のこの状況と美冬に、何か関係があるのかもしれない。それを思うとますます、あのパレードの中で見た少女の姿が美冬に見えたということが有り得なくもないような気がしてきた。
 ほんの少しだけ空が赤色がかってきた。もう数時間ほどしたら日が沈みはじめるだろう。ダンは何も言わずに少し早足で歩いていく。ジュノの街の中でも、絵梨の来た事のない場所だった。
「ねぇ、どこに向かってるの?」
 ジュノの街はどこも同じような建物ばかりが規則的に並んでいる。あまり知らない場所を歩いていると、何処へ行っても同じ場所を歩いているような錯覚に陥って、少し不安になってくる。
 ダンが振り返った。
「そう焦んなって。もうちょっとだ」
 本当にこの男についてきて大丈夫だったのだろうか。絵梨は唾を飲み込んだ。後悔してももう遅い。鼓動がほんの少し早くなってきたときだった。
「着いたぜ」
 そう言ってダンが立ち止まったのは、何の変哲もない民家らしき建物の前だった。予想外の状況に、絵梨は思わず顔をしかめた。
「どういうこと?」
 そう問う絵梨に、ダンはニヤリとしながら、少しあたりを見回した後、その建物の中に入っていった。慌てて絵梨がそれを追いかける。
 他の民家に比べると割と小さい建物で、埃をかぶった椅子とテーブル、何も入っていない小さな棚がひとつあるだけだった。人が住んでいる気配は全くしない。ダンはそのまま部屋を横切り、奥にある勝手口のような扉を開けて中庭らしき場所へ出た。
 手入れがされていないように見える芝生の中庭の真ん中に、井戸のようなものがあった。ダンはそこへ歩いて行き、かぶせてあったくたびれた一枚の布を勢い良く取り去った。
「一体なんなの?」
 一向に状況の理解できない絵梨は痺れを切らしてダンに問いかけた。ダンは変わらず笑みを浮かべながら絵梨に答える。
「こっから行くんだよ、王宮に」
「はぁ?」
 絵梨が思わず険しい顔をすると、ダンは持っていた布を投げ捨てながら、言った。
「これ、なんだと思う?」
「何って……井戸、でしょ」
「井戸、に、見えるよなあ」
 言いながら、ダンは井戸の中を覗き込んだ。絵梨もつられて一緒に中の様子をうかがう。
 長い間使われていないらしい井戸の内側の壁には、乾いた砂埃が張り付いているように見える。底が深すぎて光が届かないらしく、まるで闇に繋がっているようだった。
「ただの井戸じゃあないんだな、これが」
 得意げにそう言いながら、ダンは井戸の側に落ちていた長くて太いロープを井戸の中に投げ込んだ。投げ込んだのとは反対側の部分を、井戸の柱にくくりつけている。
「この町にある王宮は、今の王たちが使い始めてからあまり長くねえんだよ」
 作業をしながらダンが説明を始めた。
「どういうこと?」
「この国の都は、何度か場所を変えてるんだ。この町にある王宮は、大昔に滅んだ王国の、遺跡だったのよ」
 ロープを柱にくくり付け追えたらしく、ダンは振り返った。
「どうも元は軍事王国が使ってた城砦だったみたいで、あっちこちに罠やら抜け道やらが残ってるってわけ」
 得意気に笑って見せると、また絵梨に背を向けて、自分がくくりつけたロープの張り具合を確認している。
「……なんであなたがそんな事を知ってるの」
「おっ」
 絵梨が口にした疑問に、ダンは突然嬉しそうな声で反応した。
「なんだ、俺に興味持ってくれた?」
「違うわよ」
 苛立ちを露に絵梨は言うと、ダンをにらみつけた。
「そんなこと、あなたみたいな街の野良が知ってるなんておかしいじゃない。信じられないって言ってるのよ」
「あー、なるほどなあ」
 ロープの準備は完了したらしい。ダンは振り返って井戸のふちに腰掛け、絵梨に向かって肩をすくめた。
「街の野良だって、全くの無知ってわけじゃあ、ねえんだよ」
 絵梨は警戒しつつダンの顔を見た。野良。家もなく、まともに仕事をして金銭を稼いで生活をすることができない人々。そういった人間の存在は、絵梨の世界では貧困の象徴だし、貧困と無学はたいていの場合リンクしてしまう事象だ。
 だがこの世界ではそうでない、ということなのだろうか。
 ダンは井戸の内側の壁の一箇所を、手で軽く払った。砂埃が舞う。そこに夕焼けの光が当たって、きらきらと輝いているように、一瞬、見えた。
「――あ」
 絵梨がダンの触った場所をよく見ると、ただの井戸にはついていないだろうものがあった。鉄製の、輪のようなものだった。よくよくその辺りをみると、その輪っかは規則的に井戸の底の方まで続いている。さびが付いて汚く、脆くなっているが、この中を上り下りするための足場であることが、絵梨にもわかった。
「もしかして、この井戸が、王宮への抜け道ってこと?」
 ダンが満足げに笑って頷いた。
 絵梨はもう一度その井戸を観察した。見た目は確かにただの井戸に見えるが、普通の井戸にこんな足場はないだろう。思えばこの家は、人の住んでいる気配がないとはいえ、何も無い庭のど真ん中に井戸がひとつぽつんとある、風変わりな状況だ。だがダンの説明が本当ならば、納得がいく。
「賢けぇなあ、エリは」
 ダンが突然そんな事を言い出した。絵梨が顔を上げる。
「ただの貧乏人てわけじゃなさそうだ。なんで突然リトの仲間になったんだよ?」
「………」
 絵梨はダンの笑顔をしばらく無言で見つめた。リトとは因縁のある仲であるようだが、立場上は同じただの街の野良であるように見える。だが、ただの街の野良が持っているとは思えない王宮に関する情報を持っている、不思議な男でもある。絵梨の状況を、正直に洗いざらい話す、そんな価値のある男なのだろうか。
「……あなたには関係ないことよ」
 ほんの一瞬迷ったあと、絵梨は静かにそう答えた。ダンが気分を害した様子はとりたてない。
「ふーん。ま、いいけどよ。謎めいた美女ってのも悪くねぇしな。で、行くのか?」
 言いながら、顎で井戸の奥を示した。
 絵梨は今度は、迷わず頷いた。


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